表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

スタグネイション

作者: 多川想人

彼女とは親しかったわけでもない。

当時働いていた雑貨店に時々来て、レジの会計をするときに他愛ない会話をする程度で、お互い踏み入った話をするわけでもなかったし、したこともなかった。

彼女は、長い路を歩く途中で偶然出会った数多の人間の一人に過ぎず、むしろその後出会った人で、僕の人生に多大な影響を与えた人間は他に大勢いた。それなのに何故だか僕は今でも彼女のことをふと思い出すことがある。遠い彼方に置いてきた筈の、あまりにも小さく他愛ないいあの出会いを。


1.

僕が働いていた雑貨店は色々な店が並ぶ街道の中の一つで、文房具や駄菓子や日用雑貨が小さな店の中にぎゅうぎゅう詰めになって売られていた。客層は大体街に住む人たちで、子供から大人までいろんな人たちが手軽な買い物に来ていたが、一日を通して10人以上客が来ることはなかった。

大学に行かず、ぶらぶらとしていた僕は毎日のように仕事に入り、時々来る客の顔をを覚えるようになって、向こうも覚えてくれるようになった。

彼女もまたその中の一人だった。2週間に一度ほど来て、決まって0.5のシャーペンの芯とノート用の紙を買い、その日の気分によって駄菓子を買うこともあった。

僕たちはいつしか挨拶を交わすようにをするようになった。

「暑いですね今日は」

「ええ、本当に」

「ここ、エアコン入れないんですか?」

「オーナーがケチっているんですよ」

夏の灼熱のような日のことだった。物に囲まれた店内は拷問ばりに熱くて、とてもじゃないがレジ裏で座っていられなかった僕は店の外で折り畳み式の椅子を出して、遠くで鳴く蝉の声を聴きながらうちわを仰いでいた。

彼女はそこへゆらゆらと揺れる大気の中を歩いてきた。

僕たちは簡単に挨拶をすまして、僕がオーナーのケチぶりの文句を言うと、彼女は笑い店の中に入っていった。

彼女の後を追うように僕も店の中に戻った。

彼女は少し中を見回り、いつもと同じようにシャーペンの芯とノート用の紙をカウンターに置いた。僕がそれらの会計を始めると、彼女は少し考え、再び店の奥に戻っていき、後ろのほうにある小さな冷蔵庫からアイスバーを一本持ってきて、芯や用紙の横に置いた。僕は三つの会計を終わらせ、袋に入れて彼女に手渡した。受け取った彼女は袋からアイスを取り出し僕に差し出した。

「おごりです。食べてください」彼女はニッと笑いながら言った。

肩まで伸びる茶髪を右耳に掛け、のぞき見えるピアスが二つ、首筋に流れる汗と一緒に輝いていた。

僕がアイスを受け取ると、彼女は「それじゃ」と言い、太陽の下に戻っていった。

僕は一瞬アイスを持ったままレジ裏で立ちつくし、また店の外に出て、置きっぱなしの折り畳み椅子に座ってレモンアイスを食べた。

こういった交流が時々あった。

けれどこれは決して珍しいことではなかった。毎日のように働いていた僕に食べ物や飲み物を持ってきてくれる人は結構多かった。

近所のおばさんからおにぎりを貰ったこともあれば、夜中酔っ払ったおっさんから小遣いを貰うこともあったし、隣の定食屋から弁当の残り物を分けてもらうこともあった。

全部他愛なく、取るに足らない出来事の積み重ねにすぎず、彼女のアイスもその一つに過ぎなかった。

それでも僕は衝動のように込み上げる喜びを感じずにはいられなかった。近所のおばさんやおっさんの親心も、他の店の親切心も、彼女のアイスも。あまりにもちっぽけで、僕の人生に何の印象を与えることのない出来事でも、僕はただただ純粋に嬉しかった。




2.

