「今、何歳なの?」
「どこに連れていく気だよ」
紬の問いに、ドローンたちは答えない。静かに目的地へ向かって、進んでいく。紬にわかることは、悠解が連れていかれた場所に行くってことだけだ。
結と出会ったときのように、どんどん人気が無くなっていく。この箱庭はかなりの広さがあるため、普段から移動用ドローンを使わずに移動している紬が知らない場所、行ったことない場所なんてたくさんある。
体感三十分ほど移動用ドローンに揺られて着いた場所は、一つの部屋だった。
「な、んだこの部屋」
移動用ドローンに乗ったまま、室内に入る。壁も、床も、天井も、真っ白の空間は明るいはずなのに、心の隅から黒い不安がじわりと侵食していく。健康状態に異常を感知したという名目で連れてこられたはずなのに、この部屋には何もなない。椅子だって、机だって、ベッドだってない。ただ白いだけの狭い部屋だ。
『こんにちは。わたしは、この箱庭の管理、運営を任せられているM2です。更生プログラムへ移行する前に、いくつかご質問させていただきます』
「更生プログラム?」
困惑する紬を置いて、M2は言葉を続ける。
『ここでの質問の回答は、今後のみなさまの管理、運営の参考にさせていただきます』
「ま、待ってくれ!」
『はい、なんでしょうか』
目の前の現実に必死についていくために、紬は話し続けるM2に待ったをかけた。
健康状態の異常。更生プログラム。管理、運営の参考にするための質問。これらを繋ぎ合わせると、考えたくもないことが紬の脳裏をかすめた。呼吸が浅くなり、喉が渇いていく。
『それでは、よろしいでしょうか?』
「あ、あぁ」
『この何不自由のない箱庭に住んでいるのにも関わらず、どうして外へ出たいと望んだのでしょうか? なにか、この箱庭に足りないものがあったのでしょうか?』
本当に不思議そうに聞いてくる人工知能は、まるで人間のようであった。自身が管理、運営している箱庭は完璧だと、幸福の楽園であるのだと、人間にとっての理想郷であると信じて疑っていない。
「足りないものは、確かにあった」
『それはなんでしょうか? 人類のみなさまが楽しめるように、さまざま娯楽が溢れていたはずです。なにより、わたしは話し相手として、よき相手だったと自負しております。ここにあるものでは満たせない、足りないものとは何なのでしょう。下原紬、あなたは毎日暗室にて夜空の投影をしていましたが、それと関係があるのでしょうか?』
「…………この小さな世界には、未知が、明日がないんだ」
『未知がないのは、よいことのはずです。人間は未知に“恐怖”する生き物でしょう。だからこそ、変わらぬ毎日を、知っている今日を繰り返すのはあなたたちにとって幸福のはずです』
M2の言葉に、間違いはない。わからないものは怖い。
しかし恐怖とは“わからないことが、わからない”と理解できることであり、この箱庭の住人は、それさえもわからない。ただ与えられるもの享受して、思考を停止させ、ただ息をするだけの肉塊にすぎない。
『わたしを制作した柊唯は言っていました。外の世界は汚く、恐ろしい。人類に必要なものは自由ではなく、公平で平等な人類を管理する奴隷だ。――――――この世は、知恵をつけすぎた人類には厳しすぎる。と』
柊唯の言葉は、きっと正しいのだろう。
この箱庭に住んでいる人間なら、覚えているかは別として誰もが知っている箱庭ができた経緯。未曽有の大災害を生き延びた柊唯と13人の部下たちは、昨日も明日も地獄であったに違いない。だからこそ、束の間の今日を望んだ。
「箱庭の日々は、穏やかで素敵だったよ。だけど、やっぱりつまらないんだ」
『どうしてつまらないのでしょうか?』
希望も、絶望もない箱庭は、からっぽの宝箱と同じだ。
「ここは全てあるようで、なにもない。映像だけど、あのとき見た流れ星の感動を今でも覚えている。あの一瞬から、つまらない世界に色がついた。それから、それからだ―――」
悠解と出会ったのは。
紬も他の人間のように、端末の画面ばかり見ていた。星や、惑星を端末で調べていたのだから、画面ばかり見るのはあたりまえだ。箱庭は自分以外にも人がいるのはわかっていたけど、紬の世界には“紬”しかいなかった。自分しか存在しない世界で、悠解は鮮烈で、たったひとりの紬に、正しく“ひとり”を教えてくれた。
