3.学院の異端者
◎
「――初めからここに来る奴らは珍しいよ」
振る舞われた晩御飯を頂いているとキッチンから出て来たマダムは荒い鼻息を鳴らした。
配膳されたのは何の変哲もないパン、スパイスの香り過ぎるスープ、気持ち程度の肉料理という手癖で作ったようなメニュー。味は簡素だがなかなか美味しい、とレーゼインは思った。
「そうなんですか?」
「大抵、他の奴らと反り合わなくて渋々来ることがほとんどさ」
「あぁ……ここの寮はほとんど説明がないですしね」
学院入学の際に紹介されるのは『邸宅』と『集合住居』のみ。貴族寮と平民寮と呼ばれていないのが小賢しい。恐らく、数人の平民が『邸宅』の方に行って酷い目に遭っただろう。
どうやらノアの舌は庶民の料理を受け入れられず、あまり食事は進んでいない様子だ。
「私の場合はどちらにしても排斥されることは分かり切ってましたから」
「まぁ、小さいから仕方ないだろうね」
「そんな理由で追い出されたら泣きます」
あけすけなマダムはレーゼインの気にしていることを平然と言い放った。はっはっはっ、と笑って満足したのかマダムはキッチンに戻る。
途端に食堂が静寂に包まれた。
「ねぇねぇ、ノア」
「どうかしましたか? レーゼ様」
「さっきね、凄い可愛い娘がいたんだよね。だから、付き合おうかなー、って思うんだ」
「はぁ」
さも当然のように言うものだからノアはしばらく言葉の意味を理解できなかった。スープを混ぜていたスプーンの動きを止めたのは五秒後のこと。
「レーゼ様……それは――女性ですか?」
真っ先に確認しなければならないこと。
レーゼインは不服そうに腕を組んだ。
「当たり前じゃん。プロフィールに書いてるでしょ、『#男絡みいらん』って」
「そう、ですよね……」
女性に対しての性愛――。
ノアはとりあえず安堵の息を吐く。
世の中には凄く可愛い男の子がいてもおかしくない。主がそんなものに引っ掛かった、となればノアとしては強引にでも引き裂かなければならなくなる。
「私がいながら、隣に女性を侍らすのですか?」
「まだ片手が空いてるんだもん。両手に花が良いじゃん?」
「…………」
こんなこと聞かされて素直に受け入れられるだけの包容力はなかった。左手担当ノアは本心を押し殺し、黙々と美味しさ感じない料理を口にする。
レーゼインがそう言うなら従うしかない。
「明日からは私がお料理しましょうか?」
「お昼は考えようかな」
マダムが寮生に腕を振るうのは朝晩のみ。卒のない回答にノアの気分は更に落ちた。釣った獲物に餌をあげないタイプらしい。
静かにレーゼインの口の端は吊り上がっていた――。
貴族寮には棟毎に一つずつ、平民寮には巨大な公衆浴場が設置されている。では、逸れ者の寮はどうかと言えば、ただ水が流れ落ちるだけのシャワー擬きが五つのみ。
「ここは隔離施設か何かかな?」
頭から冷水を被ったレーゼインとノアは最低限身体を洗ってすぐに部屋に戻った。
使い古された魔光石も夜にゆっくりするには丁度良い明るさだった。椅子に座って足を前後に揺らしながらレーゼインは問う。
「ノア? ご機嫌斜め三〇度、って感じ?」
「何を言っているのかわかりません」
基本的に表情筋が硬直しているノアの心情を顔色で当てるのは難しいので、レーゼインは声音で判別していた。ただ、そんなことをするまでもなく理由はわかっている。
椅子から飛び降りると二段ベッドの下段に入り込んだ。
「ノア、もう寝るよ」
「……では、私は上を使いますね」
レーゼインは身体を横向きにし、空いた部分をポンポン叩いた。ここに来なさい、という意味である。
ノアが魔力の波動を光の魔法石に浴びせると部屋の光が落ちる。夜目はまだ効かず、お互いの表情の色が見えなくなった。
添い寝する二人。一人用ベッドに無理矢理二人が入れば身動ぎ一つもできない狭さだ。数センチという至近距離で顔を見合せる。
「おやすみ、ノア」
「おやすみなさいませ、レーゼ様」
ぐっ、とレーゼインが間隙を埋める。唇と唇が重なった。一瞬触れるだけのフレンチキス。そのまま、ノアの豊満な胸に顔を埋めて眠りに就く。
ノアが『まともに呼吸ができないのでは』と指摘しても『ここで死ぬなら本望』と言っていたことを思い出した。
レーゼインの小さな身体を抱き寄せる。
二回りも小さい、抱くだけで壊れそうな肢体を愛しさと柔らかさで包み込んだ。
「レーゼ様……お慕いしております、誰よりも」
ノアは朱色に染まった頬で微笑んだ。
◎
レーゼインの登校二日目は鮮烈なものだった。
浮き足立った空気の漂う寮から学園までの道のりを堂々と闊歩するノアに道行く生徒達は好奇の視線を向けていた。
生徒は茫然と眺め、間もなくひそひそ、と不愉快な囁きが聞こえて来る。
ノアがメイド姿で登校した、なんてことない。彼女が抱えているものに視線が注がれているのだ。
「私達、超目立ってるね」
「当たり前です。どうしてこんなことをしようと思ったのですか?」
