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吉野大吉の趣味は愛車でドライブがてら各地にひっそりと佇む「こじゃれた本屋」を巡ることだった。
ある初夏の昼下がり、大吉は愛車であるベージュのコンパクトカーのエンジンをかけ、峠を越えて隣県へと向かっていた。
目的地は山間の小規模な市の外れにある「たまゆら」という名前の、こだわりの小規模書店好きの間でも聞き慣れない小さな店だ。
「たまゆら」は大吉がたまたま地図アプリを開いた時に見つけた場所で、口コミの類いはおろか、問い合わせ先の電話番号やメールアドレスも発見できない。
しかし確かに、店は存在する。
マップをクリックすると店の外観が表示される。「たまゆら」は濃緑の山脈を背に、周囲を田畑で囲まれた場所にある。写真では築五、六十年は経っているだろうか、大体六十平米ほどのこぢんまりとした二階建ての一軒家を改築したらしく、まるで自作のDIYのようなムラのある白いペンキを塗りたくった外壁が大吉の好みに沿う。
営業時間は一三時から十八時という商売っ気のない案内も気に入った。つまりその店は、店主の趣味で運営されているからだ。
そんなわけで、大吉は「たまゆら」に向かうべく峠を越えていた。
本来は小学校時代からの悪友の「笹 一典」も誘ったのだが、あいにくその笹は外せない用事があり、単独での隣県訪問となった。
「たまゆら」には駐車場が一台だけあって、空いていた。
周囲はぐるりと田んぼに囲まれていて、遠くぽつんと佇む赤い鳥居の向こうには新幹線の高架が見えた。
店の前には清流。
──店どころか、家の一軒もないのに、店主は車もなしにどうやってここまで通ってくるのだろう。
なにしろここに来るまでに一人の住民も見かけることなく辿り着いたのだ、公共交通機関が通っているとは思えなかった。
大吉は不思議に思いながらも、店の前までやってきた。
営業日は不定休とされていたが、店の前にはきちんと「営業中」の小さな手描き看板が出ている。
軒先は非常に静かで、川のせせらぎと風のそよぐ音だけが聞こえていた。
壁一面のガラスには日に焼けて黄ばんだロールスクリーンがかかっていて、中はうかがいしれない。ドアにもガラス部分があるが、今月行われる花火大会のポスターが貼られていて、やはり店主や客の姿は確認できなかった。
しかし書店であることは疑いようもなかった。
「なんで今まで気が付かなかったんだろ」
大吉の独りごちた声が誰もいない店先に吸い込まれていく。
新幹線の駅からは少し離れているとはいえ秘境と表現するにはほど遠く、店構えは開店してそこそこの年月が経過しているように見えた。
大吉がそっとドアを押すと、ギィと小さな音を立てて、大吉を誘うようにドアがゆっくりと開いた。
直射日光が遮られているためか、店内は薄暗かった。白い本棚が壁際にずらりと並び、中央には同じく白くて古びた棚が二つ、並んでいる。白いカウンター、最奥には急勾配の階段が見えた。
レジはあるが肝心の店員の姿はない。代わりのように、レジには開きっぱなしのノートがぽつんと置かれていた。
「ごめんください」
大吉は声を張り上げた。別に悪さをするつもりは毛頭なかったが、昨今は本屋にとって万引きが深刻な打撃になるという話もよく聞く。だからこそ、最初から堂々としていたかったのだ。
あいさつはあくまでも自分は客であり、不審者ではないと主張するための第一声だった。
「すいません、ちょっと見せていただきますね」
もう一度声を張ってみたが返事はなかった。
レジの前まで進んでみると、少しずれた椅子に人の気配のようなものはある。しかし、店主があわてて出てくる様子は一向にない。
「なんか畑でもやってんのかな」
大吉は車を走らせてきた道中に見た、のどかな田園風景を思い出した。
これだけの小さな本屋で生活が成り立つはずもない。おそらく店主は片手間に本屋を開いており、他にも仕事を持っているのだろうと自分を納得させた。
「いい感じの本が、わりと。結構なことで……」
大吉は店内を見回しながら、ぽつりとつぶやいた。
こういった小洒落た書店で、大吉が求めるのは決してベストセラーの小説ではない。
学術書、古い小説、あるいは作者も知られていないような古本――そういった本を眺めている時間こそが、彼にとっての至福だった。
もちろん自室の本棚には限りがある。だから大吉は、どの店でも原則として一冊しか買わないようにしていた。立ち寄った証、または自分なりのルールとして。
「さーて。こういうところか、この本屋は」
大吉はそうつぶやきながら、レジの横の壁を眺めた。どうやらこの店は、民間伝承やオカルトにまつわる書籍を多く扱っているようだった。
山があり、峠があり、湖、そして歴史のある寺社仏閣も揃っている。となれば、地域に密着した民間伝承の一つや二つ、あってもおかしくはない。いや、あるべきだと大吉は思う。
大吉は本棚の背表紙をひとつひとつ、つぶさに眺めていく。平積みにされた新しい本にはあまり興味がなかった。目に止まった背表紙の本を読む。それが大吉なりの本との向き合い方だった。
そして、大吉は、ある一冊に視線が吸い寄せられた。
背表紙になにも記されていない本があった。
真っ白で、書名も著者名もなく、ただそこに「本」はある。
分厚さは、まるで三六五日分の記帳がなされたダイアリー、あるいは本型の小箱のようで、誰かのいたずらにも見えた。
大吉は自然と手を伸ばし、その本を手に取って、表紙を覗き込んだ。
「こわいほん」
ページに書かれたひらがな五文字を、大吉は反射的に読み上げた。
「その本は、いけませんよ」
そのときふいに、背後から声がした。