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05 胎動

 洛陽は、一夜にしてそのかんばせを変えた。


 霊帝の崩御は、長く抑え込まれていた膿を一気に噴き出させる契機となる。幼帝が即位すると、外戚と宦官の対立は激化し、やがて何進かしんが宦官誅殺を企てた。だがその策は、宦官たちに先んじられる。何進は宮中に誘い出され、暗殺された。


 その報せが洛陽中を駆け巡るや否や、宮中は修羅場と化した。外戚派は激昂して宦官邸を襲い、宦官たちは皇帝を人質に禁中を封鎖する。刃と血が回廊を走り、政変は一日で収拾不能となった。


 混乱のさなか、董卓とうたくが兵を率いて洛陽へと入城した。涼州の兵は砂塵を巻き上げ、城門を押し開いてなだれ込む。城壁の上から見下ろす民は、口を閉ざし、ただ黙ってそのさまを見守るしかなかった。


 董卓はすぐに朝廷を制し、少帝を廃して献帝を擁立する。帝坐の背後には涼州軍の威圧があり、廷臣たちは声を上げることもできず、口を閉ざしていった。洛陽はこの日を境に、権力の軸が完全に董卓の手へと移ったのである。


 街では見知らぬ言葉を話す兵たちが闊歩し、店々の戸は閉ざされた。人々は互いに目を合わせることを避け、声を潜め、ただ嵐が過ぎるのを待っている。しかし、嵐は去るどころか、都そのものを呑み込もうとしている。


 董卓の背後には、力ある涼州の武将たちとともに、策を弄する一団がいた。その中で、賈詡かくという男の名がひそかに囁かれ始めている。董卓が洛陽を掌握するにあたり、陰で策を授けているのはこの男であると噂されていた。廷臣たちの間に、その名は確実に伝わり始めている。


 鍾繇は吏舎の一室で、この政変の一報を立て続けに受け取っていた。洛陽の空は晴れていても、都の空気はすでに濁流のように変わっている。札に記された出来事は、ただの報せではない。盤上の駒が、次々と新しい位置へと動いていく音だった。


 董卓が洛陽に入って以来、宮中の空気は一変した。新たな支配者は、恐怖によって都を掌握しようとしたのである。


 まず矛先が向けられたのは、宦官派と外戚派の残党だった。董卓は彼らを次々と粛清し、わずかに生き残った者たちも地方へ追放された。やがてその手は、廷臣や士人たちへと伸びる。誰が味方で、誰が敵か。董卓は涼州から連れてきた密偵と官人を用いて、宮中の動きを逐一監視した。


 廷臣の顔ぶれは日ごとに変わり、昨日まで執務していた者が、今朝には牢に繋がれている。吏舎に並ぶ名札は、風に吹かれる札のように入れ替わり続けた。洛陽の士人たちは、声を潜め、室に籠もり、互いの安否を探り合うばかりだった。


 荀攸もまた、その渦に巻き込まれたひとりである。


 董卓政権に対し、公然と異を唱える者はいなかったが、彼の存在は目立っていた。宮中での発言力と士人からの信頼の高さが、逆に董卓の猜疑を招いたのである。


 ある夜、董卓の配下が荀攸の邸に踏み込み、彼を拘束した。理由は明かされず、ただ詮議のためとだけ告げられた。翌朝、都の一角にある牢に繋がれたという噂が広まり、士人たちの間に冷たい衝撃が走る。


 鍾繇はその報を吏舎で聞いた。驚きはない。むしろ、政変が本格的に士人層へ及び始めたことを、ひとつの兆しとして受け止めた。都はすでに、言葉ではなく呼吸ひとつで運命が左右される空気に変わっている。


 幸いだったのは、荀攸の周囲に、彼を支える者たちがいたことだ。廷臣の中には董卓の猜疑の目をかわしつつ、密かに荀攸を助けようと動く者があり、また一族・知己の中にも奔走する者がいた。数日のうちに、獄の守衛を買収し、彼は夜陰に紛れて牢を出た。


 脱出は迅速で、消息はすぐに掴めなくなった。ただ、洛陽の朝の空気がわずかに変わったことで、人々はその一報を察する。声に出す者はいなかったが、荀攸が都を離れたことは、士人たちの間で密かに共有された。


 それを知った鍾繇は、几に積まれた書簡を見つめた。荀攸がいなくなったことで、洛陽の廷臣の中から、清流がひとつ消えた。残されたのは、董卓の暴威である。


 士人たちは再び郷里や地方へと退き始めた。誰もが都に留まることの危うさを悟り、洛陽を去っていく。学問の場も議論の場も閉ざされ、かつての知的な活気は跡形もなく消えた。


 鍾繇はその流れを追おうとはしなかった。ただ、都という巨大な盤の上で、駒が消えていくさまを冷徹に見つめていた。動揺や怒りはない。ただ、渦が形を持ちはじめる音が、彼の胸の内に確かに響く。


 洛陽の街は、見た目こそ整っていたが、その内側では刻一刻と地形が変わっていた。混乱は単なる一過の嵐ではない。宦官と外戚の争いに董卓が割って入ったことで、権力の流れそのものが別の筋を描き始めている。


 鍾繇は吏舎の一室で、都じゅうから舞い込む書簡や報告を几に積み重ね、その全てに目を通していた。それは報せであると同時に、盤上の駒の移動を記した記録でもある。人が動き、組織が崩れ、新しい名が台頭し、古い名が消えていく。筆跡の違いが、そのまま勢力の流れの違いを示していた。


 董卓は朝廷の実権を掌握したが、その力は決して一枚岩ではない。涼州の兵力は強大だが、中央の支配は未だ浅い。その背後には宦官派の残滓、外戚の遺族、地方の群雄、そして散り散りになった士人たちが、表には出ぬまま蠢いている。


 鍾繇の脳裏には、洛陽を中心とした勢力図が描き出されていった。都は盤であり、その上で董卓は力任せに駒を動かしている。しかし、力のみでは盤は掌握できぬ。どこかで必ず、別の駒が新たな流れを生み出す。


 洛陽の士人は口を閉ざし、地方の群雄たちはそれぞれの地で爪を研いでいる。宦官派は壊滅したとはいえ、残党は地下に潜り、外戚の遺族たちもまだ息を潜めている。盤上はまだ定まってはいない。


 鍾繇は、巻物の一つを開いたまま手を止めた。書かれているのは潁川からの便りである。そこには、郷里の士人たちが結束を強め、都の混乱を静観しながら、次に備えている様子が記されていた。都に残った者と去った者、その立ち位置の差が、これからの世の趨勢を決めていくことになる。


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