悠解は、もう紬と一緒にいてくれない。それは、とても辛くて、淋しくて、悲しいけれど、一緒に過ごした日々が無くなったわけじゃない。それに悠解は死んでないのだから、きっとまたいつか道が交わる日が来るかもしれない。反対に、永遠にそんな日は来ないかもしれない。これだって一つの未知だ。
『あなたの言葉は矛盾しています。箱庭には未知がないと、つまらないと言っていたはずなのに、あなたはこの箱庭を楽しんでいる』
紬は困ったように笑う。
「あぁ、否定しないよ。俺は箱庭の中で楽しんでいた。でも、箱庭の中だけじゃ限界があった」
『限界ですか?』
あのとき悠解が言っていた言葉を、紬も口にする。
「発展がないこの箱の中じゃ、もう満足できない。もっと、ちゃんと、知りたいんだ。M2に聞けばなんでもわかるんだろうけど、もっと、ちゃんと、見て、触れて、感じたいんだ。……それに、外に出たら新しい星を発見しちゃうかもだろ」
未来を想像して楽しくなる。
知識として知ったことが、箱庭の外に出れば何一つ役に立たないかもしれない。星にかぎらず、なにか新しい発見があるかもしれない。
「変化し続けるのが世界なんだ。俺はその変化を見てみたい」
『もっと、ちゃんと、見て、触れて、感じたい。ですか。確かにわたしでは触覚を補うことはできません。それに【経験に勝るものなし】という、ことわざもあることから、あなたの言うとおりこの箱庭に足りないものは確かにあると認めざるを得ないですね。まさに【万物は流転する】、この箱庭にあなたのような人間が生まれたのもひとつの変化なのでしょう』
ひとり納得するM2は、どこか楽しそうだ。
『わたしからの質問は以上になります。この問答は箱庭としての記録には残りません。下原紬、とても有意義な時間をありがとうございました。最初にお伝えしたように、今後のみなさまの管理、運営の参考にさせていただきます』
あ、そういえばそんなこと言ってたな。と、ただただ思う。
『それでは、当初の予定通り更生プログラムを開始します』
M2の宣言に、紬は更生プログラムについて完全に忘れていたことを思い出した。
「更生プログラムって何をするんだ?」
M2からの返事はない。
先ほどまで、あんなにも話していたというのに、白い部屋に紬の声だけが虚しく床に落ちる。なにも変哲もないただ白い空間。ただ白いだけなのに、言いようのない何かが紬の足元へずるずる這いずるように近づいてくる。
「おーい、M2?」
誤魔化すように、目を逸らすように、紬はM2に話しかけるも、返事はやはりない。自分の呼吸の音が嫌に大きく聞こえる。呼吸はいつも通りのはずなのに、遅くなっていく。それに比例するように、心臓が速くなっていく。
この部屋に入った時には狭いと感じた部屋が、どこまでも広く感じる。感覚がおかしくなっていることを、頭の冷静な場所が自覚していた。高まっていく緊張に、意味のない呻きを上げる。
「ぁぁ……あっ………ぅぅ……」
ただの部屋。なにも変哲のない白いだけの部屋。なのに、なにがこんなにも恐ろしいというのか。色がないだけだ。自分以外の色はなく、自分以外の音がない。それだけのことなのに、脳みそは行ったこともないくせに、極寒の雪山にいると勘違いしたのか、歯をガチガチと鳴らしながら、ガタガタと体を揺さぶる。
自分以外を感じられない部屋で、時間の感覚はとうになくなっていた。独りになって5分も経っていない。されど紬の中では、まさに永遠と錯覚するほどの時間が流れていた。気づかぬうちに握りしめた手首は、ドクドクドクと脈を主張し、皮膚の下に流れる赤色が無性に恋しくなった。
ガリ、ガリ、
がりがり、ガリガリ、がりがり、ガリガリ、がりがり、ガリガリ、がりがり、ガリガリ、がりがり、ガリガリ、がりがり、ガリガリ、がりがり、ガリガリ、がりがり、ガリガリ、がりがり、ガリガリ、がりがり、ガリガリ、――――――プツり。
夢中で搔きむしって、ほじくって、緩やかに漏れ出た一筋の鮮やかな赤い液体の温かさには、痛みは無く、そこには確かに安寧が、諦観が、希望が、絶望が、生きようと足掻く命があった。流れ出る血は、己の輪郭を自覚させるかのように腕を伝う。自分を、自分の存在を確かに感じる。少しだけ粘り気のある液体は、紬の存在証明であった。
