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「──っ!」
驚いて振り向いた大吉の視線の先には、ひとりの青年が立っていた。
青白い肌、無造作に伸びた黒髪には艶がない。身につけている麻の青いシャツは色褪せているのに不自然なほど皺が一つもなく、そのくせ胸元につけた緑色のエプロンだけは逆にくしゃくしゃで、まるで三十年の歳月を経てきたかのような風合いをしていた。
彼の出で立ちはまるで最初からそこにいたかのように自然ではあるが、唐突に現れ、そして今、胡乱な視線を大吉に投げかけている。
「その本は、いけませんよ」
青年はもう一度同じ言葉を繰り返した。その声は地面に落ちた鈴が風に揺れてかすかに鳴るような、どこか儚げで、遠くから聞こえてくるようだった。
「あ……すみません。地元の子のいたずらですかね」
大吉はかけられた言葉を「売り物ではない」という意味だと判断した。
「いいえ」
青年はレジカウンターの向こうから静かに出てくると、大吉が指をかけたままの本を取り上げた。
「勝手に移動されると困るんですよ」
「……僕が移動させたんじゃないですよ!?」
やや語気を強めて、大吉は答えた。
「あなたに申し上げたのではありません」
遠藤ははっきりと大吉の目を見て言った。黒目がちで、白目は青白いほどに澄んでいる。
──独り言、なのか?
自分に言ったのではないと青年は言う。しかし、まるでこの空間に誰かがいるような──。
大吉は青年を凝視した。「こわいほん」を書棚に戻す仕草はなめらかで迷いがなかったが、元の場所とは違っていた。
──この人が、店主かな。年齢不詳の中性系男子ってやつか。
間近で見ても青年の肌には老化を示すサインが一つもないが、状況から判断すれば少なくとも大吉より四、五歳は年上だろう。
顔断ちは美しいと言えるだろう。こんな地方都市ではなくて東京あたりに出ていればサブカル男子として女子たちにもちやほやされていたかもしれないと、そんな余計なことまで考えてしまう。
目の前に立っているというのになぜか実体感が希薄で今にもすり抜けてしまいそうだが、唯一、エプロンに付いた「遠藤」の名札だけが、妙な現実感がある。
どうして大吉がそこまでこの男の顔について詳細に観察しているのかというと、遠藤のほうでもまた、大吉と書棚との繋がりを断ち切るようにじっと大吉の横に立って彼の顔を眺めているのだった。
それには万引きを疑うような不安や警戒の様子が一切なく、まるでただそこに置かれたから川の流れをせきとめている石のように、彼は立っていた。
「……僕、本屋巡りが趣味で」
ここで引いてはなるものか、と大吉の中に執着心が芽生えた。このしょっぱい対応の店主に、なんとかして態度を改めさせてやる、自分は迷惑客でも、ましてや万引き犯でもないのだから──。
「ええ、そうでしょうね」
「……特に、怪談とか、伝承系は結構好きなほうなんです」
大吉の口は自分でも不思議に思うほどによく動いた。
「そうでしょうね。この本はそういう人を引き寄せますから」
遠藤の声は静かでそっけないが、やはり拒絶の感情をくみ取ることはできなかった。
「だから、僕ちゃんと買いますから。その本、ちょっと中見せてください。この本じゃない本を買うかもしれませんけど、とにかく何かは買いますから」
大吉はまくし立てるように言った。個人商店というのは売り上げの一つ一つが大事なのだと、もちろん理解していた。彼なりの誠意だった。
大吉自身、よく言えば人当たりがいい、悪く言えば軽薄な口調や振る舞いをしている自覚はある。だが、こういう小さな店ではそれくらいの軽さがうまく作用することもある。個人商店の店主の警戒心をほぐすには、まずこちらから心を開くこと。それが大吉のやり方だった。
「この本は売り物ではありません」
遠藤はきっぱりと言った。
「そうですか。でも……なんとなく、中身が気になってしまって」
怖い話が好きだとは言ったが、マニアではない。大吉のほうでも、なぜこんな対応の遠藤に対して食い下がっているのか、まったくもって謎だった。
「この本以外なら、どれでも。試し読みは、あちらにどうぞ」
青年は店の片隅を指さした。白いテーブルと椅子のセットが置かれていて、いつの間にかその上には麦茶の入ったポットと、グラスがいくつか並べられていた。