3 希望を理解する前に、希望になっていた。
「ごめん、ちょっと通して。」
状況がよく分からず立ち尽くしていると、横からそんな声と、急ぎ足の音が聞こえてきた。
振り向くと、両腕で大きな箱を抱えた短髪の少女が、廊下を慌ただしく走ってくるのが見えた。
ぶつかる前に、俺はとっさに壁際へ避けた。だが、不運だったのは彼女の方だった。
俺を避けようとして左に寄った拍子に、足元が見えず、抱えていた箱ごと脇の植木鉢につまづいたのだ。
箱が床に落ち、蓋が開き、中に詰められていた弁当がバラバラと散らばった。
「あっ、ごめんなさい!」
短髪の少女は慌てて謝りながら、散らばった弁当を拾い集める。
彼女はまだ戦闘服を着たままで、あちこち破れて肌がのぞき、汚れや血の跡も混じっている。どうやら、戦場から戻ってきたばかりのようだった。
俺も近づいて一緒に弁当を拾う。きっと、仲間の分を運んでいたのだろう。
「あ、ありがとう。」
気づいた彼女が顔を上げ、土にまみれた頬で、それでも太陽のように明るい笑顔を見せた。
「い、いや――」
俺が「気にするな」と言いかけたその瞬間、彼女が突然叫んだ。
「わ、わぁっ!あ、あんた……レイアでしょ!」
短髪の少女は口を押さえながらも、俺の名前を大声で叫んだ。あまりの声に周りの人たちが手を止め、こちらを見た。
「君は……?」
まったく見覚えがない。もし俺を知っているなら、以前の俺と何か関わりがあったのだろう。
「わ、わたし……ツキシタって言いますっ。そ、その……こんにちは、ありがとう、さかなっ!」
目の前の少女は完全に混乱しているようだった。
「俺のこと、知ってるのか?」
「う、うんっ!ありがとう、あなたのおかげで、わたしたちのチームは助かったの。こ、これ……これ、わたしの持ってるお金全部!受け取って!」
そう言って、彼女はいきなりポケットからお金を取り出す。俺は状況がつかめず、ぽかんとするしかなかった。
「あぁっ!やっぱりレイアだ!」
そのとき、周囲の人々が次々と集まりはじめ、口々に俺の名を叫ぶ。人だかりが一気にできた。
訳も分からないまま人に囲まれそうになった俺の腕を、蓮がすっと掴んだ。
「行くよ。」
彼女はそう言って俺を引っ張り、人混みを抜け、階段を駆け上がる。
熱気に包まれた人々は追ってこなかった。
風を感じながら、笑みを浮かべる蓮の横顔を見て、ようやく彼女が言っていた「お前のこと」の意味を理解しはじめた。
屋上に出ると、久しぶりの風が頬を撫でた。俺と蓮はゆっくりと手すりへ歩み寄る。
「ここ、昔は病院だったんだよ。今は適応者専用の施設に変わってるけどね。高くはないけど、この辺りを見渡せるんだ。」
「それで――」
「ほら、あそこ。」
蓮が俺の言葉を遮り、下を指さす。
視線の先には、交差点のそばの大型電子スクリーン。そこには、俺の写真が映し出されていた。十数階上からでもはっきり見える。
少し離れた場所には巨大な横断幕。文字は読めないが、「レイア」と書かれているのだけは分かった。
「人は、何のために生きると思う?」
蓮は俺の疑問には答えず、逆に問いかけてきた。
質問としては悪くない。俺は即答できる。
「分からない。」
俺が唯一確信しているのは、その答えを知らないということだった。
「希望――それが、人が生きる理由だよ。」
希望。俺にはまだ理解できない言葉だ。
「明日が良くなるかもしれない、未来に奇跡が起こるかもしれない――そう信じる気持ちが、人を生かすんだよ。逆に、未来に絶望した人は、生きる理由を失ってしまう。」
蓮は優しく語る。けれど俺の胸には、まだその感覚はない。
「でもね、いつか――心の底から幸せだって思えることを経験したとき、きっと分かる。
それまでは……レイア、あなたは“誰かの希望”になって。」
「誰かの……希望?」
その言葉の意味を理解できず、俺は首を傾げた。