呆れ半分の息を吐いて、腕の中に収まったレーゼインに質問を投げ掛けた。
レーゼインはノアにお姫様ように抱かれている。首に腕を回し、これ以上なく密着していた。
まさに恋人の距離感。そこに初々しい空気は流れていなかった。
「高い景色好きだから。後、悪目立ちするの好きなんだよね」
「悪趣味ですね」
「優越感に浸れるのが良いんじゃない。平凡じゃない感じがしてさ」
「……そんなことをしなくても十分目立っていますよ」
「小っちゃいだけじゃん」
二人だけの世界に浸っていたレーゼイン達の道を塞ぐように貴族男子三人が現れた。この年齢の男子はまだ若干幼い顔付きをしていて、努めて威圧的に見えるように表情を硬くしているように見える
「ヴァイススターの恥晒しめ」
周囲の生徒にも聞こえるようにわざと大きな声でリーダー格の貴族男子は言う。
「生家だけでなく学院、ひいてはゾルステアの品位を落としてる自覚はあるのか」
「え、急に何?」
「学院に給仕を連れて来ることは禁じられている。お前のような女が『八円剣』の血族であるのと到底認められない、これは問題だぞ」
迫真の弾劾であるが、彼らの口の端は嘲笑で吊り上がっていた。鮮やかな手並みだ、如何にも慣れている風である。
「人を詰るのが趣味みたいね。これこそ悪趣味か」
「すぐに教師陣へ報告させて貰うぞ。どうしてもと言うなら、掛け合って罰を軽くしてやらんこともないが、相応の対価は払って貰わなければな」
彼らの下卑た視線はノアの身体へ向いている。
顔も身体も極上中の極上、男が色香に惑わされるのも仕方ないかもしれない。だが、レーゼインは自分のものを誰かに奪われるのを最も嫌悪する。
今更、何を言われても捨て置くのだが、所有物を奪おうとしているのなら話は別だ。
自然と口調に冷たい敵愾心を宿らせていた。
「あなたの名前なんだったかしら?」
「アルカサ・ヴァレナ――お前よりも真の貴族に相応しい者の名だ」
「へぇ……聞いたことない家名。第三爵位家か、随分と生意気なこと言ってくれるね」
階級のことを口にするとわかり易く悔し気な表情に変わる。
第二爵位家の権力は王家に次ぐ、格下の貴族へ加えられる圧力はかなり強い。制裁の手加減を間違えれば、滅ぶこともある。
「それに相当頭が悪い、と見える。こんな人混みの中で恥を晒すのは自分だ、ってのにね」
「何だと?」
「そもそも、学院はメイドを連れて来ることを禁じてない」
「はぁ? 自己正当化に頭がおかしくなったか? 学院の掟は例え、王家であっても守らなくてはならない。王家に準じないなど、叛逆にも等しいことを理解しているのか?」
「禁じているのは、魔術師以外が学院の敷地に踏み入ること。逆に言えば、魔術師ならば問題なく行動できる」
「まさか……そのメイドも魔術師だとでも!?」
アルカサが戦慄するのは当たり前。
魔術という極めて希少な才能を持つ者をただのメイドとして扱うのは余りにも勿体ない。兵や護衛、スパイにもなれる優れた人材に給仕をさせるのは人材の無駄遣いそのものだ。
「そもそも学院が非魔術師の侵入を認める訳ないじゃん。あなたの方こそ学院、ひいては王家を軽んじてるんじゃない?」
「そ、そんな訳が……!」
レーゼインは恥辱と焦りの汗を流す少年に微笑み掛けた。
嘲笑を込めた邪悪な笑みはまるで魅了の悪魔のように美しい。
「よくもそんな人前で自分の無知と無能を晒せたものね。そんな低能だからその程度のこともわからないんでしょうけど。きっと、学院中でこう言われるんでしょうね――放蕩娘にすら言い負かされる情けないお坊ちゃん、って」
「ッ、このヴァイススターの面汚しが――!」
言い負かされ、血が昇った中で搾り出した言葉から底は知れた。
レーゼインは無価値を下し、視線を逸らす。
肩を叩かれたノアはレーゼインを抱いたまま校舎へ歩みを進めた。彼らが退く素振りを見せなかったので脇に避けてすれ違う。
止まっていた時が動き出したかのように観客だった生徒達の足も教室へ向かい始めた。
世界に置いていかれ、立ち尽くしていたアルカサは奥歯を噛み締め、固く拳を握った。
「ッ、お前のような奴はここでは今に淘汰される! 精々、怯えていろ! 恥晒しがッ!」
「語彙が足りてないよ、私以下の凡人。ていうか、君誰?」
代替可能な歯車を識別するために脳のリソースを消費するつもりはない、という体で尊厳を踏み躙る。個の存在を否定するレーゼインの精神攻撃だった。
校舎に入る直前でレーゼインはノアの腕から降りる。
「ありがとね、私のお姫様」
「いえ……それより、大丈夫ですか?」
「ん、何が?」
「少し気分が荒れているようですから……落ち着いたなら良いのですが」
「もう大丈夫、体温は下がってる」
奴らが屈辱そうに俯いた姿を見て留飲は下がった。
ノアが屑に下卑た視線を向けられている、と想像するだけで吐き気を催す。脳味噌まで燃え尽きそうな独占欲が渦巻き、体内の魔力の波を収めることの方が大変だった。
「……ノアのノアは制服じゃ全然隠し切れないものね」
「はい?」
