14 黎明
献帝を許へ迎えてから幾年かが過ぎ、曹操は朝廷を掌中に収め、天下の帰趨を左右する地歩を固めていった。だが、その間も戦火は絶えることなく、各地では群雄が割拠して勢力を競い合っている。河北では袁紹が兵を増し、南には張繡が拠り、東では呂布が徐州を奪った。中原は嵐の前の静けさに包まれ、緊張は日を追って高まっている。
許の空は薄曇りで、春先の風はまだ冷たい。鍾繇は歩を速め、荀彧の執務所へ向かった。
「文若、少し話がある」
鍾繇は戸口で声をかけた。荀彧は筆を置き、鍾繇を迎え入れる。その顔には、わずかながら緊張の色が浮かんでいた。
「曹公のご様子に、近ごろ変化があると聞いた。張繡との一件を悔いておられると噂が立っている。お前は何か聞いておるか」
鍾繇の眼差しは鋭い。荀彧は一度視線を落とし、やがて穏やかに答えた。
「曹公は聡明なお方です。過ぎたことを悔やまれるような方ではありません。おそらく、別のご懸念があるのでしょう」
鍾繇は眉をひそめる。
「懸念か」
荀彧は軽く首を振った。
「私も確かめねばなりません。直接、お話をうかがって参りましょう」
荀彧は席を立ち、衣の裾を整えると執務所をあとにした。鍾繇はその背を見送りながら、胸の内で思考を巡らせていた。曹操が心を曇らせるほどの懸念とは何か。その答えは、間もなく荀彧が持ち帰るだろう。
ほどなくして、荀彧は謁見の間へと通される。
曹操は書簡を几に戻した。その手つきに荒々しさはない。だが、室内には緊張が満ち、近侍たちは息を潜めて立ち尽くしている。荀彧は歩み出て拱手した。
「曹公、お心にかかることがあるのですね」
曹操は書簡を取り上げ、荀彧に差し出した。
「袁紹からの書だ」
荀彧は目を通し、眉をひそめた。文面は傲岸不遜そのものである。曹操はゆっくりと腰を下ろし、几に肘を置いた。声は怒りを抑えているが、その底は深い。
「道は我にあり、義もまた我にある。だが力の差は小さくない。河北の大半を併呑した袁紹はいま、大河のごとき勢いだ。この流れをいかに止めるか、それを考えていた」
荀彧は一歩進み、口を開く。
「曹公。古の興亡を見れば、強き者が常に勝つわけではありません。才を得れば弱きも強くなり、道を誤れば強きも容易く滅びます。劉邦と項羽の例がよい証です」
曹操は黙ってうなずいた。戦の趨勢を左右するには、理を明確な形にして周囲に示さねばならぬ。
「袁紹の人心が脆いことは、俺も知っている。外では仁を説きながら、内では猜疑を巡らす男だ。いずれ綻びが出る」
荀彧は曹操の言葉を受け、分析を進めた。
「まず、才においての勝ちがございます。袁紹は外面こそ寛大に見えますが、内心は猜疑深く、人を任じてはその心を疑います。曹公は明達にして度量広く、人をその才に応じて用いられる。人心を得る才においては、明らかに曹公が上です」
曹操は口元にかすかな笑みを浮かべる。
「文若、あいつの器の狭さは昔から変わらん。人を用いきれぬ男だ」
荀彧は間を置かず、次に移った。
「次に、謀においての勝ちです。袁紹は思慮深いように見えて決断が遅く、しばしば好機を逃します。曹公は大事に臨んでもためらわず、変化に即して自在に応じられる」
曹操は鼻で笑う。
「奴はいつも議ばかり重ねて、何一つ決められぬ。若き日から変わらぬ性分だ」
「また、武においての勝ちも明らかです」
荀彧は淡々と続けた。
「袁紹は軍を御するに寛緩で、法令は緩み、兵は多くとも統制は乱れています。曹公は法を明らかにし、賞罰を正しくして士を動かす。兵は寡少でも、みなが死力を尽くして戦います」
