見つからない右腕
「うわ、もう終電の時間か……」
サークルの飲み会のあと、遅延に巻き込まれながらも何とか地元の駅に着いた俺は、時間を確認しながらため息をついた。
終電が来るまで、あと10分。この電車に乗らないと家の最寄り駅まで1時間近く歩く羽目になるので、終電に間に合っただけマシだが――俺には終電に乗りたくない理由があった。
1ヶ月前、この駅で2人が死ぬ人身事故があったのだ。
被害者は線路に落ちた酔っぱらいと、その酔っぱらいを助けようとした若い女性。
どうやら酔っ払いを引き上げようとした時に女性もバランスを崩してしまい、そのまま線路に転落して轢かれたらしいのだ。
その場に居合わせた訳じゃないが、何とも救いようのない事故である。
地元で起きた事故なだけに、嫌でも噂話が俺の耳に入ってくる。
「終電に乗ると女性のうめき声が聞こえるらしいよ――」
「まだ轢かれた女性の片腕が見つかってないらしいよ――」
そんな話を聞いてから駅に不気味な空気を感じるようになった俺は、近頃はなるべく早い時間に帰るように心がけていた。
だが今日は帰る時間が遅くなったから、終電に乗るしかない。
まぁ、霊感のない俺は今までに幽霊なんて見たことないし。
もし噂が本当でも、俺だったら大丈夫だろう。
そう自分を奮い立たせた俺は、ホームの椅子に腰を下ろすと、スマホをイジり始めた。
時刻は0時25分。終電まで10分。
不気味なホームで楽しく時間を潰すためにも、俺は普段はあまり聞かないアップテンポの曲を流し、ジッと電車が来るのを待つ。
それにしても、もうすぐ終電なのに誰もホームにいない。
ローカル線だからそもそも利用者は少ないが、今まで終電に人がいないことなんてなかったのに。
ますます不気味に感じた俺は、イヤホンの片耳だけを外して、スマホではなく周りを見るようにした。もしお化けが出てきたら、すぐに逃げられるような体勢を無意識のうちに整えていた。
こうもお化けを意識し出すと、何もないのにソワソワとしてしまう。
例えるなら、怖い映画を見たあとに布団から足を出しながら寝ている時の心境に近い。
「絶対に何もない」とは思いつつも、心のどこかで「布団から出した足」を掴まれる姿を想像してしまっているのだ。
例えばいま、足元に誰かの手が忍び寄っているとか――。
そう不意に足元を見たとき。
俺は確かに見たんだ。
足を掴もうとする、血に塗れた赤い手を。
「ううぅっうわっ」と素っ頓狂な声を上げて、俺は椅子から勢いよく立ち上がる。事態が飲み込めなかった。ただ座ったままだと絶対にマズいことだけは理解できた。
椅子から距離を取って、手が飛び出てきた椅子の下を見る。そこにはもう何もない。
そもそも椅子の下には小学生ですら入り込めないようなスペースしかない。そこから手が飛び出してくることは「絶対にあり得ない」ことだった。
――怖がっていたから、きっと悪い幻覚でも見たんだろう。そうだ。あそこから手が飛び出してくるハズがないじゃないか。
自分を納得させて、駅構内にある時計を見上げた。時刻は0時27分。まだ終電まで8分も時間がある。俺は大きく息を吐いて、乗車位置へと向かった。
立つのは疲れるが、このままあの不気味な椅子に座り続ける気には、到底なれない。
フワフワとおぼつかない足を引きずって、俺は乗車位置に立った。
そして片耳に付けていたイヤホンを完全に外して、バッグにしまう。さっきのが幻覚だっていう事は分かる。だけど怖かった。音楽のせいで、左耳が聞こえなくなるのが。
――左側から、"なにか"がやってきても、気付けないから。
チラチラとスマホで時間を確認しながら、1人で終電が来るのを待った。終電5分前になったとき、向かい側のホームに電車がやってくる。それを見てホッと胸をなでおろした。
いつもなら向かい側の電車からこっちのローカル線に乗る人が大量にやってきて、ダッシュでこっちに向かってくるからだ。これで不気味なホームで、1人で待つこともなくなる。
だが俺の目論見を裏切り、その電車からは1人しか降りてこなかった。駅のホームに誰もいなかったことも、椅子の下から手が飛び出してきたことも、今まではすべて「何かの気のせいだ」と思っていたが、そのとき初めて「不気味ななにか」を感じた。
降りた人が少ないのは遅延のせいだろうか? いやもし遅延だったら、逆にいつもより大勢の人が降りてくるハズだろう。