「明日からシーツを被って登校しないと。目のところに穴を開けて……」
「意味がわからないことを言っていないで校舎に入りましょう」
「それともノーバみたいな感じにしようか――」
ブツブツ、と呟きながらレーゼインはノアに続いて学院内へ足を踏み入れた。
◎
学院の新入生が受けなければならない必修科目に『魔術概論』・『魔導概論』・『基本剣術』がある。
魔術理論は実践的魔術の前提。
魔導理論は魔法陣解析の前提。
基本剣術は魔剣術の前提。
総計百人程度の新入生が三つに振り分けられ、順番に講義を受けることになる。俗に言う『クラス分け』に近いが、一回生のみのシステムなので以降は大学のように自分で選択して講義を受けることになる。
レーゼインに割り当てられたのは『基本剣術』。基礎の王国剣術三級の習得を目指して訓練する授業である。
基本剣術を学ぶ生徒達は動き易い服装に着替えて修練場に集まっていた。レーゼインは長い金髪を一本結びにして後ろに垂らしている。
講師は二十代後半といった様相のグラサンを掛けた女性だった。目付きが非常に悪く、戦の世界に浸かっていたであろうことが察せられる。
「三級は基本的な型を覚えるだけだ、やりゃ誰でもできる。できない奴は集中力の欠けている人間か阿呆だな」
木剣を伝説の剣のように地面に突き立て、仁王立ちする。
その女性をよく見ればかなり筋肉質だったが、かなり均整の取れた肉体をしていた。口調は攻撃的だが、剣術に関して言えば柔軟性を活かしそうだ。
講師は一度だけ型を披露した。止めるところは止めて、技の流れは流麗だった。
「自分が必要だと思った鍛錬をしろ。やり方は個人の判断に任せる」
それだけ言うと生徒に木剣を配布し、修練場の片隅に背を預けた。
初心者への教育なんてさらさらやるつもりはないようだ。放任主義なのはレーゼインとしては望ましいことだった。
まともに授業を受けるつもりはない。汗搔いたら嫌だ、という実に乙女らしく下らない理由である。
「そうでなくてもできないけどさ――」
型の打ち合いをするために二人必要でもレーゼインが誰かに相手として選ばれる道理はない。以前からの悪名に加え、数時間前の貴族同士の諍いの件も既に広まっている。底辺同士の醜い争いである。
既に貴族・平民に関わらずアンタッチャブルな存在として認知されていた。
堂々とサボタージュするのも退屈なものなのでまるで意味があるかのように修練場を歩き回る。講師気取りで生徒達の実力を観察してみた。
やはり、貴族生まれは剣術の指導を受けていることが多く、既に三級以上の実力を有している者が多い。彼らは更に上位の級を目指して各々の鍛錬を積んでいた。
対して平民は初めて剣を振るう、という者が多く、持ち方からして危うい。
その中に殊更見ていられない初心者を見つけた。
「ゼント君じゃん」
「あ……どうも」
少年は煮え切らない会釈をする。
どうにもどんな態度で接するか迷っている様子だ。レーゼインにすればこんな態度を取られるのも珍しくなかったので特に何とも思わない。
「変な噂でも聞いた?」
「噂というか、実際見ましたけど……」
「あ、そう」
「――貴族の方だったんですね、本当に」
「疑ってたの? 別に何と思われても良いけどさ。後、その片言の敬語聞いててうざいから止めよう」
「うざい……」
ゼントは女子にストレートに悪口をぶつけられ、月並みに落ち込んだ。
「じゃあ、普通に話すけど……罠じゃないですよね?」
「しつこいなぁ」
「……ごめん」
「謝んないでよ、挨拶みたいなものだから」
「貴族の挨拶は怖いな」
敬語を止めていたものの声音から情けなさが滲んでいる。状況に慣れていない、という色合いが強い。
「まぁ、それだけ」
「あ、そう……」
「素振り続けて」
「はい」
レーゼインに言わるままゼントは木剣を振るう。
明らかに歪んでいる剣筋。
ゼントは木剣を提げて振り向いた。
「……あんまり見ないで貰えると助かるんだが」
「自意識過剰なんじゃない」
「そうかな……」
ゼントは針の筵のような気分で素振りを繰り返した。
空気椅子に落ち着いたレーゼインは頼りになさそうな背中をジッ、と見詰める。片田舎から出て来た少年にしか見えない。
特筆すべき点は零。
「逆に主人公タイプか、これは……」
苛立たし気に呟いていると――ガシッ、と頭を掴まれた。UFOキャッチャーのように持ち上げられ、直立姿勢になる。
剣術講師――アルティ・プラーナは苛立たし気を隠そうともしないで舌打ちした。
「さっきから塵芥虫みたいに動き回るな、五月蝿い」
「大声は出していませんけど」
「無闇に魔法を使うな、と言っている」
「あぁ、そういう……」
レーゼインは気配と足音を魔法で薄めながら練り歩いていた。魔法を纏いながら教練場内を動き回ることで妙な流れができたらしい。
「余計なことはせず馬鹿みたいに棒を振ってろ。お前は学院長からも警戒されている問題児だからな、変なことはするなよ」
