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医者の述懐(後編)

※心情的に痛々しいシーンが苦手な人はお気をつけください。

「どうしたんですか? 宮守さん」

 その日の彼はいつもと違った。

 いつもはどこか余裕のある空気を感じさせられたのに、この日は……疲れているように思えた。

 だからおれは……宮守さんらしくないと思って、妙な気分になっていた。

「……賀城、落ち着いて聞いてくれ」

 いきなりそう言ったかと思えば、おれの両肩に手を置いて苦しそうな表情で見据えていた。

 おれはむしろ、彼自身が自分を落ち着かせようとしているように見えた。

「美咲君は」

「え?」

 その言葉の続きを聞きたくなかった。

 まさか『死』なんて言葉が出て来ないよな……と思って。

「いや、美咲君の病は……消えてしまった」

「―――……っ!?」

 その瞬間、宮守さんの言っている言葉を理解するのに数秒かかった。

 それはおれにとっても宮守さんにとっても、いいことだと思ったんだ。

 だから、どうして彼がこうしているのか分からなかった。

「え? で、でも……それは良いことなんじゃ……」

「違う!!」

 けれど、おれの希望を込めた一言はたった一言の怒声で遮られた。

 おれは唐突過ぎて、ビクッと身が竦んだ。

 宮守さんは深呼吸してなんとか平静を保とうとしていた。

「……確かに病は消えた。だが」

 その声は泣き出しそうなほどに弱々しく聞こえた。


「声帯……ごと、くなってしまったんだ……」


「っな!?」

「誰も彼女に摘出手術なんてしていないのに……消えてしまった」

 力無くおれの白衣を握り締めたまま、ショックを隠せない様子でズルズルと座り込んでしまった。

「宮守さ……」

「その原因は不明だが、彼女は歌声を失った」

 顔は見えなかったが、床が雫で濡れていた。

「すまない……賀城……」 

 そしておれに謝った。

 自分自身を責めていた。

「どうして……謝るんです?」

 もし、それが本当だとしても……

「宮守さんのせいじゃないでしょう」

 おれはそう思う。

「……そんなに自分を責めないで下さい」

 それに、宮守さんは巫山戯ているように見えても……医師として見せる一面はいつも真剣だった。

「おれ、宮守さんみたいに人の命を大切にする医者を目指したいんです。だから……そんなに情け無い姿なんて見せないで、最善を尽くして欲しい」

 キツイことを言っているくらい分かっている。

 自分勝手な見解だってことも知っている。

 でも、だからこそ……言葉にした。

 届くと望んで。

「…………そうだな」

 そして宮守さんは自分の袖で顔を拭った後、おれを見上げた。

「やっぱりキョタは惚れ惚れするくらいいい男だね」

 そこにはいつもの宮守さんが微笑んでいた。




 おれと宮守さんは美咲さんの病室の前にいた。

 いつも聞こえていたはずの穏やかな声は聞こえなかった。

 そしておれはドアを開けた。

「……美咲さん?」

 そこに彼女はいた。

 背を向けて、落ち込んでいるように見えた。 

 しばらくした後にゆっくりと振り返った。

 その目は泣きすぎて赤く腫れていた。

「美咲君、キョタを連れてきた」

「って、こんな真面目な雰囲気でそう呼ぶのは止めてください!!」

 メチャクチャ大真面目な顔して何言ってんだ、このオチャラケ医師!!