考えれば考えるほど、気分が悪くなってくる。終電まで残り4分。あとは何も考えずに、ただひたすら電車を待とう。大丈夫、もうこれ以上おかしな事は起きない。
そう自分に言い聞かせていたとき、ふと「向かい側のホームに降りた1人の女性」が目についた。その女性はどこに向かうでもなく、その場に立ち尽くしていた。
酔っぱらいだろうか? 足元がフラフラとしていて、小刻みに頭を左右に揺らしている。
その女性をジッと見つめていると、どこからか夜風が吹いた。肌を優しく撫でる、冷たい夜風。だがその風とは反対に、俺の身体は、脳は、一瞬にして沸騰した。
――女性の片腕が、なかったのだ。
さっきまでは気づかなかった。だがよく見ると、確実に、右腕だけがないのだ。千切れているように、関節から先がまるごとなくなっている。
ポタポタと。その千切れた右腕からは、赤い液体が滴り落ちていた。
俺は思わず手に持っていたスマホを地面に落としてしまう。
ガシャンっと鈍い音を立てるスマホ。急いで屈んでスマホを取ったとき、正面から視線を感じた。嫌な汗が額から滲み出てくる。どうか、どうか気の所為であってほしいと目を強く閉じてから、正面を見る。
目が合った。向かい側のホームにいる女性と。
全身の血液が沸騰したのを感じた。俺は急いで立ち上がると、ホームの端にある階段へと向かった。
マズい。絶対にマズい。目が合ったとき、俺は気付いた。気付いてしまったんだ。
その女性の、片目がないことに。
俺と目が合ったとき、ニヤリと笑ったことに。
とにかくその場から離れたかった。終電まであと4分を切っていたが、とてもじゃないが待ってられなかった。1分もあれば、向かいのホームから女性がやってくるかもしれない。もう今日は電車に乗るのはやめよう。1時間近くかかるが、家まで歩いて帰ろう。それかタクシーを使っても――。
ダダダダダッと。どこからか音が聞こえてきた。
駅構内へと続く階段を登っている途中だった俺は、思わず足を止めた。音は向かいのホーム側から聞こえてくる。階段を登っている音? それもかなりの速さで。いったい誰が? ……そんなのは決まっている。
俺は一目散に階段を降りると、向かい側のホームに目をやった。さっきまでそこにいた女性の姿は消えている。つまり、それはつまり。
さっきのあの音は、女性がホームの階段を駆け上がっている音だったんだ。
キョロキョロと、周りを見渡して隠れる場所を探す。だがホームには死角になるような場所がない。外に出るには、階段を登って改札を出るしかない。もしあの女性がこっちに向かってくるとしたら、線路を越えて向かい側のホームに行くしかない。
心臓はバクバクと音を立てて鳴り続け、思わず肩を上下させながら息をしてしまう。
駅構内へと続く階段を見る。まだ女性はこっちにやってきていない。だがあの速さからすると、こっちに向かってくるのも時間の問題だろう。
俺は意を決して、ゆっくりと線路に降りた。そして線路に敷き詰められている石をジャリジャリと踏みつけながら、向かい側のホームへと足を進める。意外と高低差があって、ホームへ上がるのに苦戦する。
こりゃあ、酔っぱらいが落ちたらまず助からないわな……。そう思いながら、後ろに目をやる。
また、目が合った。
あの片腕と片目がない女性と。
今度はさっきまで俺がいたホームに突っ立ち、俺のことをジッと見つめていた。
ヤバい、非常にマズい。俺は急いでホームに上がろうとするが、なかなか上へ登れない。チラチラと女性に目をやると、何もせずに突っ立っているだけだった。それもまた不気味で、ますます焦る。
何度か体重移動を繰り返してようやくホームに登れた俺は、急いで構内へと続く階段へ向かう。二段飛ばしで、一目散に改札へと走った。あの女性もかなりの速さだったが、こっちのホームからの方が改札に近い。急げば追いつかれる前に逃げ切れるハズだった。
階段を登りきった俺は、周りを見て唖然とする。
10分ぐらい前に通ったときは少し人がいたのに、今は俺以外に誰もいなかった。この駅には俺とあの女性しかいないのだろうか? そう感じさせるような静けさだった。
だがその静けさも、"何かが階段を登ってくる音"でかき消される。
やっぱりあの女性は俺を狙っているらしい。
しかしあと数秒もあれば、改札へ着く。どれだけ速かろうと、俺の方が先に駅の外へ出られる。
「――あれ?」
改札の前でICカードを取り出そうとした俺は、ポケットにICカードがない事に気付いた。
