07 使者
朝議の間には、重たい沈黙が流れていた。李傕と郭汜は並んで坐していたが、その顔には平静とはほど遠い色が浮かんでいる。
数刻前、一報が届いた。曹操が、使者を都へ送ってきたというのである。何を企んでいるのか。二人の胸中に、同じ疑念が生まれていた。
董卓亡きあと、関東の群雄はそれぞれ旗を掲げ、漢室を奉じる者、自立を唱える者、さまざまに割れていた。その中で曹操は兗州を拠点とし、着々と勢力を広げている。忠義を口にしつつも、兵を蓄える者の腹の内など、信じられるものではない。郭汜は唇を歪め、李傕は黙して腕を組んだ。
「通すべきではあるまいな」
郭汜が呟くと、李傕はうなずいた。
「幕僚を集める。まずは使者を留め置け。腹を見極める必要がある」
こうして、その日のうちに評議の席が設けられることとなった。
李傕と郭汜の胸中には、恐れと疑いとが入り混じっている。涼州軍の武威に支えられて都を制してはいるが、その支配は盤石ではない。関東の群雄は虎視眈々と機をうかがい、都に巣くう派閥は未だ一枚岩にならぬ。曹操の動きひとつで、情勢はいくらでも転がりかねなかった。
やがて、幕僚たちが呼び集められた。長安の官衙の奥にある評議の間には、李傕・郭汜の側近、将、書吏、そして策士たちが顔を揃える。
張り詰めた空気の中、ひときわ異彩を放つ男がいた。賈詡。涼州の出であり、董卓の時代からその才を知られた男である。その姿は痩せ、眼光は笑みを宿さず鋭い。柔らかな声と穏やかな物腰の内に、底知れぬものを忍ばせている。
廷臣たちは、彼に対して警戒を抱かずにはいられなかった。その口から放たれる言葉には、逆らいがたい力が潜んでいる。
「諸君」
賈詡は先んじて口を開いた。
「曹操が使者を送ってきた。これは一見、美談のように聞こえる。朝廷を敬い、漢室に心を寄せていると。だが」
わざと一拍置き、場の視線を引き寄せる。
「諸侯の中で兵を持ち、勢いを伸ばしている者が、漢室に頭を下げるなど、そんな話があるものですか。忠義を飾る裏には、必ず腹がある」
その声には、奇妙な説得力があった。賈詡は軽く笑みを浮かべ、李傕と郭汜の顔を順に見た。
「今、関東の群雄はみな、自分の旗を立て、天子の名を借りて好き勝手をしている。曹操も同じく、いずれ兵を進めて我らを討つ心積もりでしょう。使者はその手始めです。道を開けてやれば、やがて大軍が押し寄せるでしょうなあ」
場内にどよめきが走った。幕僚の何人かは顔を見合わせ、小声で囁き合う。李傕と郭汜も互いに視線を交わした。二人の心にはもともと猜疑があった。それを賈詡の多弁が、形ある不安へと変えていったのだ。
賈詡がさらに続ける。
「なに、使者を殺せとは申しません。しかし、通してはなりません。曹操は今や兗州を支配し、兵は精強。もし内通すれば、我らが弱みを握られる。ここは一度、静観がよろしいでしょう。使者は留め置き、曹操の出方を見極めるのです」
そのとき鍾繇は、部屋の隅に控えていた。廷臣として列席してはいたが、賈詡のように声高に発言することはなく、ただ情勢を見ていた。賈詡の言葉は巧みである。虚実を織り交ぜ、相手の猜疑心をくすぐる。この場の空気が、いつの間にか彼の掌に収まりつつあることを、鍾繇は冷静に見抜いていた。
多弁に見えて、賈詡は余計なことを一つも言っていない。油断を誘うように見せかけて、最初から場の流れを握っている。この局面を動かすには、真正面から言葉をぶつけるだけでは足りぬ。鍾繇はそう判断した。