「学院長から? 怖いですね――ところで、『基本剣術』の免除は何級からですか?」
「五級だな。精々一般人一〇人を同時に相手取れる程度か」
アルティはいとも簡単なことのように言うが、それがどれだけ洗練された技術が必要か改めて考えなくてはならない。
基本剣術の粋を出ている。この講義を受けているだけではまず達成できない。
しかし、レーゼインは顔色一つ変えなかった。
「今、他に剣術の講義しているところありますか?」
「……第一教練場で八級の剣術指南が行われているはずだが」
「八級……まぁ、良いか。ありがとうございます」
一礼、踵を返したレーゼインは速やかに修練場を出て行った。その際、ポケットからハンカチを落としたことには気づかなかった。
堂々としたエスケープにアルティも言葉を出せなかったようだ。
◎
「――ひけらかすのは好きじゃないけど、サボるためだから仕方ないよね」
自己正当化の言葉を呟きながら、校舎から最も遠い教練場に足を踏み入れた。瞬間、木刀が空気を切り裂く重音の連なりがレーゼインの鼓膜を揺らす。
緊張感が明らかに違う――。
生徒二〇人程が黙々と素振り、もしくは掛かり稽古をしていた。一つ一つの動作が洗練されている。ここまで来るとプロと言っても差し支えないだろう。
生徒達の合間を通り抜ける凛々しい目付きの若い男が講師だろう。翡翠色の眼をしている。
レーゼインは置いただけ、という風の孤独な教壇に立った。ほんの少しだけ視線が高くなる。大きく息を吸い込み――。
「――誰か私と試合してくれる人いませんかー!」
幼さ満点の高音が第一教練場に響いた。九割方は稽古の手を止め、訝し気にレーゼインを見遣る。一割は動じることなく剣を振っていた。
「いないかー? 私に勝てそうな人はいないかー?」
レーゼインの悪名は貴族界全体に轟いている。貴族にはまた奇行を始めた、と相手にされない。
しかし、彼女をよく知らない者からすれば単純な挑発に聞こえた。それも猫撫で声で言われれば意識せざるを得ない。
狙い通り、静謐な空間に剣呑な空気が流れる。
最初に声を上げたのは当たり前ではあるが、剣術教諭の男だった。
「――元気が良いことだ。しかし、君は誰だい?」
色男特有の柔らかな声がレーゼインへ質問を投げ掛けた。
「レーゼイン・アスタ・以下略と申します。試合をしたいので審判をお願いして良いですか?」
「審判?」
有無を言わせないままレーゼインは教練場の中央へ躍り出る。長方形の白線が敷かれた内側で剣闘が行われるルール。
当然、対面に入ろうとする者はいなかった。
レーゼインは適当な生徒を指差す。黒髪が綺麗な女生徒が『え』と眉を上げた。
「あなた、ここに入って」
「え、え?」
「試合開始を宣言して下さい、先生」
「私のことですか?」
「では――」
言われるがままおずおず、と白線を踏み越えた女生徒。困惑と理不尽が脳裏を渦巻いていたことだろう。
しかし、レーゼインが剣を抜いた瞬間――表情から色が消えた。一瞬の内に動揺を鎮め、木剣を構える。
口の端を吊り上げたレーゼインは男性教諭に目配せした。
場内における両者の抜剣を両者の合意と見なし、男は声を張り上げる。
「試合開始!」
突如始まった試合を好奇心で観戦する学生達は戦慄することとなる――。
◎
悪名高い少女に運悪く指差された少女――カルナ・フレインは小さな息を繰り返す。
どうしてこんなことになっているのかはこの際置いておく。彼女にとって人選に意味はないはずだ。
目の前の敵をこの剣で打ち据えるまで、余計なことは考えない。両手で握った剣の切っ先をレーゼインへと向ける。
そのレーゼインは片手で握った木剣をだらり、と低い位置に下ろしていた。その出で立ちは余りにも隙だらけ。
一息に距離を詰め、胸を突く、という道筋を描いたカルナは呼吸を深め、一気に踏み出した。
瞬間、ぞわり――と悪寒が背中をなぞる。カルナが『しまった』と思った頃にはレーゼインが眼前に迫っていた。
「はっ――」
小さな身体から繰り出される剣閃の速度を捉えることができない。だが、軌道は予測できる。多少、無理な体勢になったが辛うじて防御を間に合わせた。
――一度、攻撃を受ける。距離を取ってもう一度……。
そんな予測を裏切り、斬撃は直前でキャンセルされた。剣筋は反転。ぴたり、と足首に木剣を添えられる。
「?」
「せーの」
覇気のない掛け声が聞こえた刹那、カルナの視界が反転した。掬い上げられた、と認識したのは床に倒れ伏してからだった。
端から本気を出すつもりもなかったらしい。
レーゼインが鼻先に刃を突き付ける。
「……降参します」
「試合終了、レーゼイン・以下略の勝利」
◎
「いえーい」
気持ち程度の喜びが教練場に淡く響く。
見物していた生徒達は信じられないものを見る目をレーゼインへ向けた。小さな身体にあるまじきパワーと技術に息を忘れたようだった。
身体強化の類いの魔法を使っていないのは審判が確認している。純粋な実力でカルナ・フレインを下したのだ。
レーゼインはカルナに手を貸した。
