第2章(2)
「座っても、いいですか……?」
震える膝に耐え切れず、マチルダはリナフィーに切り出した。マチルダと同じく壁を見つめていたリナフィーは、返事をするよりも早く椅子を引く。年上の女性に椅子を引いてもらうことに対する抵抗はあったが、それよりも立っていられないことのほうが深刻で、マチルダは崩れるように椅子に座りこんだ。
「申し訳、ありません」
背もたれに全体重を預けて目を閉じ、マチルダは吐息で詫びる。気にしなくていいのよと応じるリナフィーの声は優しい。
「現役の長官職に会ったのは初めてだけど――スタンリー長官? おもしろい人ねえ」
マチルダを乗せたままの椅子を机のほうへと押して、リナフィーはマチルダを助け起こす。腰で椅子に座るような姿勢のマチルダの脇に手を入れて抱え上げ、上半身を机に預けさせる。非力なはずの女性でも持ち上げられてしまえる我が身がなんとなくおかしくて、マチルダは小さく笑った。
「シェルリナさまが見つけていらした方なんですよ。もとは長距離専門の郵便配達人で、在野の自然科学者だそうです。シェルリナ様とは崖を見に行くたびにお会いしていたと仰っていました」
「へえ……。官吏としては見たことがない性質の人だけど、なんというか――国土庁長官としてはアリよね」
国土庁長官は、清廉潔白であることが特に強く求められる役職である。道路や河川の整備から用地買収、街路樹の剪定まで担う業務は幅広く、関わる人間も多い。街道整備を強く望む自治体から業務受注を目指す業者まで長官との面会を希望するものは引きも切らず、その相手をすればそれだけで一日が終わってしまう。誘惑も多く、清潔な人柄で慕われていたはずの前任者は、わずか半年で収賄と利益供与のために更迭された。後任が見つかるまでの三ケ月間マチルダは大臣職と長官職を兼務したが、あまりに客が多すぎて本来の業務に支障をきたすほどだったのを覚えている。
「スタンリー長官は、面会を断らないので有名なんです」
右頬を机にぺたりと押し当てたまま、マチルダは笑う。
「専用の用紙に用件を書かせて、スタンリー長官がいくつか質問したらおしまい。手土産は受け取って、次の人に土産として持たせて返す。国土庁にはこれ専門の部署ができて、いつだれが何を持ってきたかが要望書と一緒に整理されているとか」
「なるほど。……官吏にはできない発想ね」
「そうなんです。で、貼りだされた要望書を見て、スタンリー長官は現地視察に行くんです。要望をあげた側からすれば国土庁の本気度がわかるし、スタンリー長官も自然観察ができて良いのですが」
頬に当たる机の冷たさが心地よくて、マチルダは首の向きを変えた。リナフィーと目が合う。
「でも、それって官吏には少し困った長官なんじゃない? 官吏には、自分が一番わかっていたいっていう人もいるもの」
「ええ。スタンリー長官がいらして半年で、国土庁の官吏は少なくない数辞めていきました。自分がいなくなってその偉大さを思い知れとばかりに辞めていったのでしょうが、実際のところ、国土のことはどの官吏よりも長官の方が詳しいので、誰も困らなかったという……」
くすくす、とリナフィーが声をあげて笑う。マチルダも口角を上げる。
「本当に、官吏としては型破りな方なんです。暇さえあれば何も言わずにふらりと出て行ってしまうから、国土庁の官吏たちの結束力は中央庁一を誇るんじゃないかな。廊下で後姿なり見かけたら扉という扉が全部閉まるように連絡が徹底していて、それでも抜けだされたときのために今では他庁から探知能力者まで出向して長官の居場所を把握するようになっているんです。……たった二年でここまで国土庁を変えられる人を見つけてきたんだから、本当にシェルリナ様の人脈はどうなっているんでしょう」
腰から下に脱力感を覚えながら、マチルダは肩で笑う。本当にねえ、とリナフィーは笑顔で応じる。あのお堅い子が、そういう人にも縁があったなんて嬉しいことね。
もとは武具置き場でしかなかったので、執務室は寒い。北向きで日が当たらない上に壁には断熱材など入っておらず、もちろん暖房などもない。部屋の隅に丸火鉢が置いてあるが、今は炭など生けられていない。白い息を吐きながら談笑して、唐突に沈黙が落ちた。
「あ」
