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33 晩照

 許の城門の外には兵を送り出す列が連なり、荷駄車の車輪が大地を踏みしめながらゆっくりと進む。旗の列が南へ延び、大軍の進発を告げている。


 建安十九年。曹操は孫権討伐の遠征に乗り出した。戦乱はふたたび都を包み、街のあちこちに熱と緊張が入りまじっていた。


 吏舎には各地からの奏や報が届き、都と地方を結ぶ書簡の流れはひとときも絶えぬ。鍾繇はその中心にあり、積み重なる案件をさばき続けていた。荀彧が去って以後、議の場を正す者は減り、都の規律を守る手が求められていた。


 戦の波が外へと広がる一方で、都の内側でも刻一刻と政が積み重ねられていく。鍾繇の一日は、いつもこの吏舎の几の前から始まった。吏たちは封泥を割り、奏や報を手際よく仕分けている。


 鍾繇は席に着くと、まず戸籍と田地の報告に目を通した。戦乱が続いた地では戸口の変動が激しく、正確な数を把握するのは容易ではない。徴発を避けて他郡に移る者も多く、土地の荒廃や耕作放棄の記録が並んでいる。


 「この郡は報と実数に開きがある。再調を命じよ」


 粛々と告げると、吏が控えの筆録に書きとめた。


 次に手に取ったのは、穀物の徴収と倉の備蓄に関する報告である。中原では麦や粟、稗といった穀物が主に耕され、都市の糧は各地からの徴収と輸送によって支えられている。路が荒れたり倉の管理が乱れたりすれば、ただちに供給に支障を来す。報告書には、倉の修繕箇所や路の損傷、徴収の遅れが記されていた。鍾繇は地図を広げ、報告と照らし合わせながら改修と輸送の優先順位を決めていく。


 「潁川の路は早めに直さねばならぬ。雨期になれば車は通らぬ」


 指示を受けた吏が、すぐに控を抱えて走り去った。


 昼近くになると、地方官の任免に関する奏がいくつも届いた。戦乱で人材が不足している郡では、臨時の代官や郷士が政を代行している例も少なくない。候補者の履歴と郡の情勢を照らし合わせ、一巻ごとに慎重に判断を下す。ある郡では徴税の遅延と戸籍の乱れが報告され、鍾繇は奏を読み返したのち、筆を執り、新任の推挙を付け加えた。地方の統治は国の根を支えるものであり、任命一つの誤りが、やがて大きな乱れに繋がる。


 午後になると再び書簡が運び込まれ、吏たちの動きは一段と忙しさを増した。租税、戸口、路、倉、官吏。都と地方を結ぶ報と奏は途切れることなく、几の上には次々と新たな封泥が積み重なる。鍾繇は席を立つことなく、書簡を読み、要を記し、吏に指示を与え、次の封を割った。筆と札が刻む音が、時の流れを正確に数えている。


 夕刻、吏舎の室にひときわ急いた足音が響いた。吏の一人が書簡を抱え、几の前に駆け込んでくる。鍾繇は筆を置き、差し出された書簡を受け取った。封泥を割り書簡を開くと、南征の途上にある軍中からの報であった。荀攸が陣中で病に倒れ、危篤の状態にあるという。軍中では看護が続けられているが、容体は思わしくない、と結ばれていた。


 鍾繇はしばらく視線を書簡の上に留めた。まわりでは吏たちが往来を続けている。戸口の報告を運ぶ者、修繕の指示書を抱える者、封書を運ぶ者。府中はいつもと同じように動いていた。だが、手にした一巻の報が、鍾繇の胸の内にかげりを落とす。荀攸は遠征の随行に加わり、曹操の傍らで軍略を支えていた。病の報がここまで届くということは、その容体が軽くない証でもある。


 鍾繇は書簡を丁寧に巻き、几の脇に置いた。筆を取り直したが手が動かぬ。几上はいつもと変わらぬ。だが、そのなかで時間の流れがひとすじ、どこか捻れていた。


 その報が届いたのは、数日後のことであった。昼過ぎの吏舎はいつもと変わらず、吏たちの往来と筆の音が絶えず、外では風が窓の格子をかすかに鳴らしていた。


 一人の吏が封泥を押した書簡を胸に抱え、几の前に進み出る。差し出された書簡を受け取ると、鍾繇はゆっくりと封を割った。


 筆跡は見覚えのあるもので、遠征先の軍中からの報であった。そこには簡潔に、しかし厳然とした事実が記されている。


 『荀公達、病没。陣中にて、享年五十八。』


 鍾繇は書簡を持ったまま、しばらく動かなかった。視線は文字の上に留まり、筆の墨を追うように揺れた。周囲では吏たちの声と足音が交錯している。いつもと同じ吏舎の景色が広がっているのに、その只中で、音だけが遠のいていくようだった。


 手から力が抜け、書簡がふいに滑り落ちた。


 書簡は几の下に舞い、伏した。吏の一人が思わず足を止めたが、鍾繇は拾わせず、自ら腰をかがめてそれを取る。角がわずかに汚れていたが、指先で丁寧に拭い、再び几に戻した。


 声を荒げることも、嘆息を漏らすこともなかった。ただ、目の奥にわずかな陰が射した。


 荀攸はいつも飾り気がなく、肝心なところで要を射る人であった。報せもまた、それと同じである。簡潔で、確かで、語らぬところに多くを残していた。鍾繇はその簡潔さの中に、長い歳月をともにした友の姿を見た。


 夜になっても、鍾繇は吏舎を離れなかった。吏たちが引き上げたあとも、室には墨と札の匂いが残っている。几の上には、昼間に受け取った報が一巻置かれていた。灯の火は小さく、書簡の上に影を落としている。


 鍾繇はその前に坐し、目を閉じていた。荀攸と交わした最後の酒肆の夜が脳裏によみがえる。声を張ることもなく、策を競い合うこともなかった。ただ二人で盃を傾け、友を想い、策を語り、時勢のかたちを測った夜だった。


 荀攸の言葉は一つ一つが明確で、曖昧さがなかった。その内容はすでに胸に刻まれている。鍾繇の心に浮かぶのは、その策の筋であり、友の死を嘆く声ではなかった。


 十二の策。


 あの夜に託された言葉は、いまや自分だけが知るものとなった。策は札に記されていない。ただ胸の内にある。人の心と時勢を見通し、事を積み重ねて、乱れを治めるための手立て。それは荀攸の知であり、これから先の国を支える一筋の綱でもある。


 季節は春。戦と政の波はこれからさらに大きくうねるだろう。


 友は去った。しかし、託された策はここにある。鍾繇はその事実を、誰に語るでもなく、自らの胸に刻み込んだ。


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