その後、彼女が来たのは数か月経った秋の風が舞う時期だった。薄いチェッカー柄のコートを着て、少し伸びた髪を後ろで結っていた彼女は入ってきた。

彼女は里帰りしていて、つい先日この街に戻ってきたばかりだと説明してくれ、その時彼女がこの街には大学で来ているのだと知った。

僕も大学生で休学していると言い、何故と訊かれて、何となくと答えた。

僕はアイスのお礼に、とシャーペンの芯のお代は受け取らなかった。彼女は笑って、じゃあ今度は私がまた何か驕らなくちゃ、と言って僕も一緒に笑った。

ちょうどその時期、この街でちょっとした事件があった。市の議員が調書を改竄した容疑で起訴されたのだ。

ニュースは地域のテレビステーションで大きく報じられ、毎日のように情報が入ってきた。

僕は店の小型テレビでそれを見た。起訴されたねずみみたいな顔をした議員は顔面蒼白にし、周りから注がれる嵐のような尋問に必死に弁明し続けていた。それはまるで狼の群れに囲まれた子羊、いや大勢の猫に囲まれたねずみのように見えた。だが、ねずみはねずみで異様な光を目から放ち、状況をひっくり返そうと隙を探す狡猾さを感じさせた。

政治事に無頓着だった僕には異世界の出来事を見ているようだった。一生この世界と関わることもないだろうし、この世界が僕たちと繋がることはないだろう。僕は本気でそう信じていた。


3.

季節が変わり、落ち葉が浮遊する時期から、雪がしんしんと降る時期になったころ。

新たな一年を数時間に控えていることもあり、客はおろか、外を歩く人一人見当たらなかったが僕はいつも通りレジ裏で暖をとっていた。

万一、街の誰かが何か買わなくちゃいけなかったらここへ来れるように開店する、と言い残し、店番を僕に任しきりしたまま、店長は街の連中と年越しの酒を飲みに行ってしまった。

店長のあの自由さには今でも思い出すだけで苦笑いがこぼれてしまう。

僕は客が来るとは思えず、店のテレビをだらしない恰好で見ていると、店の扉が開き、魔女の息吹とはよく言ったような冷たい風とともに彼女は入ってきた。

以前見たのと同じチェッカー柄のジャケットと赤いマフラーを首に巻き、白い手袋をはめ、随分伸びた茶髪の根本がうっすらと黒く見えた。

僕は「こんにちは」と言い急いで姿勢を整えて座りなおした。

「こんにちは」と彼女は薄く笑って言った。「まさか今日、この時間まで営業しているとは」

「なかなか気合入っているでしょ?まあ当のオーナーはどっか飲みに行っちゃいましたけど」

彼女は笑って、店の菓子売り場でポテトチップスとその他のお菓子を持ってレジまでやってきた。

「今日は芯と紙じゃないんですね」

「あはは、ええ今友達の家で飲んでいて、そしたらおつまみが切れちゃったんです。それでじゃんけんに負けた私が…」

「ははは、それは大変ですね」

「今日は年明けまで一人ですか?」

「ええ、でも僕一人が割と好きですから」僕は彼女が一瞬眉を寄せるのを見て、すぐに話題を逸らした。「でもいいですね、お友達の家みんなと年越しっていうのも。やっぱり暮れの番組とか見るんですか?」

「あ、はい」

「どの番組を?」

彼女は有名なテレビステーションの名を言い、僕はテレビのリモコンを取って言われた番組に変えた。

「じゃあ、これで一緒に見てるってことで。なんつって」

彼女はポカンとし、すぐに笑い出した。

「あはははは、それ寂しすぎですよ、ははは」

「そうですかね」僕も釣られて笑った。

「じゃあ、これもあげます」

彼女はポケットからブレスレットみたいな、黄色と緑色の布を編んだ輪っかを僕にくれた。

「なんですか、これ」

「この前旅行に行った先で買ったものです。新年の零時にそれを引きちぎるとその迎える年を幸福に過ごせるらしいですよ」

「へぇ、こんな僕なんかが貰っても?」

「お土産用にいっぱい買って余っているんです。私や友達も零時になったら一緒に引きちぎるので、ぜひ」

「ああなるほど、はは。じゃあせっかくですし貰います。ありがとうございます」

「ではよいお年を」

「ええ、よいお年を」

彼女は手を振って、暗闇に舞う紙しぶきのような雪の中に戻っていった。窓の外から彼女が少しずつ遠ざかっていくのを見て、完全に消えたのを確認して僕はテレビを見るのに戻った。

