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「麦茶もありますよ」
その申し出に、大吉は少し戸惑いながらもうなずいた。
「それはどうも、ご親切に」
遠藤は防犯意識があるのかないのか、大吉から視線を外してそのまま二階に上がってしまった。天井のきしむ音を聞きながら、大吉はそっと先ほどの本棚に目を戻した。
先ほどとは違う場所に差し込まれていたが、文字のない白い背表紙は、すぐに目についた。
目につく場所に置いてあるのだから、油や湿気を嫌うような、繊細な紙質の貴重書ではないはずだ。人の手の油や汚れが問題になるような本であれば、もっと厳重に管理されていてもおかしくない。
──なのに。
大吉はどうしても気になって、そっと立ち上がった。そして、白い背表紙をじっと見つめた。
だめだと言われたからといって、勝手に触れるつもりはなかった。だが、あの本には奇妙な吸引力があった。まるで自分が磁石の片割れにされてしまったかのような、引き寄せられる感覚。ページの中身を知らずにはいられない、そんな焦燥が胸の奥でじわじわと広がっていく。
──あー、もう。
大吉の喉がごくりと鳴った。そして、大吉はそろそろと手を伸ばす。
「その本を読むと、読んだ人には呪いが降りかかります」
大吉が本に手を伸ばした瞬間、いつの間にか戻って来た遠藤が、大吉にそんな言葉を投げかけた。
「呪いって……」
遠藤の言葉に、大吉は思わず苦笑した。一方の遠藤は大真面目なのか、ぴくりとも表情を崩すことがない。
「遠藤さんたら、そんな大真面目にぃ……」
大吉は一笑に付するつもりだったが、遠藤の顔があまりにものっぺりしたままなので、ひとりで笑い続けるしかなかった。
「迷信ではありませんが」
気まずさに負けた大吉がごほんと咳払いをすると、遠藤は口をひらいた。
「信じるか信じないかはあなたの自由でもあります」
遠藤の声音に怒りや苛立ちはない。だが、逆にそれが不気味だった。目の前にいる遠藤は、まるで別世界の住人のように見えてしまうから。
「じゃあ、試しに教えてください」
大吉が言葉を紡ぐと、かすかに足元がぐんにゃりと揺れた気がした。地震──いや、古い建物だからトラックか何かが通って揺れたのだろう。
「大丈夫です、僕、霊感ないし。だからこそ興味はあります……最悪、神社生まれの友人もいるので」
口の滑りを止められないまま、大吉は勢いで言い募った。
大吉の心にはすっかりとあの白い本が焼き付いてしまって、遠藤が見せてくれなければ日を改めて、笹を連れてもう一度来たっていい──説明のつかない執着、なんとしても本の中身を知りたいという好奇心はすでに逃れがたい吸引力となっていて、遠藤が張った防衛線を、大吉はいとも簡単に踏み越えてしまう。
遠藤はふうっと小さく息を吐いた。
「どうなっても、知りませんよ」
「は、はい」
わずかに──ほんのわずかに、遠藤からめんどくさそうな気配がしたが、すぐに消えた。
「どうなっても、知りませんけど、いいんですね」
今度は、遠藤はしっかりと目を合わせてきた。相変わらず遠藤のほうに感情はなかったが、遠藤の黒目がちな瞳に映る大吉が、疼きを抑えられない子供のような顔をしているのが見えた。
「はい」
大吉はその空気に飲み込まれながらもしっかりと頷いた。
返事をした瞬間、風でも冷気でもない、なにかがざわりと通り抜けた気がした。
「分かりました。では……こんな話はどうでしょう」
遠藤は顔の近くに来た虫を払うような仕草をしてから、棚の「こわいほん」に手を伸ばし、中央あたりのページを開いた。
話が始まる。
それが「呪い」の始まりでもあることを、そのときの大吉はまだ知らなかった。