「ありがとうございます」
「こちらの台詞だけどね」
「強いですね、あなたは」
「実は百戦錬磨なんだ」
気を悪くするどころか称賛までくれた良い女にレーゼインは微笑みを返した。良い女にデレデレしてしまうのは彼女の性だった。
「これで一人目。次の相手は誰ですか?」
「――私」
場内に入ったのはレーゼイン程ではないがかなり小柄な少女である。髪は肩より上で切り揃えられ、彼岸花の紅色が波打った。
目付きは鋭く、話好きという風には見えない。
「お名前聞いて良い?」
「ヴァトナ――ただのヴァトナ」
「私はレーゼインね。只者じゃないレーゼイン」
◎
ヴァトナは木剣を正眼に構える。
先程と同様にレーゼインは脱力したような体勢で迎え撃つようだ。敢えて誘っているのだろう。
審判が試合開始を宣言すると同時にヴァトナは地を蹴る。剣を振るう速度は互角だった。カンカンカン、と激しく剣戟が舞う。
剣士としては非力な方だが、速度と斬撃のしなやかさが秀でている。繋ぎ目のない斬撃の手数で圧倒する、というのがヴァトナの基本戦法だ。
剣を振るう中でヴァトナは目を見張った。
速さと柔らかさを、既にレーゼインは見切り、的確に対処しているのだ。
カルナとの試合を見て、速度に長けていることは理解していたが、技に対しても造詣が深い。
ならば、と――ヴァトナは一息吸い、木剣に力を込める。レーゼインより身体は大きいので力比べで圧倒できる、と判断した。
しかし、速かれ遅かれその結論に至ることをレーゼインは予想していた。初めから待っていたのだ。波が揺らぐ瞬間を。
それはカルナとの戦闘でも使った合気に通ずる技術である。
ヴァトナの次の一手への呼吸を察知したレーゼインは転調の隙に一気にヴァトナの背後へ回り込んだ。
「ッ、それは――さっき見たッ!」
予想外のはずだった。にも関わらず、ヴァトナは反応して身体を捻じ曲げた。
賞賛に値する驚異的な反応速度。
だが、そこにレーゼインはいなかった。
代わりに、首筋に刃が触れている。
「……また回り込んだのか……それは……私の動きを完全に読んでなきゃできない……」
ヴァトナは剣を腰に帯びた。それを降参と見なし、審判は本日二度目のレーゼインの勝利を宣言する。
ヴァトナは礼をしてからレーゼインに問う。
「王宮剣術じゃなかったけど、何の流派なの?」
「我流だよ。剣を教えてくれる人はいなかったから」
「予測ができない訳ね……」
「普通が嫌いなんだ、私」
「それは確かに只者じゃないね」
剣術と名乗れる程高尚なものではない。対人戦闘で勝つためだけにレーゼインが編み出した不意打ちに特化した技術の体系化に過ぎない。
今やどうして完成させられたかは不明だが、前世の記憶から良いところを抽出して原型は作られた。
「じゃあ、三人目はー?」
レーゼイン襲来から一〇分程が経過した。
その間に幼い身体から発されたのはひたすらの異常性だった。カルナとヴァトナに一瞬で勝利しながら息一つ切らすことなく三人目を探す姿は戦闘狂のそれ。
「じゃあ、誰か指名するしかないな……どうしようかな」
レーゼインが真っ先に探したのは女性だった。
やはり、戦うなら美少女に限る。不躾に見定めているとレーゼインの小さな身体を影が覆い尽くした。
顔を上げると、身長一九〇はありそうな巨漢に睨めつけられていた。
「誰?」
「さっきからピーピーピーピー五月蝿いんだよ。そんなに試合したいなら俺が相手をしてやる。どうなっても知らないがな」
冗談のように筋骨隆々な頭の尖った男子生徒。手にしている木剣が玩具に見えてしまうサイズ感。顎髭を蓄えており、とても学生には見えない。レーゼインとは逆の意味で年齢詐称の疑いがある。
「ま、誰でも良っか。じゃあ、宜しく」
「一年風情が嘗めた口を……後悔しても知らんぞ」
お約束のようはフラグを口にした大男はレーゼインの対面に立つと、厳かに抜剣した。
実際、数年は剣術を学んでいただけはあり、高圧的な態度からは想像できない静謐さが刃に宿っている。
「試合開始!」
審判の宣言から数呼吸――。
男が滑るように接近し、剛腕の一刀を振り下ろす。フィジカルの差を考えれば、最善手。下手すれば一撃で終わることさえあり得る。
レーゼインは寸前で助走のために一歩下がり、身体を捩じった。大きく息を吸い、回転と遠心力、体重移動を木剣に乗せて振り切る。
一際大きい木剣同士の激突音。
一方的に吹き飛んだのはレーゼインではなかった。
おおお、という観客の静かな感嘆が上がる。
「な――」
男子生徒は自分が後退させられたことに戦慄しているようだった。
現実的に考えて、五〇センチも離れている相手に力負けするのはまずあり得ない。彼の動揺は極自然ことだ。
レーゼインは不敵な笑みを湛え、剣先を男の額へ向ける。
「大口叩いておいてそんな程度かぁ、ちょっとダサいかも」
「貴様ッ、一度――」
奥歯が砕けんばかりに食い縛って男は殴るように剣を振り切る。辛うじて剣術の枠に収まった一閃の袈裟斬りだ。