右ポケット、左ポケット、尻ポケット……すべて確認したが、ICカードはなかった。
しまった。多分さっきホームに上がろうとしたときに、ポケットからすり落ちてしまったんだ。
焦りながらどうしたら良いか考えようとした俺は「カツンッ」という一際大きな足音にビクッとする。
おそらくさっきの女性がもう階段を登りきったのだろう。ここからは死角になっていた分からないが、もうすぐこっちにやってくるに違いない。
慌てて改札から離れて、近くの自動販売機の影に隠れる。もしさっきの女性が改札やこっちのホームにやってきたとしても、ここなら死角になっているから隠れられるに違いない。
息を潜めて、耳にすべての神経を集中させる。顔を出したらバレるかもしれないから、さっきの女性が何をやっているのか、音で探るしかない。
カツン、カツン、と。
さっきの女性は、今までは打って変わってゆっくりとした足取りで駅構内を歩いているようだった。
その「ゆっくりとした足取り」が、俺の不安を一層に煽る。まるでジワジワと追い詰められている感覚に陥る。
俺は小さく鼻で呼吸をし、早くこの悪夢が終われと目を閉じた。
どうしてこんな事になってしまったのか。俺が怖い話を思い出したから、幽霊を引き寄せてしまったんだろうか? こんなことになるなら、最初から歩いて帰るべきだった。
それにホームで女性を見かけたとき、目を合わせなければよかった。目が合わなければ追ってこなかったんじゃないだろうか? それに追われた時に、ICカードを落とさなければよかった。いやそれより、そもそも改札は飛び越えてでも外に出るべきだったんじゃないだろうか? ICカードなんて明日駅員に言って取ってもらえばいいんだから。
そんなことを考えていると、ふと「音が聞こえなくなった」事に気付いた。
おかしい。さっきまであれだけ俺のことを追っていたのに、急に諦めたのだろうか?
それとも俺が気付かないうちに、ホームの方へ向かったのだろうか?
だとしたら好都合だ。改札なんか無視して、とっとと外に出よう。
俺は深呼吸をひとつしてから、パチリと目を開けた。
――ニヤリ、と。
目を開けた俺の視界に飛び込んできたのは、目の前に立つ、血まみれの女性の笑顔だった。
「あ、ああぁぁぁああ、ぁ」
声にならない叫び声を上げて、俺は女性に持っていたバッグを振りかざす。女性がよろめいた瞬間に、ダッシュでその場から離れた。そしてそのままホームへの階段を駆け降りる。
くそっ、くそっ、くそっ。
どうして今の瞬間に改札へ向かわなかった? 改札側に女性がいたからビビってしまったのか?
そんなことを考えながら、また俺は線路へと降りる。
こうなったら、もう一度一周して、女性を振り切ってから改札に向かうしかない。
俺は向かい側のホームに上がろうとするが、焦って上手く上がれない。このままだと女性に追いつかれてしまう――。俺は後ろに目をやった。やはり追いついてきた女性が、ホームに立ち尽くしていた。
マズい、線路に降りてくるのも時間の問題だ――。
そう思った俺の脳裏に、ふと疑問が浮かんだ。
どうして女性は、さっき線路を伝って俺を追いかけて来なかったのだろうか?
俺がホームに上るのに手こずっているんだから、女性もホームに降りてくれば、簡単に俺のことを捕まえられたんじゃないだろうか?
――もしかして、あの女性は、怖くて線路には降りれないんじゃないだろうか?
そうだ。1ヶ月前の事故で死んだ女性は、電車に轢かれたハズだ。
もし追いかけてくる女性が、あの事故で死んだ女性なら、怖くて線路には降りられないんじゃ?
その証拠に、あの女性はまたもやホームで俺のことをジッと見つめている。
もはや確信的だった。きっと自分が死んだ線路には怖くて追いかけてこれないに違いない。
「……おい、どうした。追ってこれないのか?」
急に強気になった俺は、女性に対して挑発的な言葉を投げた。
自分でも分かるぐらいに震えた、うわずった声だった。
「お、追いかけてこいよ。俺になにか用事があるんだろ?」
指をクイクイっとしながら。俺は女性に対してなおも挑発を続ける。
なんだ。幽霊って無敵の存在かと思っていたけど、そんなことないのか。そう思うと、途端に女性に対して恐怖よりも怒りが勝ってきた。
「なんだなんだ。幽霊って大したこと――」
俺がそう言った瞬間。
ニヤニヤと笑っていた女性の口角が、急激に上がったのが見えた。
……? どうしてこの状況で笑ってられるんだ?
