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プログラムの涙 ― 零れ落ちる断片と、偽りの王座

熱狂の余韻は、冷たい灰となって俺の意識に降り積もる。    双子の使徒を退け、聖域アルカディアの空を蒼く染め上げた「奇跡」。人々はそれを英雄の再臨と呼び、救世主の名を叫んでいる。だが、その喧騒から離れた廃工場の屋上で、俺は壊れかけた機械のように動けずにいた。


(……今、何が消えた?)


 脳内の記憶ストレージにアクセスする。  そこには、かつて「真白悠真」を構成していた膨大なデータ群があった。しかし、先刻の全力行使――フィリップという人格への完全な没入の代償として、また一つ、重要な領域が黒く塗りつぶされている。    それは、帝都の大学に通っていた頃の、ある夏の日の午後の記憶。  木漏れ日の中で、俺が誰かと笑い合い、将来の夢を語っていたはずの情景。  誰といたのか? 何を話したのか? その「誰か」の顔が、霧に巻かれたように思い出せない。


『――システムログ:真白悠真の「社会的人格ペルソナ」に致命的な欠損を確認。全記憶の64%が消失またはフィリップの戦闘ログによって上書きされました。警告、現在のあなたは「物語を進めるための装置」へと変質しつつあります』


 ジュージュの音声が、無慈悲に現実を裁く。  俺は震える手で、自分の顔を覆った。   「……装置、か。アンドレの作った数式通りじゃないか」


 皮肉な話だ。俺はこの世界を支配するアルゴリズムを壊すために、自らを「フィリップ」という名の最強のアルゴリズムへと書き換えている。絶望を上書きするための希望。だが、上書きされた後のキャンバスに、俺(悠真)という色はもう残っていない。


「フィリップ? ……そこにいるの?」


 背後から、セラフィーヌの声がした。  俺は反射的に、背筋を伸ばし、絶望を仮面の裏へと押し隠す。  真白悠真の弱さは、この物語には不要だ。


「……フッ。セラフィーヌか。王の休息を邪魔するとは、相変わらず無作法な娘だな」


 振り向いた俺の顔には、完璧な「フィリップ」の微笑みが張り付いていた。    彼女は俺に近づき、その小さな手で、俺の頬に付いた戦火の煤を拭った。  その瞳は、勝利を喜ぶ群衆のものとは違っていた。鋭く、そして深く、俺の内側を見通そうとする――「ノイズ」特有の、計算外の優しさ。


「……ねえ。さっき、一瞬だけ、すごく悲しそうな顔をしてた。あんた、誰なの? 本当に、私が知っている『全裸の王子様』なの?」


 心臓が、痛いほどに跳ねる。  真白悠真という残滓が、彼女の腕の中に飛び込みたいと、すべてを打ち明けたいと叫んでいる。  俺は、真白悠真だ。アンドレの計算を憎み、君というノイズを愛してしまった、臆病な設計員なんだと。    だが、喉を突き抜けて出た言葉は、冷酷なまでに「王道」だった。


「何を言う。オレはオレだ。貴殿を救い、世界を導く唯一の王。それ以外の何者でもない」


「……嘘。あんたの目、笑ってないもの」


 彼女の手が、俺の胸に置かれる。  その体温が、消失していく俺の記憶を繋ぎ止めようとする錨のように感じられた。   『――計測:セラフィーヌの心拍数上昇。彼女の「恋」という変数が、フィリップの構築を阻害しています。王子様、彼女を遠ざけなさい。情に流されれば、次の「裁きの流星」を防ぐ演算が間に合いません』


 わかっている。  俺が彼女を愛すれば愛するほど、俺は「真白悠真」として死んでいく。  彼女が守りたいと思っているこの世界を、彼女自身を守るために、俺は俺を捨てなければならない。    これが、創造主アンドレが仕組んだ最大の皮肉か。  「愛」という最も強力なノイズこそが、英雄を完成させるための、最も効率的な「生贄」なのだ。


「セラフィーヌ。……オレから、目を逸らすな。だが、オレの『中身』を探ろうとするな」


 俺は彼女の手を、静かに、しかし拒絶の意志を込めて退けた。


「オレが王である限り、君は安全だ。……それで十分だろう?」


 彼女の瞳に、絶望の色が混じるのを俺は見逃さなかった。  俺を守ろうとした彼女を、俺が傷つける。  この歪な因果律さえも、あのアンドレという怪物の計算式に含まれているのだろうか。


「……わかったわよ。勝手にしなさい。あんたが『王様』を演じ続けたいなら、私が世界一の『観客』になってあげるわ」


 彼女は背を向け、走り去っていった。  夕闇の向こうへと消えていく彼女の背中を見つめながら、俺の意識の底で、真白悠真が静かに涙を流した。


 ――これでいい。    俺という名前が消え、ただの「希望という名の記号」になったとしても。  彼女が、このノイズに満ちた世界で明日を迎えられるのなら。


『――事象確定。真白悠真、最初の「自己犠牲」を選択。……お疲れ様です。物語は、あなたの死を糧に、より美しく輝き始めましたよ』


 ジュージュの嘲笑が、夜の風に溶けて消える。    俺は一人、蒼い外套を翻して歩き出した。  次に目覚める時、俺はまた何かを忘れているだろう。  それでも、俺は「王道」を往く。  自分という存在を、すべて使い果たすその日まで。


 聖域アルカディアの夜は、どこまでも深く、そして孤独だった。

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