「――弾いたくらいで調子に乗るなァッ!」
「ハイ」
レーゼインはテニスボールでも打つように首の後ろまで振り抜いた。今度はどちらも一歩後退する拮抗。次いで放たれた横薙ぎは下から打ち上げる。
一瞬の空白――。
大男は左足の踏み込みから本気の縦振りを脳天目掛けて繰り出す。レーゼインが互角のパワーを出す時には必ず助走が必要になる、その隙に潰す速攻の振り下ろしだ。
「ぬんッ――!」
「そうだよね」
刃を触れ合わせた瞬間、レーゼインの下半身に凄まじい負荷が掛かる。
男は剣から伝わって来た感触で打ち勝てる、と確信した。渾身の力を込め、少女を上から圧し潰す。
少女は無感情に息を吐き、刃を側面である腹で滑らせた。剛剣の軌道が曲がり、切っ先が床にまで突き刺さる。
レーゼインはがら空きの巨漢の首に刃を添わせた。誰が見てもわかる完膚なきまでの勝利。
すぐさま審判が片手を挙げ、声を発する。
「試合終了、レーゼ――」
「ッ、ふざけるなァッ!」
「潔さのない男はただただ醜いだけだよ」
剣を踏みつけるだけでつんのめりそうになり、男子生徒の足掻きは空回る。
「――イン以下略の勝利」
「クソッ、魔剣術だったら、この俺がッ……!」
大男は屈辱と怒りに震え、衝動のまま床面に拳を叩きつけた。
いつの時代も未知に敬意を払わない者は足下を掬われるのが道理である。
彼にはわからないだろう。弱者が強者に勝つためには頭を使わなければならないことを。その理由を本能的に理解できない彼にはそこにどんな技術が使われているか想像すらできない。
剣から足を退け、木刀を佩いたレーゼインは軽く肩を回した。
「――準備運動は終わりかい?」
「えぇ、まぁ」
男性教諭に問われたレーゼインは返事し、全身の関節を解した。
大男が背中を丸めて場外へ出ると同時に碧眼の優男が入場する。高級感のある艷やかなローブを脱ぎ捨てた。
「学院剣術八級の取得条件は七級以上取得者に三回以上勝利すること。九級以上取得者との一回以上の立ち会い――この場にいる九級以上は私しかいない」
「そういうことです。審判は他の方に任せても構いません?」
「では、カルナ君に任せることにしよう」
第一回戦相手の美少女が審判を務める。
先の三戦は手加減をしていたレーゼインだが、この男相手で同じことはできない。彼は学院剣術資格を超え、国から剣技を認められた数少ないマスタークラスの剣士だ。
「先程の三試合、どれも見事な腕だったよ。入学したてでそれだけの実力を有した生徒は数えるほどしかいないよ」
「いるにはいるんですね」
「現に目の前に。剣を交えたくて堪らなかった、君の本気を見せてくれ」
「本気ですか……胸を借りるつもりでやりますよ」
そして、両者、抜剣。途端に顕出した戦闘力は武器が鉄製だ、という錯覚を観客に見せる。
剣士は真っ直ぐレーゼインを見据えながら、名乗った。
「――ゾルステア王国流剣術『階梯級二段』グラン・ディティエル・レ―ディン」
「存じています」
「私も君を知っているよ――レーゼイン・アスタ・ヴァイススター」
どちらも『八円剣』に名を連ねる名家である。貴族界では知らない者がいない有名人。放蕩娘と剣士とでは意味合いは一八〇度違うにしろ。
どちらも口を噤み、静寂が漂い始めたところでカルナは一息吸って、叫んだ。
「試合開始!」
◎
――ゼントは、人よりも少しだけ運が良く、人よりも少しだけ優しいだけの少年である。
これといって特徴ない人畜無害そうな顔はいつもより少しだけ引き締まっている。勝手に知らない学院を歩いているだけで悪いことにしている気分になっていたからだ。
目的地は第三教練場。ゼントの手には一枚のハンカチ。
「平民の俺がこんなところにいても良いんだろうか……」
しかし、穢れのない水晶のような瞳に迷いはなかった。自分の行動は正しいものだと信じ、その結果を受け入れる準備がある。
学院の奥地に建てられている第三教練場に辿り着いてからも何度も場所を確認した。深呼吸を一度してから、意を決して扉を開く。
「失礼しま――」
ゼントの声は誰に届くこともなかった。
教練場にいた全員があることに夢中になっていたからだ。吸い寄せられるようにゼントも試合場の中央へ視線を向けた。
そして、瞬きする暇のない絶戦に飲まれる。
◎
「――試合開始!」
「ッ――!」
最後の『し』が発音されると同時にレーゼインはグランへと駆け出す。剣技では敵わない相手に長期戦は期待できない、と判断し、速攻で決める算段を立てた。
グランが慣れる前にレーゼインにしかできない凶悪な技を決め続ける。
まず狙うのは下段の下段。潜り込むように間合いに侵入、足首目掛けて木刀を薙ぐ。危な気なくバックステップで避けたグランに追随し、執拗に足を狙い続ける。
「これは……実践な基づいた、勝つための剣技だね」
余裕綽々という風に分析するグランは二度目以降の攻撃は剣で防いだ。そこからは一歩も動かすことができなかった。
「一体どんな経験を積めばこの修羅の如き剣技を完成させられるんだい?」