「……」

 でも笑い声は聞こえなかった。

 見れば美咲さんは笑っていた。

 口元を手で隠してまで笑っている。

 なのに……声が……。


「そんな顔をするな。よけい、彼女を傷つける」


 ヒソッと耳元で囁かれ、少し吃驚した。

 でも、おれは……そんな彼女を見ていつもの表情を保っていられるほど、器用じゃない。

 たとえ医者に成りたい人間がそれを出来ないと思うことが許されないとしても……。

「美咲さん……」

「?」

「おれは今の君がとても無理をしてるように見える」

 声はなくても、彼女の表情は呆然としているように見えた。

「それに、泣いていたんだろ」

 だけどおれたちが入ってきたから、涙を拭っていつもどおりに振舞おうとしたんだということに気づいたから。


「だったら、泣いてもいいんだ」


 そして彼女がどれほどに歌が好きだったのかを知っているから。

「声は出なくても、おれはちゃんと傍にいて聴くから。だから……気が済むまで泣いていい」

 おれと彼女の後ろで、パタンとドアが閉まる音がした。

 宮守さんは気を遣ってくれたらしい。

「……」

 そして黙って俯いた彼女の細い肩が震えていた。

「っ―――……」

 気がつけば、彼女はおれに縋りつくよう…に…声の無い大声を上げて泣き続けていた。


 泣きつかれて、眠ってしまうまで……。




 それから三日後、彼女は亡くなった。

 そのときのことは今でも忘れられない……。




『貴方の優しさに触れられて 私は幸せだった―――』


 おれは偶然夜まで残っていて、そして歌声が聞こえた。

 それはまぎれもなく彼女の失ってしまった声。


『もう届くことはないと信じて 言葉にするの』


 けれど同時に彼女の微笑んでいる姿が重なった。


『気づかないでと 願いながら 忘れないでと 望ませて―――』


 儚くて、なのに優しく笑っている姿が……。


『私は消えてしまうけれど―――貴方が好き……』


 突然途切れた言葉。

 おれは彼女の病室へと駆けていた。

 その途中、《廊下を走るな》という張り紙が一瞬視界を掠めたが無視を決め込む。

 嫌な予感がどんどん大きくなる。

 気がつけば彼女の病室に辿り着いていた。

 理性なんて関係無しに勢いよくドアを開けて……そして見た。

「―――……」

 ベッドの上で眠るように目を閉じている彼女。

 それを静かな瞳で見下ろしている、透き通って綺麗な水色の髪を三つ編みにして束ねている青年。

 ……その背中には黒に染まった鳥を想わせる翼が在った。

 その手には鈍く光る刃を携えた大鎌。

 すぐに青年が人間ではないということに気づいた。

 でも……何も言えなかった。

 唇はクッと噛み締めて、顔を伏せていた彼に。

 頬を伝う雫に気がついて、泣いているのがわかったから。

「美咲さん……」

 ようやく言葉を口にして、目の前の彼はハッとした表情でおれを見ていた。

 そのまま辛そうな表情をしながら、消えてしまった。

「……花南?」

 先程の青年が立っていた位置に立って、彼女の名前を呼んだ。

 名字ではなく、名前を……。

 穏やかな表情のまま、瞼に閉じられた瞳。

 動かない口元。

 そっとその頬に触れると、僅かにしか体温が感じられなかった。

 だからおれは静かに言葉を紡いでいた。

 届かないと知りながらも……。


「―――ありがとう……おれもだったよ」


 どんどん冷えていく彼女の手を握り、少しだけ無理をして笑った。



「さよなら……」



 けれど不思議とそこまでショックは受けなかった。

 おれは……彼女がいずれおれの前から居なくなってしまうことを知っていたのかもしれない。

 きっと、あのとき桃乃に言った言葉は自分自身が望んでいたことだったんだな。


《一日一日を大事にしてやればいいだろ?》


 おれと彼女が一緒にいられる時間は短すぎた。

 だからこそ、そうしようと心のどこかで思っていたんだ。

 それがちゃんと出来ていたのかという答えは永遠に謎のままかな……。


 だからこそ、それは……まだマシなことだった。


 美咲さんの死は確かに悲しかったが、心のどこかで覚悟が出来ていたから。




 でも……




「なぁ、聞いてくれよ。賀城」

 それは美咲さんが亡くなってから数日後のことだった。

 おれと同期で研修医になっていた奴がいきなり嬉しそうな、悪く言えば自慢したげな笑顔で話し掛けてきた。

