8 さよならを言わなかった別れ
「じゃあ、これは他の人にどんな影響があるの?」
最初に考えていた通り、その答えを知りたくてレイアは星月蓮にそう尋ねた。
「影響? こんな複雑な世界で、ひとつの行動が引き起こす結果を全部見通せる人なんていないよ。例えばさ、あなたがある乞食を可哀想だと思って、同情心から結構なお金をあげたとする。でもそのことがほかの乞食に知られて、数人でそいつを襲って、少ない持ち物まで奪ってしまったら……。その場合、あなたの施しは正しいって言える?」
答えられず、レイアは首を横に振った。そんな問題はレイアにとってあまりにも難しい。
今日まで、雛原舞や夙、それに赤尾小隊の皆は、レイアに善意を向け、実際に助けてくれた。だからレイアも同じように善意を返したいと思っている。
だが──もしその善意が、もっと悪い結果を招くのなら、レイアはそれでも善意で行動すべきなのだろうか?
「正しいか間違ってるか、その問い自体に答えなんてないよ。その行動はただの“偽りの善意”。他人を助けてるようで、本質は自分の同情心を満たすため。でもね、たとえ結果をちゃんと考えて、本当に誰かを助けられる“真の善意”だとしても、それは結局、自分の人生の信念に従ってるだけ。本質はやっぱり自分のためなんだ。私はね、自分のために行動するのが悪いなんて少しも思ってないよ。むしろ、私はあなたに“優しい人”であってほしい。たとえそれが自分のためだったとしてもね。私が言いたいのは、あなたも他の誰も、行動の結果を完全に読み切ることなんてできない、ってこと。」
「だからね、いろんなときに、自分の行動を後悔しなくていいんだよ。」
そう言って、星月蓮はレイアの両頬を手で包み込み、まっすぐ見つめてきた。その瞳は、言葉そのものを刻みつけるようだった。
「それから……私はあなたに優しい人であってほしい。でも“どう優しくあるべきか”までは要求しないよ。それじゃあ、私の欲を満たすだけになるからね。まあ、厳密に言えば、“あなたにこうしてほしいと望まないでおく”というのも一種の欲望ではあるんだけど……どちらにしても、私はあなたに自分自身の答えを見つけてほしいんだ。その間、私はずっとそばにいるわけじゃないし、あなたは取り返しのつかないことをしてしまうかもしれない。でも……それでも、自分の行動を悔やまないでほしい……あと……」
星月蓮はいつもそうだ。話し始めると、まるで言いたいことが無限にあるように続く。
レイアがここに来たのは、“提案を受け入れたらどうなるか”がわからないから相談するためだった。だが、今のところ星月蓮は、肝心の「他人にどんな影響が出るか」については一言も答えていない。
しかし得るものがなかったわけではない。少なくとも、「他人も結果を完全に予測できるわけではない」ということはわかった。星月蓮が自分より多くを知っていても、それでも万能ではないのだ。
それに──自分の生き方を見つけること。
今のレイアは、善意には善意を、悪意には悪意を返す、そんな行動原則で動いている。それでは答えられない問いだって多い。なぜ生きているのか、という問いさえ。
だが、少なくとも今どう行動すべきかは教えてくれる。
いつか人生の意味が見つかれば、もっとまともに答えが出せるのかもしれないが──そんな未来はあまりにも遠い。今はこのやり方で進むしかない。
後悔するな、と星月蓮は何度も何度も強調した。だがレイアにはまだ理解できなかった。後悔がどんな感情なのかも、どんなときに後悔するのかも、わかっていないからだ。
いろいろ考えた末、レイアはやはり機関の提案を受けることに決めた。
結局のところ、レイアには“力”が必要だ。他人に頼らず、赤尾小隊や舞に恩を返し、そして決定的な場面で夙を救えるようになるために。
そんな重要な役目をレイアのような存在が引き受けて、他人に迷惑をかける可能性があるかもしれない。
だが──星月蓮の言う通りレイアには未来が読めない。他の人だって同じだろう。
ならば、それはレイアの考える領域ではない。
それに、おそらく最も重要なのは──
接点すらない大多数の誰かより、ずっと近くで助けてくれたほんの数人の方が、レイアにとってよほど大切だということだ。
「うん……やるべきことがわかったよ。ありがとう、蓮。」
そう気づいたレイアは、星月蓮の話をそっと遮り、礼を言った。
「ん……本当はまだまだ言いたいことが山ほどあるんだけど……まあ、わかったならいいか。」
星月蓮は腕を広げ、抱きしめるように求めてくる。レイアはその腕に応え、胸元の温もりと、いつもの香水の匂いを感じた。
なぜだろう。背はレイアの方が高いはずなのに、どうしても頭を胸に埋めたくなってしまう衝動がある。
「レイア、今回別れたら、あなたはすぐに忙しくなる。私たち赤尾小隊もしばらく前線を離れるし……解散するかもしれない。だから、これから長い間、私たちは会えなくなるよ。」
「俺、会いに行くよ。」
「……あ? ははっ、ほんと成長したねぇ。」
成長──確かに今のレイアは、死や別れ、戦い、そして感情についても前より多くを知っている。
赤尾小隊の皆、舞、夙──その全員が好きだ。それぞれ違う種類の“好き”。
だが、星月蓮への“好き”はまた別の何かだった。
それは、廃墟で寄り添っていたあの母娘を思い出させる。
「これも全部、蓮のおかげだよ。……ママ。」
そう──それは“依存”に近い感情。
雛鳥が母鳥の羽の下に潜り込むように、レイアは蓮を“母”として好きになっていた。
抱きしめられたい。導いてほしい。離れたくない。
「……は? ははっ。子ども扱いはしてたけど、さすがにお母さんって歳じゃないんだけどなぁ。」
蓮は明らかに驚いた。
「求婚される覚悟までしてたのに、まさか“母親として好き”って言われるとはね。」
「でも俺には舞っていう彼女がいるから、蓮にプロポーズはできないよ。」
「それは冗談だってば。」
「ああ。」
「でもさ、本当に雛原の子ってあなたの彼女なの?」
「わからない。失う前の記憶では付き合ってたって言ってたし、そのあとも別れてないらしいし……多分、今も恋人なんだと思う。」
「もしあの子が嘘ついてたら?」
「舞が嘘ついてるの?」
「知らないよ。ただ、可能性の話。ほとんど過去のことを話してないでしょ、あの子。」
「うん。でも関係ないよ。舞は嘘なんてつかない。」
「そんなに簡単に人を信じたらダメなんだってば。」
「舞は“他人”じゃない。蓮だってそうだよ。」
「じゃあ、もし私が嘘ついてたらどうするの?」
蓮の問いにレイアは沈黙する。
蓮は嘘をつかない──そう思っていたが、もし嘘をつくなら、その言葉もまた嘘になる。
「それでもいいよ。蓮は俺を傷つけたりしない。それに、たとえ傷つけられても……蓮には俺を助けてくれた恩がありすぎる。」
「……あなた、本当に簡単に人を信じすぎ。そんなの、いつか取り返しがつかなくなるよ。」
「蓮は“他人”じゃない。」
レイアは、繰り返した。
黄昏が近づくまで、ふたりは離れなかった。
その後、レイアは地下室へ戻り、担当者に返事を伝えた。
必要なやり取りはほんの数言、手続きも何ひとつなく、あっさりと地下室を出ることを許された。
外に出ると、空はすでに黒い闇に飲み込まれ始めていた。