「よく森に野盗がいたもので」
「恐ろしい野盗がいたものだ」
レーゼインは一度、距離を取る。これだけ喋る余裕があるのだ、一度見せた小細工は通じないだろう。
――ま、及第点、ってところかな。
普段はそんなに意識しない足下にも意識を裂かせただけで十分。
「では、次はこちらから行かせて貰うよ。王宮剣術のやり方でね――」
「――なっ!?」
グランは五メートルという距離を一歩で詰めてみせた。レーゼインのように合気と注意力を使ったものではなく、シンプルな技術と身体能力で距離を潰された。
振り下ろされた斬撃に触れた瞬間、絶対に打ち返せないことを理解した。レーゼインは攻撃を受け流す以外の選択肢を捨てる羽目になる。
受け流す、と言っても先程の大男の時のようにはいかない。あれは力任せに振ったものだから簡単にいなせただけであり、グランの技と力のハイブリッド剣術相手に使うには余りにも至難。
それでもやらなければ腕の一本は平気で持っていかれる。
レーゼインの胸中に焦りはない。ただ、こちらが全力で攻撃をいなしているのに、グランは何事もなかったように剣戟を重ねる、という現実に辟易する。
単純な年季の差。だが、この覆しようのない圧倒的な差を『理不尽』と呼べないのは許し難い。
吹き出る汗の不快感を片隅にレーゼインはひたすらにチャンスを待つ。
攻撃密度は変わらないまま試合場を区切る白線の手前まで押し込まれ、レーゼインは表情を苦悶を滲ませる。
その瞬間、グランの無意識レベルの緩みを感じ取った。剣戟密度は変わらないため一見では気づけないが、精神――魂の揺らぎを魔力で見ることはできる。
刃を弾き、視界の右側にできた隙間に身体を潜り込ませる。追撃が来る前にレーゼインはすれ違い様の一太刀――グランの前髪が舞い上がった。
素早く距離を取ったグランは上体を起こすレーゼインに笑い掛ける。
「本当に型もなにもないようだ。まさか左手に持ち替えるとは……目測に依存していたら首を斬られていたよ」
「なかなか上手く行かないものですね」
「魔剣には剣身が伸びるものもある、それを見たことがあったからだよ。剣技だけでそんなことをする者は見たことがなかった」
「でしょうね……」
こんなものは剣技ではない。
それでも前髪を斬るのが限界だった。
今までは反撃すらできなかったが、一度は当てられたのもまた事実。効果がない訳でもないのだ。
レーゼインは深呼吸を一度、睨みつけるような視線でグランと対峙する。頬を伝った汗が置いていかれる速度で駆け出した。
木刀を背中まで引き、思い切り投げつける。
しかし、小さな身体で発揮できる投擲能力は簡単に見切られてしまう。
グランは目を見張りながらも、木剣を天井へ打ち上げた。完璧な角度と威力により突き刺さる。
敵の剣を叩き落とす技は存在する。戦を主眼に置いた競技のため、この技を決められれば即敗北となる。
しかし、自分で捨てた場合のルールは定義されていない。だがそれは、素手で剣に挑むこと自体無謀だから制定する意味がないからだ。
――勝負を投げた?
だとすれば、グランとしてはレーゼインを心底軽蔑せざるを得ない。無謀な戦いに挑むくらいなら負けを認めるのも一つの選択肢だ、と理解している。
しかし、自棄になってこんなことをするのなら剣を持つ資格さえない。
グランは腕から力を抜いた。どんな意図にせよ、突撃してくる少女を強かに打ち付けても最早意味はない。レーゼインにガシ、と組み付かれる。
グランが剣を握る手に指を捩じ込んだ。堪えきれないとばかりにレーゼインが笑った。
「あはっ」
「――まさかッ!?」
グランが気づいた時には最後の勝負は始まっていた。
「最初から私の剣を奪い取るつもりで……!?」
「よしよしよしよし」
「ぐッ」
身を引こうとしたグランは躓き、背中から倒れる。レーゼインの足が引っ掛かったのだ。
グランが距離を取ろうとすることを読んで、レーゼインが足を伸ばしていた。
剣術に足を掛ける技は当然ない。反則行為だが、グランから引っ掛かりに行ったようにも見えなくもなかった。
馬乗りになって木剣を奪おうと狂ったように暴れる。グランの肩を床に押し付けているので反撃も全体重を乗せれば相殺できた。勝敗の趨勢は指先の力に依る。
主導権はレーゼインが掴んだ。
刃に全体重を乗せ、グランへ押し込む。刃が肩に触れる寸前で力は拮抗した。
「後少しっ……!」
「くッ――」
迫って来る刃を注視する最中――ふ、とグランは視界の端に転がる木剣に気づいた。
天井に打ち上げたレーゼインの剣が落ちて来たのだ。揉み合いになって落下音に気づかなかったらしい。
呼吸を止め、グランは片手を離した。瞬間、刃同士がぶつかり合う。余りに早過ぎる振りに、間近にいたレーゼインすらいつ差し込まれたか気づけなかった。
「え?」
二本目の剣を首筋に添えられ、レーゼインは敗北した。
グランから離れるとへなへな、と尻餅をつく。無闇息を吐かず、深い呼吸を繰り返して心拍を下げた。
グランが膝を折り、木剣を渡して来る。
