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金曜日の午後三時。笹一典は友人の吉野大吉に呼び出され、駅前のカラオケボックスの一室に腰を落ち着けていた。
大吉と約束したのは午前のことだった。今週一度も大学に姿を見せず、誰も彼の姿を見ていないと聞いた笹は大吉にメッセージを送った。
反応自体は、すぐにあった。
「ちょっと相談したいことがある。本当は迷惑をかけるかもと思って黙っていたんだけど、どうしても笹にしか話せなくて……」
しかしなんとも歯切れの悪い、間延びした返事だった。
夜にしようかと笹が尋ねたところ、即座に「夜は嫌だ」と返信があった。理由を尋ねる間もなく、彼は一方的に「明るいうちに会えないか」と指定してきた。
大吉の提案を了承した笹は大学での講義を終えたその足でカラオケボックスに向かい、先に入室していたのだった。
「ハッピーアワーで学生はドリンク付きで一時間二百五十円とか、このご時世にやっていけてんのかね……」
笹はひとりごとを呟きながら、少し伸びた髪を耳にかけた。日に焼けた浅黒い肌に、肩近くまであるブリーチされた金髪、ゆるめのジーンズにくたびれた白のTシャツという出で立ちは、とてもそのへんにいるような真面目が取り柄の大学生である大吉の古い友人には見えないだろう。
「あいつ、まだ来ないのかよ」
宣伝として流れたポップなアニメのOPに乗せて、笹は体を揺らした。背もたれに伸ばしている手には数珠型のブレスレットがはめられている。
ほどなくしてドアがノックされ、約束の相手──吉野大吉がやってきた。
その姿を見た瞬間、笹は眉をひそめた。
既に真夏と表現して差し支えない今日この頃だと言うのに、大吉はフード付きのパーカーをすっぽりと頭に被り、首にはなんと白いウールのマフラーまで巻いていた。
「よう、笹。……来てくれて、ありがとう」
「おぅ」
カラオケボックスの薄暗い照明の下、大吉は妙にかしこまった口調でそう言った。
「……相談したいって言われたら、そりゃ来るけどよ」
笹は上から下まで大吉をじろじろと眺め回してから、ソファーの角をポンと軽く叩いた。
大吉は黙って、笹の向かい側のソファに腰を下ろした。
パーカーのフードを深く被ったままの顔をじっと見て、笹は彼の顔が蒼白なのを知る。
「なんか……お前、顔色わりぃし、すげえ痩せたな。どうした?」
それ以外にも何か違和感が──どこかが違っているような気がして──笹は大吉と目線が合わないことを発見した。二人の身長はだいたい同じぐらいで、向かい合わせに座れば当然同じくらいの高さになる。
それなのに、大吉の目線は幾分か上にある。うつむき、猫背がちなのに、だ。
「闇バイトにでも引っかかったのか?」
笹の軽口まじりの問いかけに、大吉はもごもごと口を動かした。吉野大吉というのは姉の影響で清潔感とか小綺麗さには結構気を遣う性質の人間なのだが、彼の唇はおどろくほどに乾燥して、ひび割れていた。
「そういうのじゃ、ないよ……」
テーブルの上に置かれたドリンクの氷が、ちり、と静かに鳴った。
「じゃ、なんだよ。美人局に引っかかったとか、為替取引に手を出して大損したとか……」
会話をリードしながら、笹はブレスレットがはめられている右手首をぐるりと動かした。
手が重くなるときは人間ではないものが近づいてきている証だと、笹は知っていた。
──ま、こういうときは「呼んじまう」から先に根掘り葉掘り尋ねない方がいいんだったかな……。
笹はもう一度ぐるりと手首を回転させてから、大吉に向けて白い歯をにっと見せた。
「まあ、まずは俺に話してみろって、状況によってはウチの家族にも相談すっから」
笹がそう促したが、大吉はしばらくのあいだ黙り込んだままだった。
言うか、言わないか。そもそも言えるか、言えないか。そんな逡巡の中で揺れているのが、ありありと見て取れた。
「てかさ……お前、なんでこの夏にマフラーなんか巻いてんのよ」
話が始まらないので先に切り出した笹のその一言に、大吉の顔がこわばった。
くわ、と目を見開いたかと思うと、自分の首元に手をやり、マフラーを引きはがすように取って床に放り投げた。
「おいおいおい、どうしたどうした、お前が自分で巻いてきたんだろうがよ」
大吉はまるで恐ろしい虫でも見つけたかのように、だんだんと足でマフラーを踏みつけている。
笹は思わず立ち上がり、大吉の肩に手をかけて押しとどめた。
「ちょっ、やめろって、何やってんだよお前。それはねーちゃんがお前に編んだやつだろ」
「俺、マフラーなんて巻くつもりじゃなかったんだっ! ……アルパカのせいだッ!」
「は……? アルパカ?」
大吉の言葉に、笹は耳を疑った。
「アルパカってなんだよ、動物のアルパカか? 牧場にでも行ったのか?」
「ち、ち、ちが、お、おれ、おれ、おおおおおおおれはははは」
「落ち着け、アルパカがなんだ!?」
今までの沈んだ様子からは嘘のように、大吉の体は大きく痙攣し始めた。目は血走り、瞳孔は開き、口の端からは涎が垂れていて、口調はご覧のありさま。
「と、とことことここととと……」
大吉の瞳は、カラオケボックスの壁ではなく何か別の「何か」を見ているように、一点を凝視していた。
「……だから落ちつけっつーの!」
笹は左手で大吉の肩を掴み、右手で勢いよく大吉の左頬を叩いた。笹の外見は田舎のヤンキーそのものだが、彼は決して暴力的な人間ではない。
──緊急的対応というやつだった。
笹に引っ叩かれた瞬間、まるで憑き物が落ちたかのように大吉の震えは止まった。深めにかぶっていたパーカーのフードがずれて、大吉の頭部があらわになる。
「……大吉……お前」
笹は違和感の正体に気がついた。
大吉の体は、変わるはずのない箇所に、異変をきたしているのだ。
──こいつ、こんなに首、長くなかったよな?
「そうだよ、俺、首が伸びてるんだよ」
笹の心の声が届いたかのように、大吉は涙声でしゃくりあげた。
「俺、アルパカに呪われてるんだ」