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──アホらし。
大吉は再び車を走らせ、帰宅の途についていた。
夜の峠道。ヘッドライトの届かない範囲は闇に包まれている。大吉はカーブの多い道を慎重にハンドルを切りながら進む。
明かりに照らされた凹んだガードレールをちらりと確認してから、大吉はほうっと大げさなため息をついた。
「まさか……一行だけとはね」
思考からはみ出た独り言が車内に満ちた。思い返すのは、先ほど訪れた「たまゆら」での出来事だ。店主の遠藤が語った「こわいほん」の中身──それは、非常に簡素なものだった。
『あの峠には アルパカが出る』
「え? どういうことですか」
内容を聞いて、大吉は口から魂が抜けていくような心地がした。あまりにもそっけなく、そしてあっけなかった。
あれだけもったいぶっていた遠藤はそれだけ読み上げてぱたりと本を閉じ、また別の場所に並べたのだった。
『そういうことです。そのうちわかります』
その顔は相変わらず大真面目だったが、大吉は虚脱感に包まれた。あんなにも興味を惹かれて、こらえきれないほどに本の中身を知りたかったのに、あまりの内容のなさに鮮やかだった「こわいほん」の白さは色褪せ、ただの使い古した日記帳のように思えてきてしまった。
「はぁ」
読者の想像に任せるタイプの本か?
大吉はそんなことを思いながらも、適当な本を会計して「たまゆら」を後にした。「たまゆら」では大吉が店を物色しているあいだ一人の客もなく、それどころか通りがかる人間すら皆無だったが、大吉はすでに「たまゆら」への興味を失っていた。
「それにしても、アルパカって……」
大吉は鼻で笑った。
「いや、ないない。アルパカなわけ、ないだろ。そもそも……ここ、日本だし」
あれはやっぱり本ではなくて、何も書いていなかったのにほら話をでっち上げて、引っ込みのつかなくなった店主が適当に喋ったんだ。
冗談のひとつも言いそうになかった遠藤の顔を思い浮かべようとして──大吉はあんなにも凝視していた彼の顔が思い出せないのに気が付いた。
「まぁ、どっちかってーとあの人の方が怖かったもんな。……呪いのアルパカって、人をビビらせようという意識があるのかないのか……」
話相手もいないのに紡がれる言葉は次第に焦燥感を持ったものに変わっていく。興味を失ったはずなのに、こうして今一人で峠道を走っていると、奇妙な状況が想像できもしないのに多少はこみ上げてくるものがある。
自分に言い聞かせているような言葉は車内に反響して、大きくなって大吉の元に戻ってくる。
『信じるか信じないかは、あなた次第です。……では、帰りはお気をつけて』
大吉の脳裏に、別れ際に遠藤が言った言葉がふと蘇る。感情のない定型文のあいさつで、その声音には冗談めいた含みも、脅すような調子もなかった。ただただ、事実だけがそこにあった。
──彼は真実しか口にしないとしたら?
「まぁ……」
大吉は無理矢理にでも自分自身との対話を終わらせようとした。ブレーキを踏んで速度を落として行きで最も急だと感じたカーブをひとつ越えたとき、大吉はバックミラーに視線を向けた。
「たまゆら」で購入した地元の民間伝承に関する書籍と、地域の風景が収められたフォトブックが後部座席でがさりと揺れたからだ。
そのときだった。
「あれ」
バックミラーの隅に、白いものが道路を横切ったように見えた。それは──霧でもなければ、反射でもない。闇に沈んだ峠道の中で、ひどくはっきりとした「白」だった。
大吉は一瞬、自分の目が工事の反射板か何かを見間違えたのだと思った。
しかし、「それ」は確かに、立ち止まって、こちらを見ていた。
兎や犬などの小動物の類いではなかった。
白く、そして大きい。四足で、縦に細長い首をゆらゆらと揺らして──まるで、アルパカのようだった。
「あ、あ、ありえない」
峠の山道にアルパカなんているはずがない。動物園からの脱走だとしても、そんな事件があればニュースで話題になっているはずだ。こんな片田舎の山奥に、偶然居合わせるなんて確率は、限りなくゼロに近い。
──さっきの店主のせいだ。
ふざけた話を真顔で聞かせるからだ、と大吉は思った。ああいう「雰囲気のある人」は得をしている、つまらないことでも大層に聞こえる場合があるから──。
「そうだ、あんな話、真に受ける方が馬鹿げてるつーの」
大吉は強引に思考を打ち消すように、ぶつぶつと独りごちながら、ちょうど発見した待避所に車を止めた。ダッシュボードを開け、中から目薬を取り出す。
目の乾きが錯覚を生んだのだろうと自分に言い聞かせるように、顔を上に向けて目薬をさす。
ぽた ぽた ぽた。
まばたきをして視界が揺れたあと、大吉は何気なくバックミラーに目をやった。
──「白いもの」がこちらを見ていた。