10
会場に着いた頃には、すっかり日が暮れていた。
花火大会の会場である湖畔には屋台が軒を連ね、紙提灯が揺れている。
ここに来るまでは人っ子一人いなかったはずなのに、前夜祭とは思えないほどに会場はごった返していた。車をなんとか駐車場にすべりこませた大吉と笹は圧倒されるような人波の中へと身を投じている。
「……この中から、例の店主を見つけるってのかよ」
笹が顔をしかめて呟いた。大吉がそれに応えるようにきょろきょろと辺りを見渡した瞬間、場内アナウンスが頭上のスピーカーから流れてきた。
『皆さま、まもなく打ち上げが開始されます。どうぞ足元にお気をつけて……』
静かで透明感のある、よく通る声だがどこか非現実的なものを感じさせる声に、前屈みになっていた大吉の背筋がピンと伸びた。
「この声だ……間違いない」
「ってことは『遠藤サン』は運営側にいるってことか」
二人はすぐさま人混みをかき分けてスタッフ用のエリアへと向かった。
運営本部と大きく書かれたテントの下にはスタッフ証を首から下げた作務衣姿の人々が忙しなく出入りしている。
その中で、椅子に腰掛け、ぼんやりとスタンドマイクに向き合っているその姿。この蒸し暑い中ひとつかかずに涼しい顔をしているのは、まさしく遠藤だった。
「遠藤さん!」
大吉が声をかけると遠藤はこちらに視線を向けたが、驚いた様には見えなかった。先週末と同じ服、同じエプロンで、彼のまわりだけ時が経過していない──見ようによっては、そんな風にも見えた。
「……あんたが『たまゆら』の店主か?」
「ええ、そうですが。どうされましたか、笹さん」
にじりよってきた笹に、遠藤はごく普通に応えた。大吉は遠藤に笹の話をしたことがないはずなのに、名前を知られていてぞくりとしたが、もうそんなことにはかまっていられない。
「人に呪いをかけといて、どうされましたかはないだろうよ」
「私は呪いなどかけていませんよ」
遠藤は落ち着き払ったまま言った。
「本の内容を知りたがったのはそこの吉野大吉さん。私は乞われたから読み上げた。それだけです。誰も強制していません」
遠藤の言葉はまさしくその通りなので、大吉は反論できなかった。
「一応確認するんですけど、この首の呪いを解く方法、知ってたり……」
「しませんね」
遠藤の言葉はおろしたての包丁と同じぐらいすっぱりとしていた。
「ですよね……」
「アルパカを打ち消すことならできますが」
「! どんな?」
「あの本から、さらに強力な呪いを読み上げて、新たに上書きする」
「それって悪化するってことだよな?」
笹が呆れたように口を挟んだ。
「アルパカからは逃れられます」
「……理屈の上では、ね。とりあえず所在は分かったから、この人は一旦置いといて、神社へ行こう」
「急いだ方がいいですよ」
背中に声をかけられて、二人は思わず神社の方角へ向かいかけていた足を止めてしまう。
「そんなの分かって……」
大吉が返事を返すが、遠藤は大吉を見ていなかった。すっと、遠藤が遠くを指さす。二人がその指の先を見ると、湖畔から小さな花火が打ち上がった。
竜神を祀るための花火大会が始まるのだ。
「もう、来てますよ」
遠藤は穏やかな口調でひとさじも焦る様子を見せずに言った。
「あなたについて──すぐ、そこまで」
その言葉が落ちると同時に、空気が一変した。大吉の背筋を冷たいものが撫でていく。
花火大会の、人混みに紛れて「それ」はいた。
花火に釘付けになり、歓声を上げる人々の中に、花火に興味を示さないものがいた。
まるで気配を消した影のように誰にも気づかれることなく白い首をにょろりと伸ばし、今にもこぼれ落ちそうな目をぎょろつかせながら──大吉を、探していた。
「なんだよ……あれ」
誰も叫ばない。誰も逃げ出さない。ただ、自分たちだけがそれを見ている。
呪われているものにしか、アルパカは見えないのだ。
ぐにゃりと不自然に曲がりながら頭ひとつまたひとつ分と常軌を逸した長さで持ち上がる首は、ありえない角度でぐるりと回転し、直線的にこちらを向いた。
目が合った──大吉は直感的に、そう思った。
「逃げるぞ! これ持っとけ!」
笹が大吉の右手に何かを握らせたかと思うと、次は左手を掴んで走り出した。
「こ、これ、お札……」
「効果あるかわからんが、絶対に落とすなよ! あと俺からも離れるなよ!」
笹は大吉の腕を引っ張ったまま、人混みの中をかき分け、遠く見える朱塗りの鳥居に向かって駆け出した。
「あ、危ない。他の人に……」
「あれは俺たちしか襲ってこない!」
花火が夜空に咲き乱れ、人々が歓声をあげ、二人の声は爆発音にかき消される。荒い呼吸と恐怖で会話もままならないのに、はっきりと聞こえてくる音がある。
とこ、とことこ。とことことことこ……。
その「音」は、確実に二人の背中を捕らえていた。
笹は走りながらも、必死に口の中で何かを呟いている。おそらく呪文だろう。大吉はどうしてこんなに長くいたのに、怪異に関する情報を笹から聞こうとしなかったのだろう──それはきっと、自分は一週間前までは「こっち側」の人間ではなかったからだ。
大吉はすがるように、手の中のお札を強く握った。しかしその感触、一瞬おかしいと感じた。ただの紙であるはずなのに、手の中の呪符は恐るべき熱さを持っていたからだ。
「笹、お、お札が……!」
大吉の手からはみ出た部分が、まるで獣の歯に食いちぎられたように、びりびりに破けていた。
「わー、持たねえのかよ、大吉、ちょっとこれ持て……」
笹が自分の手にはまっていたブレスレットを大吉に渡そうとした瞬間、パン、と音を立てて数珠は砕け散ってしまい、二人は思わず、同時に足を止めてしまった。
「──っ……くそ」
笹の絶望したような顔を見た瞬間、大吉は悟った。
──あの「こわいほん」の呪いは、そこらへんの霊能力者にはどうにもならないんだ。
そうしている間にも、足音は──アルパカの声はどんどんと迫ってくる。
ああ……どうせ逃げられないんだ。
「もう……いいよ」
絞り出すような大吉の声は、笹の耳にだけ届いた。