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06 雌伏

 廷中には、人の声よりも静寂の重さが満ちていた。董卓がたおれたのちは、都に秩序が戻るかと思われたが、それは一瞬の幻に過ぎず、権力の空白はかえって混迷を深めた。群臣は互いの腹を探り合い、目線だけで意を通わそうとする。声を上げた者から順に、姿を消していったためである。


 涼州から入関して長安に入った李傕りかく郭汜かくしが、今や宮中の実権を握っていた。董卓の残兵と武威を背景に、朝廷を力ずくで押さえつけている。しかし、その支配は地に根を張るものではない。都に地縁もなく、士人や官僚を束ねる人脈も持たない二人にとって、宮中は得体の知れぬ敵の巣に等しい。彼らは、権力を貪ろうとしたというより、むしろ怯えながらそれを掴み取ったのだ。


 二人の支配の足元には、目に見えぬ綻びがすでに生じていた。涼州軍の兵たちもまた、都の空気に馴染めずにいる。狭い街路と高い城壁、目を伏せて行き交う民の姿は、彼らにとって異郷そのものであった。郷里を遠く離れ、いつ敵に囲まれるとも知れぬ土地で、心の底に燻る不安は日に日に大きくなっていく。この不安は将にも兵にも伝わり、幕僚の報告には次第に苛立ちが混じるようになっていった。


 李傕は粗暴だが用心深く、郭汜は猜疑深く短慮なところがある。両者は互いを完全には信じず、しかし涼州軍を維持し都に留まるためには手を組むしかなかった。夜ごと宮中では彼らの幕僚がひそかに集まり、敵対勢力の噂や裏切り者の名が飛び交う。武力で地を奪ったとはいえ、長安の朝廷という盤の上では、常に背中に刃を感じていたのだ。


 郭汜の幕僚の一人はある夜、郭汜に進言した。


 「この都は我らの地ではございませぬ。士人らはみな、心を別の方角へ向けております」


 郭汜は酒をあおりながら、唇を歪める。


 「わかっておる。しかし、退けば涼州へ戻るしかない。董公のごとく兵を動かす力も、我らにはないのだ」


 声には焦燥が混じっていた。彼は都での支配が長く続かぬことを、誰よりもよく理解していたのである。しかし、その進言が具体的な策へと結びつくことはなかった。恐怖と焦燥が先立ち、彼らには動くための余裕がなかったのだ。


 一方の李傕もまた、心中では同じ不安を抱えていた。ある夜、彼は寝所に地図を広げ、幕僚に問うた。


 「関東の群雄が兵を起こしておると聞く。やつらがこの都を狙えば、我らは防げるか」


 幕僚は答えに窮する。李傕は地図の上に拳を置いて唸った。


 「都を奪ったはよいが、ここは俺たちの地ではない。城壁も民も、俺たちを支えてはくれぬ」


 その声は、力ある将軍というより、暗い森の中で道を失った男のそれである。


 廷臣たちの列には、不安と恐怖とが折り重なっていた。昨日まで朝堂に並んでいた顔が、今朝には牢に繋がれている。官職の札は風に吹かれる木の葉のように入れ替わり、誰が次に消えるのか、誰も予測できなかった。


 士人の中には、病を理由に郷里へ退こうとする者もいれば、密かに他派へ通じようとする者もある。中には李傕・郭汜への取り入りを図って自ら身を守ろうとする廷臣もいたが、その姿には切迫した生存本能がにじんでいた。


 鍾繇は列の端に立ち、廷臣たちの顔ぶれを見渡す。眼差しに感情はなく、力の線とその交錯を、ただ盤面を読むようにとらえていた。長安から東西南北へと伸びる街道、関中の諸勢力、各地の士人の結びつき。それらを一つの盤として脳裏に描き、筋と筋が交わる場所に未来の局面を読み取ろうとしている。人はそれぞれ自らの思惑で動くが、その流れはやがて大きな潮流へと収束する。彼はその潮流を先に見極め、手を打つことを己の役目と定めていた。


 昼過ぎ、郭汜の配下が内廷へ踏み込み、宦官を捕らえたとの報が届いた。廊下を行く廷臣たちは、顔を見合わせるばかりで声を立てぬ。董卓が遺した恐怖はまだ宮中を縛り、人々の目は常に背後をうかがっていた。宦官派の残党はすでに勢いを失っていたが、地下で密告と復讐の連鎖が続いている。どこに踏み込めば命を落とすかわからぬ空気が、都全体を覆っていた。


 李傕と郭汜の幕僚は、こうした不穏な空気を逆に利用した。疑わしい者を一人ずつ摘み上げ、粛清と処断を重ねることで涼州軍の威を示そうとしたのである。だがそれは統治というより、自らを守るために振るう剣に近かった。彼らは自分たちが都で孤立していることを知っており、怯え、焦っていた。鍾繇の目には、二人が強者として振る舞いながら、同時に追われる者のようにも映った。


 鍾繇は吏舎の一室に戻ると、几の前に坐り、筆を取った。昼間の出来事を簡潔に書き留め、ひとつ書いては筆を止め、思考を巡らせる。郭汜の行動は偶発ではない。宦官派を牽制し、李傕がそれを黙認した。盤上に一本、確かな線が引かれた瞬間であった。地図に描けば、それは都の中心で互いを締め合おうとする二本の縄である。結びはまだ固くないが、時間が経つほど、もつれは深くなるだろう。


 鍾繇は筆を置き、几の上に都の地図を広げた。目を閉じると、地図の上に線が浮かび上がる。李傕・郭汜の兵力配置、城門の閉鎖時刻、宦官派残党の潜伏先、郷里へ退こうとする士人の動き。線は絡み、ほどけ、また新たな筋が生まれる。ひとつひとつを確かめながら、鍾繇は無言で思考を進めた。盤は形を変え続けている。目に見える権力よりも、目に見えぬ流れこそが、いずれ都の命運を決めると彼は確信していた。


 夜、城門が閉ざされると、長安は深い闇に包まれる。昼の喧噪が嘘のように静まり、瓦の継ぎ目を抜ける風が、低く長い唸りをあげた。遠くから兵の履の音が響き、火番の交代を知らせる角笛が短く鳴る。都全体が、嵐の前の海のように張り詰めていた。


 鍾繇は窓辺に立ち、闇の街を見下ろした。闇の向こうで、何かが形を変えつつある。しかしまだそれは輪郭を持たず、盤は完全には定まっていない。


 鍾繇は灯を落とし、深く息をついた。都は混沌のただ中にあり、人々はそれぞれの思惑と恐怖のなかを泳いでいる。だが彼の胸中には、一点の静謐があった。盤が動くときは必ず訪れる。その瞬間を誤らなければ、道は開ける。その確信は、闇のなかでひそやかに燃えていた。



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