「………俺は、なにをしているんだ」
きっと、正気ではなかった。
もうすでに止まっている血は、黒く変色し、かぴかぴに乾いていた。あまりの汚さに、ごしごしと雑に拭けば、ピリリっ! と、した痛みが紬を襲う。さきほどまで感じていなかった痛みが、今頃になってじくじくと訴えてくる。なんだか少しおもしろくなってきて、笑いが漏れる。何一つ笑える状況ではないのはわかっている。実はまだ正気じゃないかもしれない、いや正気だ。人間ってやつは、そう簡単に正気を失えなる生き物じゃあない。
「とにかく、ここから出ないと」
もう一度あたりを見渡す。
何度見たって、ここには何もない。ただただ頭がおかしくなるほどの白さに、目がちかちかとするばかりだ。とにかく動かないことには始まらない。紬は移動用ドローンから降りて、入ってきたであろう扉に触れるが、開くことはない。
「つーか。更生プログラムって、ただここに閉じ込めるだけなのか?」
閉じ込めるだけを、更生とは言えない。それに、プログラムなのだから何かしらの処理が行われるはずだ。
更生とはすなわち、立ち直るということ。
紬は、この箱庭から外れていることを自覚している。恐らくここでいう更生とは、再び箱庭で不満なく、疑問なく、不自由なく、他人も、自分も、すべての境界をあやふやにして息をしていることを受け入れるということであり、今の紬には、とても受け入れることはできない。
無意味だと知りながらも、扉を叩く。
扉を叩く拳が痛い。
ドンドン、ドンドン、と、扉を叩くほど、拳の痛みが酷くなっていく。どれだけ叩いても、うんともすんとも言わない扉に、心が挫けそうになる。それでも、紬は叩き続ける。
背後に移動用ドローンが、迫っていることにも気づかずに。
結は目を覚ます。
「―――ッ――――」
最初に映ったのは―――
「おはようございます! 柊博士、お目覚めはいかがですか?」
人がよさそうな笑顔で、結の機嫌を聞く白衣を纏った男が一人。男が目の前にいる事実に、ぼやけていた脳みそはくっきりと輪郭を取り戻し、結は男を睨む。
「結城、君唯!」
結城君唯と呼ばれた男は、嬉しそうに笑ったかと思えば、瞬きの間うちに表情がごっそり抜け落ち、結の顔を掴む。
「あの人は、私を結城君唯とは呼ばない。あの人は、私のことは親しみを込めて君唯くん、と呼んでいた。いいですか? 君唯くん、ですよ」
念を何度でも押すように、「君唯くん、ですからね」と、強調する姿は聞き分けのない子どもに、怒りを耐えながら教える親のような必死さであった。
「……ま、いいですよ。いきなり言われても難しいでしょう。あなたは赤子のようなものですからね」
顔を掴んでいた手を離し、春の日差しのような笑顔をみせる。
「でもどうしてなのですか? 今まであなたは、あの部屋から出ようともしなかったのに」
「理解できないフリは、しないほうが身のためですよ」と、君唯は言葉を続けた。
結は小さく舌打ちをしてから、逃げぬように、立ち向かうように、真っ直ぐ君唯と視線を合わせる。また、逃げるわけにはいかないのだ。
「俺は柊唯じゃねぇ――――――俺は、結だ」
「は」
それは自我の宣告であり、第三者の介入があったと明言していた。
許せるものではなかった。許せるはずがなかった。
誰だって自分の好きなものを、他人に勝手にいじくられるのは嫌だろう。
「俺の頭の先からつま先まで、柊唯の細胞からできているとしても、俺は夜空を夢見た結だ――――――お前の人形なんかじゃねぇ!」
乾いた音が鳴った気がした。
―――衝撃。
遅れてジンジンと左頬が痛みを訴える。
「―――、―――?」
しっかり君唯を見ていたはずなのに、気がつけば床を見ていた。
―――――――――そろり。と眼球を動かす。
視線の先には、微笑みを絶やさない君唯が立っている。
上げられた腕に、自分が打たれたことを知る。ゆっくりと目が合えば、ニコリ、と上がっていた口角が、さらに上がる。
「すみません、柊博士。言っている意味が、よくわかりませんでした。もう一度よろしいでしょうか?」
「……俺は、柊唯じゃな―――」
―――パァンッ!!
