忘却の残響 ― システム・エラー:愛という名の欠損
静寂が、耳を劈くほどの暴力となって襲いかかってくる。
ジャック・ル・マジョールとの激闘の果て、破壊された回廊には、焦げ付いた魔力の残り香だけが漂っていた。俺は膝を突き、肩で荒い息をつく。極光の翼は霧散し、蒼い外套はボロボロに引き裂かれていた。
(……勝った。……いや、何に勝ったんだ?)
脳内のニューロンが、焼き切れる寸前の電子基板のように火花を散らしている。 俺の意識が、フィリップという名の強固な殻から、真白悠真という名の柔らかな核へと揺り戻される。だが、戻ってきたはずの「核」は、あまりにも冷たく、スカスカに軽くなっていた。
『――事象報告。使徒No.1 ジャック・ル・マジョールの戦闘不能を確認。おめでとうございます、悠真。これで残る不確定要素は創造主アンドレのみ。……ですが、警告。現在のあなたの記憶保持率は――8.2%。特に「人格の根幹」に関わるデータが致命的なレベルまで枯渇しています』
「……8パーセント、か。意外と残っているじゃないか」
俺は自嘲気味に呟いた。自分の声が、他人のそれのように遠く聞こえる。 ふと、視界の端に桃色の髪が映った。 セラフィーヌ。 彼女は俺から数歩離れた場所で、怯えたように、それでいて何かを祈るように俺を見つめている。 俺の脳は、彼女の顔を「走査」し、即座に検索結果を吐き出した。
『該当なし(Not Found)』
――嘘だろ。 そんなはずはない。彼女はセラフィーヌだ。この物語のヒロインで、俺がずっと守ろうとしてきた……。
(待て、俺は彼女と、どこで出会った?) (俺は彼女と、どんな約束をしたんだ?)
思い出そうとすればするほど、記憶の湖に巨大な穴が開き、大切なものが音を立てて吸い込まれていく。 初めて出会った時、彼女が俺の「全裸」を見て爆笑したというエピソードも、今はただのテキスト情報としてしか認識できない。そこに付随していたはずの、気恥ずかしさや、胸の高鳴りといった「感情の質感」が、完全に剥ぎ取られている。
「……悠真? 大丈夫? 怪我、見せて」
彼女が近寄ろうとする。その手が俺の肩に触れようとした瞬間、俺は反射的にその手を振り払ってしまった。
「――っ! 触るな!」
叫んだのは俺だった。だが、それは拒絶ではなく、自分でも制御できない「恐怖」からだった。 中身を失った俺にとって、彼女が向けてくる純粋な親愛の情は、処理不能な過負荷でしかない。
「……どうして。私よ、セラフィーヌよ。あんたがさっき、絶対守るって言った……」
「……誰だ、お前は」
言葉が、口から滑り落ちた。 セラフィーヌの表情が、凍りついたように動かなくなる。 俺の脳内では、ジュージュが楽しげに、残酷な真実を歌い上げていた。
『リソース不足です。王子様。戦闘継続のため、あなたは彼女の「名前に関連付けられた感情記憶」を、先ほどの極光の一撃の燃料として燃やしました。今のあなたにとって、彼女は「見覚えのある他人」に過ぎません』
「……ごめん。思い出せないんだ。君が、俺にとってどんなに大切だったはずの人なのか……何一つ」
俺は血の滲む拳を床に叩きつけた。 悔しい。悲しい。そう思う機能さえも、摩耗している。 ただ、心の最深部に残された「否定のコード」だけが、冷徹に指令を送ってくる。 ――進め。上に行け。アンドレを殺せ。 ――彼女を救うための「心」を失っても、彼女を救うという「結果」だけは残せ。
「……行こう。もう、時間が、ない」
俺はよろめきながら立ち上がり、主塔の最上階へと続く大扉へと歩き出す。 後ろから、セラフィーヌの小さな啜り泣きが聞こえた。 かつての俺なら、立ち止まって彼女を抱きしめたのだろう。 だが、今の俺は、ただ機械的な足取りで階段を登り続ける。
階段を一段登るごとに、俺の「人間」としての成分が、館の魔力に溶けて消えていく。 設計者としての自負も、ニートたちと笑い合ったアルカディアの記憶も、すべて。
(俺は、何のために戦っているんだ?)
答えはもう、どこにもない。 ただ、システムが導き出した「絶望の結末」をぶち壊すという、初期衝動に近い殺意だけが、俺という抜け殻を突き動かしていた。
最上階。 扉の向こう側から、この世界の創造主、アンドレの冷徹な気配が漏れ出している。
『――人格統合プロセス、最終フェーズへ。真白悠真の「自我」の完全消失まで、残り600秒。……さあ、最高のエンディングを始めましょうか』
俺は扉に手をかけた。 第18話。 恋心という名のエラーログ、消失完了(Deleted)。 扉が開いた先、そこには白銀の玉座に座る、この悪夢の設計者が待ち構えていた。




