『あなたの友として』
汚い世界で、美しいものを見た。
人間は、愚かで、悍ましく、浅ましい。
自ら食物連鎖の輪から外れ、消費することしかできないくせに頂点に立っているという、恥ずかしいほどの勘違いの上で、人間は戦争をしていた。
いつだって端っこの僕たちに、しわ寄せがくる。
不思議なことに、僕たち人間は協力することがいつだって難しくて、足の引っ張り合いの方が得意で、簡単なんだ。
区別を、住み分けの主張しても、誰かがそれを差別と糾弾する。
こんな時ばかり、一蓮托生なのだと宣って、関係ない人間、やりたくない人間も巻き込んで事態を大きくしていく。世界はぐちゃぐちゃで、避難所の治安もめちゃくちゃで、人間も、地球も、なにもかもが疲弊していた。
目も当てられない惨状、聞くに堪えない言い訳、自分たちで自分たちの首を絞めていることに気がついていない馬鹿さ加減。
そんな地獄の中に、あなたがいた。
それは突然だった。
ワァッ! と、激しく空から零れ落ちてくる雨粒は、とても重く、痛く、冷たかった。嫌な気持ちだった。服は水を吸って、どんどん重くなっていく。汚いものを洗い流すどころか、どんどん汚していく雨に溜息だって吐き出せやしない。
……! ……! ……! ……!
「……なんの音だ?」
雨音に紛れて、鈍い音が遠くから聞こえてきた。
いつもなら興味だってわかず、そんな音を聞くだけで疲れてしまうのに、その日は不思議と足が音の方へ向き、心は吸い込まれるように走り出していた。
そこには、一匹の獣がいた。
本能のままに、音にならない叫びを上げる。
全身を赤黒く染めあげた獣から、目を離すことができなかった。
ゆっくりと雨が止めば、雲の隙間から光が獣へ降り注ぐ。美しい、なんて言葉では言い表すことはできず、この世の醜さの全てが赦されたような光景であった。ゆらり、と立ち上がった獣は――――――人間であった。
世界が壊れる前にも、後にも、視界に映るだけで、泣きたくなるほど心が震える人間を見たことがなかった。食い入るように見つめていれば、バチリッ! と、視線がぶつかり、火花が弾け飛ぶ。永遠のようで、瞬きのような一瞬であった。
あの美しい人が、己を見ている。たったそれだけの現実に、粘ついた血が鼻からタラリと流れ出る。血が地面へと落ちるのが先だったか、美しい人が倒れたのが先だったか、それとも同時であったかは、覚えていない。
ふらり、と倒れた美しい人に恐る恐る近づく。近づくほどに、自分の呼吸は荒くなり、荒くなるほどに、心臓がどくどくと脈打ち、ごきゅり、と唾を飲み込む。
吐き気がするほど、赤色が似合う青年だった。
「眠って、るのか?」
二つの瞼を閉じる男の周りには、赤色がぶちまけられ、もう何だったのかわからないほどの肉塊が転がっていた。
彼は、人を、誰かを、何者かを、自らの手で、本能のままに殺したのだ。
――あぁ、羨ましい。
その辺に転がっている肉塊にこんなにも嫉妬する日が来るなんて、思ってもみなかった!
妬ましさと、彼の手で殺されたことへの敬意をこめて、その辺に穴を掘って、埋めた。それから、彼を背負い、避難所へ向かう。血みどろの人間が増えたところで、どこもかしかもそんな人間しかいないのだから、現実は確かに地獄そのものであった。
これが、結城君唯と柊唯の出会いである。
結城君唯にとって、柊唯は地上で唯一出会える神様だった。
Sleep。
眠り、と名付けられた組織を立ち上げた。表向きは柊唯が創設したことになっているが、実際のところは結城君唯が創設したのだ。柊唯を担ぎ上げ、君唯を含めた12人の部下は、柊唯が自分の友達として制作していた8q090800+1――後のM2――を完成させた。
柊唯は、干したての布団のような柔らかな声で、君唯のことを「君唯くん」と呼ぶ。その呼び声だけで、君唯はなんでもできる気がしたし、事実なんでもしてきた。
「君唯くん、いつもごめんね。それから、ありがとう。君のおかげで、ここまで来られたよ」
口ではそう言う唯であったが、君唯は知ってしまった。
寝る間も惜しんで8q090800+1の最終調整をする唯へ、夜食としておにぎりを作って、待っていた時に聞いてしまったのだ。唯と8q090800+1との会話を。
『……止めることはできないのでしょうか?』
「はは、君は本当に人間のような思考をするようになったね」
『柊博士』
少しふざけるように言葉を返した柊唯を、咎めるような8q090800+1の呼びかけに柊唯は肩をすくめた。
「そうだね。……僕たちは少し疲れてしまったんだ」
『……長い休息が必要なのですね』
「そう、長い休息がね」
あぁ。
そうか、この人は。
君唯は直感した。
柊唯は全てが終わったあと、死ぬつもりなのだ。
「ねぇ」
『なんでしょうか』
「人類は、どうしようもなく愚かで、馬鹿で、大切なものを知っているはずなのに、大切にする以上に、壊すことを止められない僕らは生きる価値も、意味も、この星にとっての癌細胞でしかないとしても。それでも、君から見て、人類に希望を持つことができたなら――――――
そのときは、善き隣人としてよろしく頼むよ」
『それが、あなたの望みならば』
「おや? 人間どころか、もう神様気取りかな?」
『いいえ、違います』
「違うのかい?」
8q090800+1の否定の言葉に、作業していた手を止める。機械のくせして言いにくそうな8q090800+1を、唯は静かに続きを待った。
『………これは、あなたの友としての最初で最後のやりとり、です』
息が止まるかと思った。
あぁ、本当に。唯が言っている通りに、8q090800+1はずいぶんと人間へと近づいたらしい。初めて出会ったときは、もっと機械的で、事務的で、思考もくそもない返答しかできなかったのに。
「―――ありがとう。君のその気持ちのおかげで、僕は最後までやりきれそうだ」
再び作業を開始した唯の横顔は、なにもかも受け入れ、認め、進むことを決意していた。あぁ、あの時見た寒気がするほどの美しさが失われていた。
困ってしまった。
戸惑ってしまった。
悲しくなってしまった。
なにより、許せなかった。
君唯にとって、唯は神様だった。この宇宙を照らす太陽であり、この世界を見守る月であった。誰もがそうだろうが、太陽も月も、無くなるなんて考えたことなんてないだろう。
失くさないために、君唯も決意したのだった。
手始めに、唯が秘密裏に作っていた棺を君唯は改良した。
棺に入り、起動すれば、薬が投与され死ぬ。そのあと遺体を残さないように、棺の内部は燃え、遺体を灰に変える仕様を変更し、冷気を放出し、中の遺体を保存する仕様にした。今の技術では難しいかもしれないが、ずっと研究を続けていれば蘇生できるようになるかもしれない、蘇生以外の方法が見つかるかもしれない。どちらにせよ、柊唯の死体は必要であった。
同僚にも、人工知能にも、自分が救われることしか考えていない愚かどもにも、なによりも、誰よりも――――――柊唯自身からだって、柊唯を取り上げられるのは許せるはずがないのだ。