今度は、右頬がジンジンと痛みを主張する。
「あなたは、柊唯博士なんですよ。頭の先からつま先まで、彼の細胞で作られている! いつ、どのようにして、そのような自我を手に入れたのか知りませんが、あなたは僕だけの柊唯博士なんです!」
君唯は、結を認められない。
彼の自我を認めることはできない。
「あぁ、でも、大丈夫ですからね」
ずずい、と、顔を近づける。お互いの息がかかるほどの距離だ。
何が大丈夫。なのか。君唯にとっては大丈夫なのだろう。けれど、結からすれば全くもって大丈夫なことなどないのだ。
「見た目だけじゃなく、中身も柊博士になっていただきますからね」
世迷言だ。
理解ができない。同じ細胞といっても、結が、結だけの経験で性格を形成したように、柊唯を形成したのは、柊唯だけの経験なのだ。
「完全に同じ人間なんか、造れるわけ、ねぇだろ……」
言葉尻が少しずつ小さくなる。理由は簡単だ、自分の意見に自身が持てないからだ。そもそも、まったく同じ人間を作るということは、まったく同じ経験をさせられる用意があるということ。
「本当は、あなたが死んでしまった年齢まで待つつもりでしたが、そうはいかないらしい」
「死んだ年齢まで待つ、だと?」
「えぇ、そうですよ。でも、贅沢を言っている暇はないようだ。M2準備をお願いします」
『かしこまりました』、の言葉と同時に、どこからともなく現れたヘルメットのような、結にはわからない機械を頭に被せられる。
「なにしやがるっ!!」
暴れる結に、君唯は困ったように口を開いた。
「そんなに暴れないでください。痛みはないはずですから、なにも怖いことなんてないですよ。あなたは完璧で、完全な柊唯博士になるだけです。――――――あ」
なにかを思い出したような声。
なにかを思い出したような顔。
怖いことはないと宣った口から漏れた言葉に、結はいっそう恐怖を感じる。
「すみません、忘れていました。そうですよね。痛くないかどうかは、実際に見てみないとわからないですよね」
M2へモニターを持ってくるように指示を出した君唯は、端末を取り出し、淡々をなにかを入力していく。目の前に置かれたモニターの電源がつけば、そこに映し出されたのは、真っ白な空間に、似たような機械のヘルメットを被せられた下原紬の姿であった。
【まもなく、更生プログラムを開始します】
モニターから聞こえる言葉に、結は君唯の顔を見る。
「えぇ、あなたの想像通りだと思いますよ。これから直接脳へと刺激を与え、情報を刷り込み、与えます。彼は再び、この柊唯博士が創造したこの箱庭の一員へと戻り、不満も、不安も、すべてなくして穏やかに生きていくんです」
それはあまりにも、言葉にするも悍ましい。
「大丈夫ですよ。記憶は………、まぁ一部無くなる可能性はありますが、そんなものは些細なことです。彼は彼のまま、外に出たいという欲求を失える。素敵なことですね」
「待てッ!!!」
「柊博士、どうしましたか?」
息が乱れる。
心臓の音が、どっくん、どっくんと、耳元で聞こえる。
それはダメだ。それは嫌だ。そんなことをされては、どうにも耐えられない。自分はいつだって、彼を助けることはできないのか。
「もう一度聞きますよ。柊博士、どうしましたか?」
「ど、うしました、か、って」
喉が渇く。上手くものを考えることができない。最悪の想像が脳裏を掠めていく。
「あぁ! なるほど」
何かを閃いたのか、君唯は優しく、柔らかく、結の頭を撫でつける。その手は、今から行われることを悪だと微塵も思っていなかった。
「この映像は、すでに過去に行われたものですから安心してください」
「――――――あ?」
過去。
過ぎ去ったもの。
