5 逃避という名の依存
「レイアさんでいらっしゃいますか?」
屋上の入り口から聞こえた声が、その空気を一瞬で断ち切った。振り返ると、白衣を着た中年の男性が扉のところに立っていて、その後ろには数人の助手らしき人たちが並んでいた。
「はい。」
「ええ、少しお時間をいただきたいのですが、ご協力をお願いできますか。」
俺は蓮の方を見る。彼女は小さくうなずいた。
「……分かりました。」
俺はそう返事をして、蓮の手を取って一緒に歩き出そうとした。だが、蓮は俺の歩調に合わせようとはしなかった。
「彼らが呼んでいるのはレイア、あなただけ。私は、ここで人を待たなきゃいけないの。」
そう言われて、俺は彼女の手を放した。
その瞬間、リプルに着いた時のことを思い出した。……また置いて行かれるのか?
本当は、蓮と離れたくなかった。でも、どんな状況でも彼女は俺を害することはない。だから、俺は素直に一人でついて行くことにした。
「レイアさん、こちらへ。」
中年の男性は人混みを避け、俺を従業員専用のエレベーターへ案内した。助手たちは黙って俺の後ろに続く。
エレベーターの中は静まり返っていて、機械の低い唸りだけが下降していることを知らせていた。やがて上部の表示が「-3」を示した。
「こちらです。」
中年の男性は俺を連れて施設の中を進む。内部の構造はリプルの研究室によく似ていたが、少し小規模だった。
――また実験か。けれど、もう慣れた。
「対象をお連れしました。」
扉が開くと、中には一人の男が座っていて、手元の何かをじっと見つめていた。
案内してきた中年の男はそう言い残すと、部屋を出て行った。
「座ってください。」
男は顔を上げ、前にある椅子を指さした。
俺は指示に従って椅子に向かう。近づくにつれ、その顔がはっきり見えてきた。
地位は高そうだが、この手の研究者はどれも同じに見える。
眼鏡をかけ、白衣を着て、表情に疲労をにじませている。先ほどの男より少し若そうだが、印象に大きな違いはなかった。
「――あぁ、これを返しておきます。」
彼は先ほどまで見ていたものを差し出してきた。
それは、俺が目を覚ました時から傍にあった黒紫色の長剣だった。恐鰐との戦いの場に落としてきたはずだが、どうやらこの病院の人たちが回収していたらしい。
「この剣、破損させないように何度も調べてみたんですが、我々の設備では材質を特定できませんでした。どうにも興味深くて、勝手に拝借してしまいました。ご容赦を。」
剣を返しながらも、彼の視線は名残惜しそうに刃から離れなかった。
「構いません。」
俺は何気なく答え、剣を受け取って舞が作ってくれた鞘を背負った。
「それでは本題に入りましょう。今回の戦闘でのあなたの活躍を受けて、我々Sprobe機関では内部で協議の結果、あなたを公式にメディアへ発表し、英雄……いえ、スターとして育成する方針を立てました。」
彼の声色が急に真面目なものへ変わる。
「スター……それは、蓮が言ってた“英雄”ってこと?」
「蓮?」
一瞬だけ彼の顔に戸惑いが浮かび、すぐに表情を戻して話を続けた。
「そういう解釈でも構いません。要するに、あなたは通常通り任務を受けてこなしてくださればいい。我々はあなたの戦績を追跡・報道し、その過程でRst組織の適応者があなたの安全を確保します。そしてSprobe機関から、相応の報酬をお支払いします。」
彼の提案を聞きながら、俺は思わず蓮の意見を求めようとした。
だがすぐに気づく。今の俺は、もう蓮に頼ることができない。
それに――彼女は言っていた。
「どうするかは、あなた自身が決めて」と。
なら、今回は自分で答えを出さなければならない。
「……あの、舞はどうなりましたか?」
結局、俺には無理だった。
この選択がどんな結果をもたらすのか、俺の知識では判断できない。
それに、なぜ舞のことを口にしたのか自分でも分からない。
――たぶん、蓮の時と同じだ。無意識のうちに彼女に頼っているのかもしれない。
「舞……?雛原会長のことですね。貴重な保命道具があったおかげで、命は取り留めましたが、今回の怪我はかなり重いです。詳しい容体は私も分かりませんが、ご安心ください。本部には優秀な医師が大勢います。現場で即死でなければ、たいていは救えます。」
唐突な質問にも、彼は真剣に答えてくれた。
「ただし、今回の対恐鰐作戦について、外部報道には雛原会長の名は出ません。あのクラスの人物には通常護衛が付きますから、彼女が戦闘に参加していたとなると、主力が誰だったのかという疑問が生じる。ですので、報道上の戦闘参加者は、あなたと赤尾小隊のみになります。」
「……分かりました。」
俺はうなずいた。
そんなことはどうでもいい。舞が生きていると聞けただけで、胸の奥の重しが少し軽くなった。
――そういえば、俺、いつから“生き死に”なんてものを気にするようになったんだ?
もしかしたら、他人の強い生への執着が、俺にも移ったのかもしれない。
あるいは、蓮と過ごしたあの温かい時間が、俺に「失いたくない」という感情を教えてくれたのか。
いずれにせよ、死生という概念を理解できなくても、今の俺はそれを“選択の要素”として考えられるようになっていた。
「――それで、あなたの答えは?」
目の前の男が、静かに問いを投げた。
「分かりません。」
俺はそう答えた。
だからこそ、予測できない未来に対して、軽々しく選ぶことはできない。
蓮が言う“英雄”にしても、この男が言う“スター”にしても、俺の行動はもう、俺一人の問題ではなくなっている。
目を覚ましてから出会った人たち――そのほとんどが、俺に優しくしてくれた。
だからこそ、俺も彼らに対して善意を抱いている。
一度も顔を見たことのない人でさえ、例外じゃない。
そんな人たちを、俺の選択で傷つけるような真似はしたくなかった。
それは、選択から逃げているわけじゃない。
今の俺の経験では、“選ぶことの結果”を理解することができないだけ。
だからこそ、俺は他人に――頼るしかない。