「レーゼイン君……とても、強かったよ。一体どんな経験をしたらあんな戦い方を……」
「――認められますか?」
「あ、ああ……『学院剣術七級以上取得者に三回以上勝利、九級以上取得者との一回以上の立ち会い』、文句なしの条件達成。ゾルステア王国流剣術『階梯級二段』グラン・ディティエル・レ―ディンの名において、レーゼイン・アスタ・ヴァイススターに学位剣術八級資格を認定する」
学院教師が認めることで剣術資格が生徒に付与される。レーゼインは当初の目的を果たした。これで無事、『剣術基礎』の授業を受けなくて済む。
安堵共に腕を伸ばして色っぽい息を漏らす。
立ち上がったグランが手を差し伸べたので、掴むと一気に持ち上げられた。
「学院史上最速の認定だろうね」
「もっと凄い人もいると思いますけど」
「だとしても君が上澄みなのは変わらない。良ければ『剣術研究会』に入らないかい?」
「止めておきます」
レーゼインは即答した。剣術に興味がないでもなかったが、専門的に学ぶとなれば話が変わる。
「私の剣の実力は八級が限度でしょうから。ほら、小さいですし……小細工ありならどうにでもなりますが」
「そうか、君なら上手くやる、と思うが無理強いはできないな」
頬を伝う汗を拭こうとポケットに手を入れたところでレーゼインはハンカチを落としたことに気づいた。汗は襟で拭い、受け取った木剣を腰に提げる。
「そろそろ講義の時間が終わるので失礼します」
「あぁ、気が変わったらいつでも声を掛けてくれ」
レーゼインは『だとすれば、今生の別れですね』と口にしようとしたが留めて、第一教練場を後にした。
扉を後ろ手に閉じたところで立ち止まる。
すぐ横にゼントが立っていたからだ。
「……覗き見とは趣味が悪いね」
「いや、そんなつもりなかったんだけど……ごめん。ただハンカチを渡しに来ただけなんだ」
「あぁ、拾ってくれてたんだ。ありがと」
「うん……」
「何もぞもぞしてんの、言いたいことがあるならはっきり言ってよ。ムカつくからさ」
「……はい」
容赦のない辛辣な発言にシュン、としながらゼントは口を開く。
「あんなに強いなんて思わなかったから……凄い、と思って」
「月並みな感想ね」
「いつの間にか見惚れてた」
「結構卑怯な技使ったけどね」
「それでも……凄い、と思ったんだ」
「ふーん、そう。まあ、お礼は言わないよ」
普通の感想。それは、レーゼインとゼントのレベルが離れていることを意味する。
ピアノを弾いたことない者はカエルの歌を弾けるだけで称賛するものだ。カノンを弾けても、月光を弾けても、同じ感想を口にする。
何が凄いのか理解できていなければ言葉の重みもそんなものである。そんな薄い称賛はいらない。
レーゼインはゼントから手渡されたハンカチを受け取る。ハンカチを指に挟んだまま手を振って、第三教練場を後にする。
その際、一瞬だけ手が触れた。
「…………」
少年は掌を見詰め、ふ、と思い出す。
情けなくセレナに縋り、口を一文字にして涙を流していたあの時を――。
◎
――あの日、あの時、停滞していた人生が音を立てて動き出した。眩い黄金が道を指し示した。
物心つく前に両親は死んでいた。
だから、記憶にある一番古い記憶は今にも森に飲み込まれそうな孤児院に子供数人が暮らす光景と、孤児院を営む貧相で生きているのか死んでいるのか見分けがつかないような老婆の姿だった。
自分が劣悪な環境に身を晒していたことさえ知らないほど幼かった。
終わりへ向かうだけの虚無な生。自分が生きていたことさえも容易く忘れられる真の終わり。
あの日、人攫いに拐かされた。
牢屋の中に押し込まれた時、初めて恐怖という感情を理解した。情けなく幼馴染に縋り付き、泣き喚くことしかできなかった。
間もなく、牢獄は破壊音により埋め尽くされた。世界が終焉を迎えるのだ、とい本気で考えていた。
何秒か何時間か経った頃、光と共に牢屋が開け放たれる。
光――そう表現するしかない希望の火を灯した子供がセレナへ手を伸ばしたのだ。
自分には縋ることしかできなかった手で救いを齎した。
解放の喜びと自分への不甲斐なさで感情がグチャグチャになった。顔も涙で滅茶苦茶になっていたのだろう。だからか、『仕方ない』とばかりに少女はゼントにも手を差し伸べた。
その暖かな手を握った時――彼女のように強く優しい、灯火のような人間になりたい、と思った。
ほんの少しの優しさと、勇気の残滓が今も残っている。
◎
八年経っても、心の暗闇を斬り裂いた黄金の光を忘れられない。
生きていられることがどんなに幸福なことか初めて知った日――。
手を伸ばすことの意味を知った日――。
全てが一辺した始まりの日――。
何故原点を思い出したのかわからないまま、ゼントは拳を作った。
「――君も道場破りする気かい?」
「いえ、違います」
ゼントは脱兎のように教練場を後にした。
扉から顔だけ出したグランは走り去る少年の背中に呟いた。
「……何だあの魔力は?」