「おい、いったい――」
今度は女性の方に近づいて言葉を投げかけたとき。
プオーンッと、どこからか声が聞こえた。それはいつも聞き慣れていた、電車の音。
左に首を振ると、電車がこっちに向かってくるのが見えた。
待ち焦がれていた終電が、こんなタイミングでやってきたのだ。
今いるのは線路の上だ。マズい、早く離れないと。このままじゃ轢かれる――。
俺はホームに上るのを諦めて、バッグを抱えながら近くの待避所に転がり込んだ。
電車が線路を走る音が耳に響く。
そしてブレーキの「キキッ」という鋭い音が聞こえた。
どうやら何とか逃げ切れたらしい。
「フーッ……」
大きくため息を吐いた俺は、地面にドサリっと座り込んだ。
電車が来たってことは、運転手もいるハズだろう。とにかく、さっきの女性からは逃げ切れたに違いない。全く、悪い夢を見ていたようだった。
電車が光を遮っているから、待避所は真っ暗で何も見えない。
俺はスマホで懐中電灯を起動すると、待避所から出るために声を上げようとした。
――周りを見たとき、俺は懐中電灯を点けたことを後悔した。
だって、懐中電灯の明かりに照らされて。あの女性が、ニヤニヤとした表情を浮かべながら。俺を見つめていたんだから。
……今度は左手に、千切れた右腕を持って。
◇◇◇◇
深夜に駅員室で目を覚ました俺は、電車の運転手らしき男性に「酔っ払って線路に落ちちゃったのかい? 気を付けるんだよ」と心配されながらも怒られた。
どうやら俺は気絶する瞬間に叫んでしまったらしく、その声に気付いた運転手が、俺のことを助けてくれたらしい。
俺は頭を抱えながら、あの出来事が夢だったんじゃないかと疑った。
だがポケットからなくなっているICカードと、ホコリにまみれた俺の服が、あの出来事が事実であったと教えてくれた。
その夜、男性に諭されながら家に帰った俺は、最後に見た光景が気になっていた。
最後にあの女性を見たとき、間違いなく右腕を持っていたと思う。千切れて、なくなっていた筈の右腕を。
――もしかしてあの女性は、未だ見つかっていない右腕の在り処を教えるために、俺のことを追っていたんじゃないだろうか?
そう思った俺は、翌日駅員に「ホームから待避所に人の腕らしき物が見えた」と話した。
未だ被害者女性の右腕が見つかっていないことと、俺の緊迫した表情が信憑性を生んだのか、思いの外すぐに捜査が進む。
「君が言っていたように、待避所から人の腕が見つかったよ。1ヶ月前に、ここの駅で人身事故が起きたって話は知ってる? どうやらその時の被害者女性のものらしいんだ」
駅員室で、俺は捜査の状況を聞いた。
それを聞いて、俺は少しだけホッとした。
あの得体の知れない女性が「自分の右腕を見つけてほしいから俺を追っていたんだ」と納得できたからだ。いかに幽霊と言えど、その行動理念が分かれば、怖さも薄れる。
「でも事故から1ヶ月も経ってるのに、あんなところにあった腕がまだ見つかってなかったんですね」
「そうなんだよね。もちろん警察も事故後に現場検証したと思うんだけど、事故が発生した場所から離れた待避所にあったから見落とされちゃったらしいんだ。多分轢かれた衝撃で腕だけが――」
そこまで言った駅員は「おっと」と口を閉ざした。
あまりにもグロテスクな話だと気付いんだろう。
「ごめんごめん。そっちの女の子も気分悪そうな顔をしてるし、この話はここまでにしようか。多分警察から聴取されることはないと思うけど、念のため二人とも氏名と連絡先を聞いてもいいかな?」
普通の動作で。平淡な声で。
メモ帳を取り出しながら聞いてきた駅員の言葉に、俺はとてつもない違和感を抱いた。
「ふ、二人って……な、何を言ってるんですか?」
「え? そこに女の子がいるじゃないか。君の彼女か友達でしょう? さっきから一言も話してないから、ちょっとグロい話をし過ぎちゃったかな? 気分悪くしちゃってたらゴメンね――」
見ちゃいけないと思った。ただ同時に見なきゃいけない気もしていた。
おそるおそる俺は、後ろを向いた。
「――あなたはいったい、俺になにを伝えたかったんですか?」
昨夜待避所で見たときと同じように、不気味に笑みを浮かべている女性を見て、俺はそう呟いた。