大げさな衣装を着た女性が一年の終わりを憂いて歌っていた。それがなんとなく面白く笑ってしまい、彼女がこれを見ていると思ったらなお可笑しくて堪らなかった。

そして、零時。

テレビの中では人々が盛大な拍手と歓声を上げ、静まりかえった街のどこからか「ハッピーニューイヤー!!」と割れた声が聞こえてきた。

僕は小さく「ハッピーニューイヤー」と呟き、ブレスレットを引きちぎった。何か願ったと思うが、覚えていない。


4.

友達から就職したと連絡を受けたのは新年から二か月経った頃だった。

朝は冷え込み、昼は暖かく、夜はまた肌寒くなるという新芽を困らせる気候の季節だった。

この街の外の大学に通っていた友達は、一足先に卒業し、本来なら学校に行っているはずの僕とは大違いだった。

僕が就職先を訪ねると、友達は知り合いの父親の会社と答えた。その知り合いとは僕も知っているが、彼は父親の会社には入らず、カメラマンとして世界中を飛び回っている。彼の写真が雑誌の片隅に載ったときは僕たちの間でちょっとした騒ぎになった。だけど、その時も、友達が就職したと聞いたときも、僕は異世界の出来事を見ているようで現実感が全く湧かなかった。

そういえば彼女はどこに就職するのだろう。僕は何故かふと思った。前に学生だと聞いたこともあるし、歳も僕とあまり変らないとしたらそろそろ就職する頃じゃないだろうか。もしそうだとしたらやはり実家に帰ることになるのだろうか。様々な疑問が僕の頭を過ったが、それらの答えを僕はすぐに知ることになった。


その日もいつものようにお菓子や缶詰や玩具や安っぽい帽子や新聞や酒や駄菓子や、とにかくジャンルが統一しない品物に囲まれて、僕はレジ裏でテレビを見ていた。やっていたのは数か月前から続いていた議員の調書改竄疑惑のニュースだった。

とうとう追い詰められた窮鼠は猫たちを噛み殺すことができず、初めてテレビで見たときよりも痩せこけた頬と窪んだ目つきをしていた。

これで終わるな。僕がテレビを見ながらぼんやりこころの中で呟いてるところに彼女は入ってきた。見慣れない、グレーのスーツドレスを着て。

彼女の意外な出で立ちに一瞬ぽかんとしてしまった僕を見て、彼女ははにかむように笑った。

「実は今仕事の面接に行ってきたんです」

「面接?」

僕の声がおかしかったのだろう、彼女は笑いながら、はい、と答えた。

「え、でも面接って」僕の中で点と点が繋がらなかった。この時、僕はてっきり卒業したら彼女は実家に帰りそこで就職するものだと思っていた。けれど彼女は僕の予想なんて関係ないといった風に言った。

「わたし、この街で就職することに決めたんです」

店の外から子供が「待ってぇ」と仲間のもとへ走っていく声が聞こえた。

「この街で?」

「はい、親とも話して決めました。4年以上この街で住んでもうすっかり慣れちゃったし、友達もここでいっぱいできちゃったし、今更帰って向こうで就職してもあまり意味ないかなって思ったんです」

彼女は窓の外を見ながら言った。僕はそんな彼女を見て不思議な感覚に陥った。それが何なのか、気づくのに少し時間が掛かった。

焦燥感。

何年も知っている友達が就職したときも、同世代の知り合いの写真が雑誌に掲載されたときも、特に何も感じなかった。すべて自分とは関係ない、別の世界の出来事のように思えた。