曹操は短くうなずいた。荀彧の言葉は、自身の軍の強みを改めて整理して聞かせるものだったが、それは決して世辞ではない。戦場で幾度も確かめてきた事実である。
「最後に、徳です」
荀彧の声音が少し落ちた。
「袁紹は家柄と財力を恃み、虚名を飾ることに熱心です。そのもとに集うのは、名声を好む虚飾の士ばかり。曹公は至仁をもって人を遇し、功ある者には惜しみなく恩を施される。ゆえに忠義と実行の士が自然と集まるのです」
曹操はしばし沈黙した。袁紹と自分。両者の違いは明確だった。戦力の差は歴然としている。だが、才・謀・武・徳、そのいずれを取っても、袁紹は足元にも及ばぬ。
「文若。お前の言うとおりだ」
曹操はゆっくりと立ち上がった。
「退く道理はない。進むのみだ」
荀彧は深くうなずく。
「この四つの勝ちをもって天子を輔け、義を掲げて征伐すれば、誰が従わぬでしょう。袁紹の強勢など、恐るるに足りません」
曹操の眼に迷いはなかった。河北を見据えるその瞳は、獲物を逃さぬ将のものだった。重苦しかった室の空気が、ひとつ大きな決意によって一変する。
曹操は几上の地図を引き寄せ、視線を東へと移した。呂布が徐州に拠り、張繡はなお南に勢力を保ち、袁紹は河北で機をうかがっている。四方を敵に囲まれた情勢を、一望のもとに把握する眼差しだった。
「まず呂布を取らねばならん」
曹操の声は揺るがぬ。
「河北を望む前に、背後の禍根を断たねば戦は成らぬ」
荀彧はうなずいた。
「まさにそのとおりです。呂布を討ち、背を安んずることが第一です」
曹操は地図の中央を指し、険しい表情を見せる。
「だが問題はそこからだ。袁紹が関中に手を伸ばし、羌や胡を動かし、さらに巴蜀や益州の勢力を誘い込めば、兗・豫の地で天下の六分の五を相手取ることになる。これでは兵も糧も持たぬ」
荀彧は曹操の言葉を受け、西方へ目を移した。
「関中の将帥は十を数えますが、一つにまとめ上げられる者はおりません。韓遂と馬騰が最も勢力を持ちますが、彼らは山東で戦が起これば、それぞれ軍を抱えて自らを守ろうとするでしょう」
荀彧の声音は落ち着いているが、その分析は鋭い。曹操は黙ってうなずいた。すでに彼の頭にも同じ情勢が描かれている。
「彼らを敵に回せば、袁紹と並び立って戦うことになる。だが、うまく抑えれば、背後を顧みる必要はなくなる」
「恩徳をもって慰撫し、使者を交わして同盟を結ぶのがよろしいでしょう」
荀彧は迷いなく言い切った。
「長く安定を保つのは難しくとも、曹公が山東を平定されるまでの間、動きを封じるには十分です」
曹操はしばし考え込み、やがてひとつうなずく。
「その役目、誰に任せるかだな」
荀彧は即坐に答えた。
「元常殿がふさわしいと存じます」
曹操は荀彧を見た。視線が交わる。
「元常か」
荀彧は一歩前へ進み、続けた。
「元常殿は法を知り、情をわきまえ、関中の事情にも通じています。持節を授け、法令に拘らず便宜に処せる権を与えれば、必ずや韓遂・馬騰らを説き伏せましょう」
曹操は深くうなずいた。鍾繇の才幹と胆力には厚い信頼を寄せている。文をもって道を説き、策をもって局を収める、その力量を誰よりも知っていた。
「よかろう」
曹操の声には決意がこもっていた。
「元常に西方を任せる。あれならば、関中を鎮め、後顧の憂いを断てる」
曹操は文案に署名し、封を施させた。命令書は鍾繇に届けられ、西方の全権が正式に託される。荀彧は拱手した。
「この策、必ずや功を奏しましょう」
曹操がうなずく。
「背を固めれば、あとは袁紹を討つのみだ」
執務の室に再び静寂が訪れた。