 普段、そいつは自分の父親の権威を笠に着て威張っているような奴だった。

 まぁ、この病院の院長の……実の息子だからな。

 次男坊だけど。

 おれからすればハッキリ言ってどうでもいい奴だったが、向こうからは妙に敵視されている気がしていた。

 そしてそいつはニコニコと笑って言う。

「オレさぁ、今度手術させてもらえるんだって」

「は?」

 一瞬、おれは耳を疑った。

「見るんじゃなくて、するのか?」

「当り前じゃん」

 ふふんと自信満々に鼻で笑う。 

 目は口ほどにモノを言うと言うけれど、正しくその状態だ。

 羨ましいだろ、と言っていた。

 いや全然羨ましくないし。

「でも面白い話だよな。オレはお前と同期で入ったのに、手術させてもらえるんだぜ。しゅ・じゅ・つ」

 その台詞が癪に障った。

 こいつが人の命が懸かっているかもしれない手術を自慢話のネタにしていたから。

 それに手術っていっても院長の息子だからというような理由で回されたものだろうな。

 嫌な予感しかしなかった。

「で、一体誰の手術をするんだ?」

「ん? 確か……」

 そして笑ったままそいつは言った。

「どうれい さくらだったかなぁ。秋に桜って書いて《サクラ》って読むんだから変わってるよなぁ」

「―――……」

 時が止まった。

 その名前を聞いて絶句した。

「っ、な……」

 おそらくおれの顔は引き攣っていただろう。

「まぁ、お前には関係ないけど」

 そいつはそう言ってスタスタと歩き出しおれの前から消えた。

 その時にそいつを思いっきり殴ってやればよかった。

 そうすれば、後悔することも……なかったはずだ。



『ねぇねぇ、賀城さん!』


 

 だって、ほんの数分前に嬉しそうな笑顔でおれに話し掛けてきた桃乃がいたから


『ん? どうした?』

『秋桜が手術すんだって』

 その時は何も知らなかった。

 だから……

『え! 良かったじゃないか』

 笑っていた。

 おれは、確かに……笑っていたんだ。

『ああ。もっと長く生きられるって秋桜も喜んでた』

 本当に微笑ましかったんだ。

 そして桃乃の右手に視線が行く。

『おっ? どうしたんだ、その指輪リング

 右手の薬指にされているシンプルなデザインのそれを指差して訊いていた。

 この前会った時にはしていなかったはずだと思って……。

『あ、気づいた?』

 それで、桃乃はガキっぽく笑う。

『秋桜との約束なんだ』

 その言葉の裏にどれほどの優しさがあったのか感じ取れた。

 なんとなく、その約束が何なのかも……。

『結局、惚気かい!!』

 が、それはそれ。

 今のおれは彼女無しで女難の相が出ているだろうから、そんな話しは禁句なんだぞ。

 そんな私怨からバサバサと桃乃の髪を掻き乱す。

『って〜〜〜やめろよ〜』

『やなこった』



 

 そんな風に笑っていられたのは奇跡だったんだと後々に気づかされた。

 遅すぎたんだ……。




 ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……


 一定の間隔を保った機械音が鳴っている。

 おれはその有様を愕然と見ていた。

「……こんなことって」

 機械に囲まれているベッド。

 それに横たわっている美咲さんと同年齢くらいの少女は、彼女の死に際と同じように安らかに眠っていた。

 けれど、違うのは……死んではいないということ。

 ギリギリで生を保っていた。

 そう……植物人間という形で。

 嫌な噂を若い看護婦さん達が話していて、来てみれば―――の結果だった。

「嘘だろ……おい……」

 少女――堂鈴 秋桜はあの同期の奴の手術ミスでこんな酷い状態になっていた。

 初歩の初歩的なミスだった。

 でも……この病院はそれを揉み消そうとしていた。




『―――三年でもよかったんだ……。秋桜、お前が……傍に居てくれさえすれば』

 次の日に彼女の病室のドアを開けようとして、そんな声が聞こえた。

 おれの手は自然とそこから離れた。

 しゃくりあげながらも、泣くのを必死で堪えようとしている桃乃の声がしたからだ。

「……」

 急に自分が情けなくなった。

 正直……大切な人を亡くしてしまったのに、真実も知らずに悲しむことしか出来ない彼らを見ているのが辛かった。 

 なのに、そのことすら言い出せないでいる。

「っ……」 

 でも……桃乃のおかげで覚悟が決まったような気がした。

 