それどころか、人が喋っていることや路に転がった空き缶やテレビで流れるニュースや立ち並ぶ並木や犬の鳴き声や、全部全部トンネルを通して見ているみたいで、自分とは遠いところに存在し、自分とは全く繋がりのない世界の物語のように見えた。それなのに。数える程度しか会っていなくて、特別親しかったわけでもない、客と店員という間柄以上の何ものでもない彼女の将来を聞いたとき身体中の血が逆流したように僕は焦りを感じた。

僕は思わず言った。

「すごいですね」

「え?」

「いや」僕は頭を掻きながら言った。「だって、生まれ育ったところから自分の力で出て、こうやって道を切り開いてるって、なんかすごいなって」

彼女は一瞬ぽかんとし、すぐに頬を赤らめて、慌てて言った。

「や、やめてください、そんなんじゃありません。自分の力って言っても親が学費払ってくれたわけですし、今だって就職が安定するまでしばらく仕送り生活するわけですから」

恐ろしく早口でまくし立てた彼女は少し息を切らしていた。僕はそれでもすごいと思った。

「それでもやっぱりすごいですよ」口に出した。

彼女はまた慌てた様子を見せたが、僕がお世辞でなく、本気で言っているのに気づくと、少し落ち着いて言った。

「そう言ってもらえると嬉しいですけどね。本当に大したことじゃないんですよ。子供が早く大人になりたいって言って、いざ歳を取ってもあまり変わらない。みたいな。

遠くに感じたものは案外近くにあるし、逆に近いと思ったものが実は遠いところにある、そんな感じです。だから…なんていうか、わたしもそんな遠いところにいるわけでもないし、あの…」

彼女はゆっくりと、的確な言葉を探しているのがわかるくらいの速度で喋り、その仕草がおかしく、僕は思わず笑ってしまった。

「僕は子供ですか」

「あ、ごめんなさい、そういうつもりじゃ…」

「冗談ですよ。言いたいことはなんとなくだけど、わかります」

本当になんとなくだった。いや、それ以下だったかもしれない。彼女が言わんとすることを完全に把握はできなかった。いくら、何を言われても、やはり彼女はすごいと思ったし、僕なんかより遠い場所にいる人に見えた。それでも彼女の言葉は僕の中にすとんと落ち、水の中に投げ込まれた石みたいに沈んで僕の底で落ち着いた。

「まあ、あれですね」僕は曖昧に話題を変えて、お辞儀をし、「この街に居続けるなら、今後も当店をご贔屓お願いします」と言ったあと顔を上げ、にっと笑った。

彼女も笑い、「はい、これからもよろしくお願いします」と言い頭を下げた。

物に囲まれた、息苦しささえ感じる店の中で僕たちは笑った。

笑って、挨拶して、別れた。

いつもと同じように。いつもと変わらず。

取るに足らない、日記を書く習慣があっても書かないであろう、いつもと変わらない他愛ない出来事。

また繰り返されることを疑わず。


その数日後、ネズミ面の議員が交通事故に遭ったというニュースが大々的に放送されていた。追い詰められた議員は自暴自棄になり、酒を飲んで車を運転し、そのまま柱に突っ込んでしまったらしい。

テレビには、いい加減見慣れたネズミ面の写真が画面いっぱいに映された。

彼は死のうとしていたらしいが、急いで病院に運ばれ一命を取り留めた。けれど、事故の巻き添えを食らった23歳の女性は助からなかった。

女性の顔は遺族の意向で映らなかった。



その後、彼女が店を訪れることはなかった。




月日は経ち、時間はとめどなく経過した。僕は学校に戻り、卒業し、就職して、昇格し、恋人ができ、別れ、またできて、結婚し、家を買って、子供ができ、そしてそしてそしてそしてそして。

長い路を歩んだと思う。自分なりに一生懸命生きたと思う。それなりの失敗と成功を積み重ねてきたと思う。

それでも僕は時々ふと思い出す。

あの一年より短い期間の間に、数十回会った程度の、もはや輪郭もぼやけてしまった彼女のことを。何故かは、わからない。ただ、長い間レモンアイスは食べていない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