5
白いかたまりは大吉に視線を向けており、目の錯覚ではなくて確実に「そこ」にいることを知らせていた。
──アルパカ……いや、違う。
大吉はすぐにでも車を発進させて、その場を立ち去るべきだった。しかしあの時たまゆらで感じたような「自分は峠に出るアルパカの確認しなければいけない」という使命感にも似た想いが彼をとどまらせた。
その判断が誤りだと指摘してくれる人物はこの場にはいなかった。
だから、大吉はじっとその「白さ」を観察してしまった。
目を細めれば細めるほど、それは「アルパカに似たもの」でしかないとわかってくる。
とこ、とこ。
ゆっくりとした足音とともに「それ」は近づいてきて、徐々に輪郭がはっきりしてきた。
全体的に白くはあるが、黄ばんでいた。四つ足だが、わずかに前傾しており後ろ足が長い。首は上に伸びているがまっすぐではなく、まるで何度も骨が継ぎ足されたようにぐにゃり、ゆらゆらと不安定に揺れている。
大吉は恐怖を感じながらもミラーから目を離せずにいた。そうしている間にも確実に──異質な存在はどんどんと車に近づいてくる。
──逃げろ。
脳内で理性の声が警告を発したが、大吉は金縛りにあったようにその場にとどまっていた。
「とこ」
──今すぐ、ここから逃げろ。
「とことこ」
その警告をすり抜けるように「とことこ」という音は絶え間なく耳に滑り込んでくる。
もうとうの昔に獣ではないと理解しているのに、大吉の中にある好奇心が間違った方向へ──詳細を知りたいと、アクセルを踏んでしまっていた。
「とことことこ」
また一歩、距離が縮まった瞬間にぞくりと、全身をムカデが這うような感覚が始まった。
──足音じゃない。
聞こえていたのは、蹄の音ではなかった。
とことこ とことこ とことことことことことことことことことことことことことことことこ
峠に出るのは、アルパカではなかった。
四足で、這うように動くそれは、人間だった。
二足歩行の形を失った人間が、獣のように前かがみに、よろよろと、けれど確実に大吉へと迫ってくる。毛の代わりに身にまとっていたのは、病院で使われるような白く薄い入院着で、布地の隙間から露出した肌は蝋のように白く、それでいてぶよぶよとしており、首は上に伸びている。四つん這いだというのに、頭は車の屋根よりも高い位置にあり、顔は見えない。
とことこという音は、その口から発せられていた。
──人間ですらない。
首がぐんにゃりと曲がり、車の中を覗き込もうとした時──
「わ、あ」
ようやく、大吉の喉から声が出た。その勢いで、火が付いた様な勢いで車を発進させ、大吉はその場から離れようとした。
感情も判断もすべて飛び越え、反射だけでアクセルを踏み込んだ。
背後を確認してはいけない、振り返ったら終わる。見てはいけない。見たら、追いつかれる。そして、取り込まれる。
大吉は車を走らせた。そうしている間にも、背中にはずっと、ぬるついた視線がまとわりついている。
あのアルパカ人間が追ってきているのだと、大吉は思った。
崖際に生えている木が自分を絡めとるのではないか、斜面から何か恐ろしいものが転がり落ちてくるのではないか、そうしてこの車が動きを止めたら自分は取り込まれるのだ──。
大吉は必死に車を走らせた。やがて峠を越え、街の明かりが見えてきた頃、大吉はようやく息を吐いた。
サイレンの音が、どこか遠くで鳴っている。
「ふうーっ……」
全身からは汗が噴き出し、ぐっしょりとシャツを濡らしていた。
「……もう、追ってきては……いないよな?」
大吉は恐る恐る振り返って、背後を確認した。先ほどまで感じていたようなぬるついた視線は、もうなかった。街灯と民家の明かりが、大吉の心を落ち着かせてくれる。
バックミラーにぶら下げていた交通安全のお守り──友人の笹がくれたものだ。それがまるで何かを吸収したように不自然にふくれあがり、そして風もない車内で、狂ったように揺れていた。