「なぁ……」

 おれはあいつに会っていた。

 医療関係者達の休憩所に今は二人だけだった。

「あぁ? なんだよ」

 そいつは酷く機嫌が悪そうだった。

 まぁ、理由くらい簡単に想像が着くけどな。

「あの患者の手術って、あれ……医療ミスだよな」

 自分でも冷ややかな言葉を発しているという自覚があった。

「馬鹿っ!! そんなこと言うなよ!? ありゃぁ……事故なんだし」

「でも、ありえねぇよ……」

 おれはそれからの経緯を、自分が知っている限りのことを言った。

 見る見るうちにそいつの顔は青ざめ、そして……最終的にはこう言った。


「なっ、それじゃあオレが悪いみたいじゃないか!!」


「……誰もそんなこと言ってねぇよ。でも……お前の父親がまだ研修医のお前を出頭医にしたのが悪いんだろ」

 すぐにボロが出やがった。

 青ざめていた顔が、一気に真っ赤になり激怒しているのが分かる。

「ちっ、てめぇ……っ」

「……それに家族にそのことを隠してんだろ。早く謝ったほうがいい」

 真実を早く伝えて、彼女の家族達にそれを受け入れて欲しかった。

 なのに、


「そんなみっともねぇことができるか!!」


 そいつはそう言った。

 信じられなかった。

 呆然としていると、背後で音がした。

 勢いよく扉を開けるバタンッという音が。

「……今、なんつった!!」

 そこには握った拳が震えるほどに激怒している桃乃がいた。

「みっともねぇ、って言ったよな。ふざけんな!!」

「…………今のを聞いていたのか、桃乃?」

 率直にヤバイと思った。

 一番先に報せてはいけないと思っていたからこそ……言えなかったのに。


「―――秋桜を、秋桜を返せっ!! 俺の、俺の……大切な奴を返せよ……っ!!」


 桃乃は俺の隣に座っているそいつを睨んで、絶叫に近い声を上げた。

 心に溜まっていた感情が溢れてしまったように見えた。

 荒い息を吐いて、静かにおれを見た。

「賀城さん……俺……今の話、全部……聞いてたんだ……」

「…………そうか」

 おれは沈黙した後、声を絞り出した。

 でも、もう少し……桃乃に待って欲しかった。

 待って欲しかったのに……


「ハッ」


 全てが壊れていくのが分かった。

 そいつは桃乃を馬鹿にしたように嘲り笑った。


「お前みたいな小僧ガキが何を言っても無駄なんだよ!!」


 おれはその言葉が信じられず、ショックだった。

 こんなにも卑怯な奴だったのか、と。

「そうか……」

 でも桃乃の表情は……とても清々しいものだった。

 何らかの覚悟を決めたような感じがした。

「俺は確かに……小僧ガキだよ。でも、な」

 桃乃はそう言って、手に持っていた自分の携帯を見せた。

「……ちゃんと録音したんだ。賀城さんとの会話を……」

「なっ!?」

 そいつは絶望したような表情になった。

 でもそれは当然のことだ。

 おれだって、同じことをしていたんだから。

 ポケットに忍ばせていたボイスレコーダーに……。

「賀城さん、迷惑をかけるけど……ごめんなさい」

「……」

 桃乃はおれに向かって頭を下げて、部屋を出ていった。