場の空気は、賈詡の言葉にすっかり染め上げられている。猜疑と恐れとが絡み合い、李傕と郭汜の視線は揺れ、幕僚たちの顔にも迷いが浮かんでいた。誰もが賈詡の論にうなずきながらも、決定を口にすることは避けている。その沈黙の奥に、恐れと同時に、一抹の不安が潜んでいた。
鍾繇は、しばしその様子を見つめていた。人々の息遣いさえ遠くに感じられるほど、場は張り詰めている。彼の眼には、評議の間がひとつの盤として映っていた。それぞれの胸中に潜む思惑が、いま目に見えぬ線となって絡み合い、賈詡の言葉を軸に均衡を保っている。
盤は、わずか一手で崩れもすれば、別の形へ転じることもある。彼にとって、言葉とは力を操る道具ではなく、盤を動かす手である。場の流れが賈詡に傾ききったこの一瞬こそ、盤上に一手を打つ好機であった。
鍾繇が立ち上がると、評議の視線が自然と集まった。普段、多くを語らぬ鍾繇が口を開くとき、それは何か意味を持つと誰もが感じたからである。賈詡もまた、細めた目でその一挙手一投足を見逃すまいとしていた。
「いま、諸侯はそれぞれ旗を掲げ、己が地に兵を構えております」
鍾繇の声は一言ごとに揺るぎない力があった。
「天子の命と称して軍を動かす者もあれば、自立を唱えて天下を狙う者もある。漢室の権威は、今や諸国の旗の飾りと化しました」
李傕と郭汜の眉がわずかに動く。賈詡もまた、無言でその言葉を聞きながら、鋭い視線で鍾繇を測っていた。評議の間の空気は、一歩ごとに張り替えられていく。
「そのなかにあって、曹操ただ一人、漢室に心を寄せ、礼を尽くしている。これを疑い、拒めばどうなるか」
鍾繇は一歩進み、評議の中央をゆっくりと見渡した。
「忠義を疑うことは、義を失うこと。義を失えば、天下の人心は我らから離れましょう。今この使者を留め置けば、それは曹操一人を退けることではない。天下に向けて、我らが漢室を軽んずる姿を晒すこととなるのです」
その言葉に、評議の間に微かなざわめきが走る。賈詡の論が人々の心に植えた猜疑の根を、鍾繇の理が揺さぶり始めていた。廷臣たちの視線が少しずつ揺らぎ、互いの顔を窺いはじめる。彼の言葉は感情に訴えるものではなく、理路整然とした一条の筋であった。その筋は、恐れに絡め取られていた廷臣たちの心を、少しずつほどいていく。
郭汜が口を開いた。
「曹操が誠に漢室を敬っておると、お前は信じるのか」
鍾繇は即答せず、わずかに視線を落としたのち、言葉を紡いだ。
「信じる、信じぬの問題ではありませぬ。漢室に心を寄せる姿勢を、天下に示すことこそ肝要。この局を疑いから始めれば、やがてすべてが疑いに呑まれましょう」
その声音には、怒号も激情もない。ただ、重ねた言葉の一つ一つが、評議の場に確かな輪郭を与えていく。鍾繇の背後にある確信が、次第に人々の心に沁みていった。
やがて李傕が深く息を吐き、郭汜と視線を交わす。二人の顔には、まだ迷いが残っていたが、それ以上に情勢を読み違えることへの恐れがあった。
「……使者は、通そう」
李傕が呟くと、幕僚の間に微かなざわめきが広がった。郭汜もやがてうなずき、使者の拘束を解く決定が下される。
賈詡は、ただ鍾繇を見つめていた。その表情に驚きはなく、むしろ興味を覚えたような微かな笑みが浮かんでいる。彼にとって、この評議はあくまで一つの場。盤を読み、相手を測る機会にすぎぬ。鍾繇が場を動かしたその瞬間、賈詡は胸中でひとつ印をつけた。
この男、侮れぬ、と。




