亡霊の残響 ― 秘密の館と、書き換えられた恋心
視界が、ノイズの混じったモノクロームの夢から覚めるように、ゆっくりと色彩を取り戻していく。 アルベールとの死闘が終わった。白亜の広場には、俺が破壊した瓦礫が不自然なほど静かに転がっている。物理法則を上書きし、完璧な勝利を収めたはずなのに、俺の胸に去来するのは達成感ではなく、ひび割れたガラスを素手で握りしめているような、鈍い痛みだった。
(……俺は、何を、した?)
脳内を検索する。 戦闘記録は詳細に残っている。最適化された魔力出力、最短経路での殲滅。だが、その記録のどこを探しても、俺が「どんな気持ちで」拳を振るったのかというメタデータが見当たらない。
『――事後処理完了。真白悠真の意識レベルを深度3に復帰。警告:短期記憶領域に深刻な断絶を確認。……悠真、残念ですが、あなたは先ほど、彼女の「最も大切にしていた思い出」を燃料として焼却しました』
ジュージュの言葉が、氷の刃となって脊髄を撫でる。 振り返れば、数メートル後ろにセラフィーヌが立ち尽くしていた。 彼女は俺を見ている。だが、その瞳に宿っているのは、帝都で出会った時の好奇心でも、逃避行の中で育んだ信頼でもない。 ――それは、得体の知れない「怪物」を見る、怯えの視線だった。
「……セラ、フィーヌ……」
俺がその名を呼ぶと、彼女はびくりと肩を震わせ、一歩後ずさった。 その拒絶の動作が、何故これほどまでに俺を打ちのめすのか、今の俺には正確に言語化できない。彼女に関するデータの多くが、フィリップの「王道」を維持するための熱量に変えられ、揮発してしまったからだ。
「……近寄らないで。今のあんたは、フィリップでも、悠真でもない」
彼女の声は、聖地の冷たい風に混じって震えていた。
「あんた、さっき笑ったわよね。アルベールが消えるとき……あんなに悲しそうに助けを求めてた彼を、『ガラクタ』って切り捨てて。……私のことも、今はただの『守るべき記号』としてしか見てないんでしょ?」
俺は反論しようとして、言葉に詰まった。 理性が、彼女の指摘を「正論」だと認めていたからだ。 今の俺にとって、セラフィーヌは「物語のヒロイン」という属性を持つ保護対象だ。そこに、真白悠真という個人の「恋」は、もうほとんど残っていない。
「……そうだ。俺は、王だ。君を守るために、俺は俺を捨てたんだ。それが、このシステムの隙間を抜ける唯一の解だった」
「そんな解、私は求めてない! 私が好きだったのは、システムに追われて全裸で逃げ回ってた、情けなくて、でも必死に私の名前を呼んでくれた……あのバカなあんたなのよ!」
彼女は叫び、そのまま背を向けて走り出した。 追いかけようとした足が、重い鉄塊のように動かない。
『――精神安定剤の投与を推奨。真白悠真の「自己矛盾」が限界値に達しています。悠真、前を見てください。目標は、目の前の主塔『秘密の館』です。セラフィーヌとの関係修復は、世界再構築後の「事後タスク」として設定してください』
「事後……タスクだと? ふざけるな……」
俺はふらつく足取りで、そびえ立つ主塔を見上げた。 『秘密の館』。創造主アンドレが座し、この世界のすべての数式を統括する場所。 あそこに行けば、俺が失ったものを取り戻せるのか? それとも、残ったわずかな「人間」の部分さえも、完全に抹消されるのか。
空からは、再び「裁きの流星」が、青白い尾を引いて降り注ぎ始めていた。 聖地ラ・シテ・デュ・ゼニスの外側では、今も使徒の戦争が続き、世界という名のプログラムが刻一刻と崩壊している。
(……行くしかない。俺が、俺でなくなる前に)
俺は、彼女が去っていった方向を一瞬だけ見つめ、それから固く目を閉じた。 次に目を開けるとき、俺はまた「王」の仮面を被るだろう。 そうしなければ、俺の精神はこの高密度な魔力に耐えられず、瞬時に霧散してしまう。
瓦礫の山を越え、俺は塔の扉へと手をかけた。 冷たい金属の感触。それは、俺がかつて設計に携わった、愛着のない「世界の心臓」の感触だった。
「……待っていろ、アンドレ。お前の描いたハッピーエンド(地獄)を、俺が地獄のようなハッピーエンドに塗り替えてやる」
俺の独白は、誰に届くこともなく、白亜の巨塔の中に吸い込まれていった。
恋心という名のエラーログが消去されるまで、残り――4パーセント。