「っ……待ちやがれ!!」

 そいつは五月蝿い怒鳴り声を上げた。

 おれにとってはどうでもいいことだった。

 それよりも大切なことを察したからだ。

「死ぬなよ……桃乃……」

 この言葉が届くことはなかったのかもしれない。

 そう呟いた後、おれは桃乃の後を追いかけた。



 大体、予想が着いた。

 桃乃が真っ先にいく場所を。



「すいません! 今」

 おれは彼女、秋桜ちゃんの病室に入って行った。

「ここに桃乃が……」

 でも、そこに彼がいないことはすぐに分かった。

 そして秋桜ちゃんの母親がおれに縋りついて涙を流しながら言った。

「あの子、私達に携帯を渡してどこかに走ってしまったの!! 顔は笑っていたのに……泣きそうだったんです」

 その手には確かに、あいつの携帯電話が在った。 

「お願い……あの子を捜してください。ひょっとしたら」

 そこまで聞いて、おれの顔は引き攣った。

 あの時に無意識に呟いていた一言が現実になってしまう気がした。

 そしておれは屋上へと駆け上がった。

 全力で、走って……走って……。

 間に合えと必死で願った。


 徐々に近づいて来る入り口を勢いよく開けて、その直後に入ってきた光景は―――……


「とうのぉおぉおおおぉおお――――――……」


 彼が屋上の端から落ちていく瞬間だった。

 風が吹いた。

 同時におれは手を伸ばした。


 でも……指先すら届かずに彼は落ちていった。


 後に響いたのは、グシャッとトマトを床に叩きつけて潰したような鈍い音だけ。

「……ぁ、ぁあ」

 手すりに手をかけたまま、その場に座り込んだ。

 もう、頭の中が真っ白になっていた。

 どうしてか、可能性はあるはずだったのに……


 桃乃は死んでしまったと悟ったから。


 それが事実なのかと確認しようと思えば、下を見るだけでよかった。

 でも……見ることなんて、できなかった。


「―――っわあぁあぁぁあぁぁああああ」


 間に合わなかった。


 ただ、それだけのことだった。




 どうして時間は待ってくれなかったんだ。

 いや、それよりも……どうしておれは―――早くああしなかったんだろうか。

 結果的に桃乃が自殺したことはマスコミの話題を呼んだ。


『勇気ある高校生 自らの死を持って医療ミスを暴く』


 などという紙面が日常を騒がせた。

 そしてテレビなどでも、特番で医療ミスについて大々的に取り上げられた。

 それが、遅すぎたということに誰も気づかないで……。


 

 おれは桃乃が死んだアスファルトの上に花束を置いていた。

 その他にも、様々な供物が置かれている。

 本当は病院なのだから気を遣うべきなのだろうが……それでも彼に同情した人が多かったのだろう。

「……」

 それを見ておれは泣きそうになった。

 いつも馬鹿みたいに明るかったあいつはもういない。

 不意打ちで、信じられなくて……悲しかった。

「っ……馬鹿……やろ」

 どうして、自らの命を引き換えにあんなこと……したんだ。

 残された人間がどれほどに辛いのか、知ってんだろ?

 そこまで思ってハッとした。

 