行われる。ではなく、行われた。
「それって、つまり、」
言葉が震える。
指先が、足先が、震える。
思考は逃げようと白んでいくのに、逃がさないと音が反響を繰り返す。漏れる息がうるさい。耳が水に溺れるようにぼうぼうと鳴る。全身の血は巡らず、どこかへと零れ、流れていく。息が吸えない、吐けているのかもわからない。鼓動が、呼吸が、唾を飲み込む音が、全てがうるさい。視界のピントが合わない。口元が自分の意思に反して、ぴくぴくと動く。眉が寄って、戻らないのが鬱陶しい。
「どうしたのですか?」
君唯の変わらない表情が、恐ろしい。
「そんな表情をしてどうしたのですか?」
そんな表情とは、どんな表情なのか。
「ふふ、そんな表情しなくてもいいじゃあないですか。ああ、なるほど、そうですよね! 彼に会いたいんですね! 直接聞いた方が、あなたも信用できるというもの」
M2、と呼びかける君唯を、ぼんやりと見つめる。
頭がどこかついていかない。
こんな結末を求めていたわけじゃない。
また、守れなかった。
また、見ていることしかできなかった。
………いや、今回は見ることもできてやしない。
コツコツと、響く足音が後ろから聞こえる。振り向けば、自分の足で立って歩く紬がそこにいた。
生きている。
生きて、息して、意識がある。
それだけの事実に、なにも守れてやいないのに、喜んでしまう自分の浅ましさに、胃がひっくりかえりそうになる。
「―――、――――――つむぎ」
喉が震える。
漏れ出た音は、頼りない。
弱弱しい音に合わせるように、紬は結を見る。
結のことなんて覚えていないかもしれない。
覚えていても、もう興味なんてなくなって、いてもいなくてもいい存在になってしまっているかもしれない。
紬の心に、結はもういないかもしれない。
謝りたい。
また殺してしまった。
また自分のせいで、紬が死んでしまった。
謝りたいのに、結の口から出るのは荒い呼吸と、震える名前だけ。
一緒に明日を夢見たかった。
結の目の前に、ピタリと止まる紬から目を逸らすことができない。君唯が、なにかを言っているが、なにを言っているのか理解できない。聞こえない。聞こえる音は、ただぼうぼうと煩い耳鳴りだけだ。
「なんて顔してんだよ」
あまりにも優しい音だった。
驚くこともできない結を置いて、紬は言葉を続けた。
「あー……。正直なところ、俺にも理解できないんだけど、なんか許されたっぽい?」
『違います。下原紬は、許されているわけではありません』
「あ、そうなんだ」
M2の鋭い刃のような言葉に、紬は気まずそうに頭をかいた。
今の状況を理解できない結。それ以上に理解を拒む君唯は、二人から離れながら、餌を求める鯉のように、酸素を求め藻掻く、溺れている人間のように、口をぱくぱくと動かしていたが、認められない現実に叫んだ。
「これは、どういうことですか! M2ッ!!」
空気が震えるほどの咆哮に、紬は結を庇うように前へ出る。
『2076年から3235年へと、長い長い時間をわたしは稼働し、あなたは生きてきた。そして―――わたしは、柊唯博士が言っていた【その時】が来たのだと考えたのです』
「その時なんて、あの人がいないのに、来るわけがないじゃないですかッ!!!」
怒りが、不満が、不安が、苛立ちが、満ち満ちていた。
「ちょ、ちょっと待って!」
空気を読まない紬の言葉に、結は呆れたように溜息を吐いた。
『………なんです?』
さすがのM2も、人工知能とは思えないほどの余白の後に紬へと言葉を返す。先ほどまでの肌を刺すような緊張感が、一気に霧散していく。
「M2はわかるにしても、その人って―――――今、何歳なの?」
君唯は、静かに目を細めた。