『大切なモノを一度になくしてしまうでしょうね』


 あの時にイゼルが言っていたとおりに……気がつけば、おれは大切なモノを失っていた。

 一度に……。




 何が正しいのか分からなくなって、おれは勝手に手術室に入っていた。

 そしてメスを一本握って、左の手首にその刃を当てた。

 手が震えるのが分かる。

 ははっ……このままザックリの刺せば出血多量で死ねそうだな……。

『……それでいいの?』

 手術室なのにフワッと穏やかな風が吹いた気がした。

「え?」

 誰もいないはずなのに、メスを握っている右手に何かが触れている気がした。包み込まれているように優しい温かさを感じた。

『あの人が少しだけ時間をくれたの……。逢ってきていいですよって』

 一瞬、ほんの一瞬だけ視えた。

「美咲さん……?」

 身体が透けて、その後ろの壁が見える。

 でも確かに彼女は温かく微笑んでいた。

『私の分まで長く生きて……約束だよ』

「っ……!」

 彼女の姿が空気に溶け込むように消えていく。

 そして完全に消える直前、口元に仄かな温もりを感じた。

「―――……」

 彼女が何をしたのか分かって、何を願っていたのか分かって、手から力が抜けた。

 握っていたはずのメスがスルッと滑り落ちた。

 カッシャ―――ンと耳障りな音が手術室に木霊する。

 同時に後ろでガチャッとドアの開く音がして、

「賀城!」

 宮内さんの叫び声が聞こえた。

 おれはそれに反応して、ゆっくりと振り向いた。

「っ……泣いていたのか」

 少しホッとした表情で宮守さんはおれを見ていた。

 そして、気づいた。

 そう指摘されて初めて、おれは泣いていたのだと。

「宮守さん……」

 そのままおれは微笑んでみた。

「今、美咲さんが微笑わらってたんです。それで」

 宮守さんは目を細め、苦しそうにおれを見ていた。

 どうやら床に落ちているメスに気づいたみたいだ。


「『私の分まで長く生きて』って言われました」


 その瞬間、宮守さんは軽く瞳を見開いていた。

 本当に驚いているように見えた。

 同時におれを抱き締める。

 強く、温かく。

「このアホ! キョタのくせに、キョタの分際で、死んでしまうんじゃないかと心配したこっちの身にもなってみろ!!」 

 怒鳴って、そう言ってくれた。

 そのおかげでこっちは心の中で苦笑するしかない。

 その両肩は少し震えているように見えた。

 本当に心配してくれていたんだと感じた。

 だから、

「……ありがとう」

 おれは二人に向かってそう言った。


 一人はここにいて、もう一人には……この言葉が届くことを願って。

 そして、もう一言……。

 

 あの約束は出来る限り……


 この命が続くまでは破らないようにする、と。






『……ありがとうございました』

 今、私の前には魂だけの姿となった少女がいた。

 彼女は頭を下げた後、微笑みを浮べていた。

「……どうやら、満足出来たようですね」

『はい、と言えば……ちょっとだけ嘘になりますけど』

 クスッと苦笑して彼女はそう言う。

 まぁそれも無理はありませんけどね。

『でも、偶然ってあるんですね』

「?」

『あの人が言っていた《銀っぽい奴》って、イゼルさんのことだったんですね』

 一瞬、呆然とした。

 いくらなんでも、安易過ぎる気が……。

 まぁ、別にいいんですけどね。

「そうですか。キョタ君はおしゃべりですね」

『クスッ……イゼルさんって何気にオチャメですよね』

 楽しそうに笑って彼女は……切なそうに、

『私の我儘な約束をあの人は許してくれないと思います。でも』

 最期にこう言った。


『―――優しいからきっと守ってくれるって信じてます……』


 そして彼女の魂は私の目の前から消えた。

 その光景を見て少しだけ私は微笑を浮べた。


「……さて、と」


 でも、少し間を空けた後……後ろを振り返り一歩だけ足を踏み出した。

 闇は私を誘うかのように道を作り出す。

「また……一人、来ましたか」

 静かに空間の先に倒れている青年を見据える。

 黒かったはずの髪は金色になり、おそらく……閉じられた瞳も前世まえの色は留めてはいないだろう。

 そして、もう人間ではない。

 何せ、その背中には漆黒の翼が在るのだから……。

「どのような理由が在っても、その想いが強すぎて自ら死を選んでしまった者は死神になるんですよ……」

 別に聞こえていたわけではないと思うが、ピクリとその指先が動き……ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳の色は透き通った碧眼。

「っつ……あんた、誰だ?」

 まだ目覚めたばかりで意識がはっきりしていないようですね。

 でも、私はここの管理者。

 真実も嘘も虚無も司る者。 

「初めまして……」

 笑みを浮べて、私は教える。

 冷酷な真実を……。

「私の名前よりも先に、貴方の名前を教えてくれませんか?」

「俺は……」

 けれど私は知っていた。

 彼が自分の本当の名前を言えないことに……。

 彼は自分自身の記憶も大切な約束も何もかも忘れていた。

 いや、忘れさせられたというべきか。


 でもその右手にはめられたシンプルな指輪リングは……いつの日か彼の大切な約束を果たすキッカケになるでしょうね。


 信じましょう……この行く末を―――。






「―――もうじき、春か」

 わたしは務めている病院へ行く途中に在る桜の木を見上げていた。

 今は二月の末。

 早咲きの桜が薄桃色の花びら舞い散らしている。


「なぁ、おれはちゃんと……生きてるよ」


 そっと木の表面に触れて、昔の口調で呟く。


「だから……」


 もうしばらくは逢えなさそうな彼女に届くと信じて。


「今度逢ったときは、おれの我儘を聴けよ」


 微笑んで、彼女に届けられないその言葉を……代わりに桜に届けてもらおう。


 明日へと向けて―――……。

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