思い当たる何かに気づいて、マチルダは体を起こした。リナフィーも同じことに思い至ったようで、マチルダと目が合うと首をかしげた。
「その――探知能力って、どういう能力なの?」
「相手が触れた物に触れるだけで相手の居場所が――居場所というよりも距離と方角がわかるのだと聞いています。ちなみに探知能力者が国土庁に出向しているのはスタンリー長官にだけ内緒です」
「希少能力者よね。本庁は――やっぱり、警察庁?」
「はい」
「じゃあ、ポールは探せる……?」
「見つけるのではなく、探すのならばできると思います。能力で探せる範囲に限界があったり、相手が生存していなければならなかったりと、いろいろ細かな条件があるんです」
マチルダは大きく息をついた。背もたれにもたれかかったまま、へその前で両手を組んで呼吸を感じる。
「私の母親は――失踪しているんです」
そっと見ると、リナフィーは落ち着いていた。もともと感情が表に出る人ではない上に、先ほどのマチルダの様子からも何かを察していたのだろう。柔らかな表情で、じっと耳を傾けてくれている。
「私を産んで三日後でした。事件性があるということで警察も動いてくれて、探知もしてもらったそうですが、結局見つかりませんでした。今でもきっとどこかで生きているはずだと父は希望を持っています」
マチルダは自分の心の内を覗くように目を伏せる。
「正直、母の失踪については、ピンときません。物心ついたときにはすでに母はいませんでしたから。ただ――たまに物狂いのようになって母を探す父の姿だけは見てきました。母は何も言わずに姿を消したので、自分を責めている父を知っています」
マチルダは強く目を閉じる。
「ポールは――失踪したのでしょうか」
震える声で問いかける。
「私は、正当な大臣選抜試験を経て選ばれたポールを押しのけて大臣に就任しました。天覧試合で手合せをしたときから、ずっと、シェルリナ様の力になりたかったんです。そばにいたいと願ったときにリクシェル様から望みは何かと問われて、大臣になりたいと――シェルリナ様のおそばにいたいと答えました。民のために自分を殺して生きるあの方を支えたかった。それは自分にしかできないとうぬぼれていました」
震えるのは声だけではない。意味のない寒さに震えて、マチルダは己を抱きしめる。
「私は、シェトラの民のために大臣になりたかったわけではありません。ただシェルリナさまを支えたかった。だから、シェルリナさまが旅に出たいと気持ちを伝えてくださったときは嬉しかったし、リナフィーさまのご協力を得て送り出せたことを誇らしく思っています。でも――シェトラ三億の民を担うのは、二十歳の若造には荷が勝ちすぎます。私でさえそうなのですから、ポールがすべてが嫌になったとしても、仕方がないと思うんです」
震える自分を認めながら、呼吸を感じる。体を駆け抜けていく激情を受け容れると、自然と心が凪いできた。大きく息を吸って吐いて、目を開ける。先ほどと同じ場所に、リナフィーの姿があった。いつもと変わらず落ち着いた表情で、優しく目を細めてマチルダを見ている。
「すみません。……詮無いことを申し上げました。忘れてください」
マチルダは立ち上がる。リナフィーは少し考えてから、片手でそれを押しとどめる。
「話してくれてありがとう。……実は、少し、うれしい」
マチルダ用に用意してある簡易椅子を起こし、リナフィーは腰かける。
「わたしは子どもが持てないから、マチルダを置いて行ったお母さんの気持ちはわからないけど、為政者の気持ちなら少しはわかるつもり。お父さんもお兄ちゃんも――シェルリナも、自分のことなんていつだって後回しで民のため民のためって生きてきたから、それをずっと見てたマチルダが重圧に押しつぶされそうになるのも、わかる」
白い息を吐いて、リナフィーはマチルダの肩に手を置く。
「今日の雪は、マチルダの冬至の祀りが成功した証だと思う。王族でもないのに、季節の祀りに成功したということは、神様がマチルダを認めているっていうことでしょう? だから、ちょっと、自信を持っていいんだよ。ちゃんと冬が来たんだから」
マチルダは目を見開いた。熱いものがこみあげてくるのをまばたきを繰り返して必死に散らす。
「マチルダを大臣に迎えるときね、珍しくお兄ちゃんがわたしに相談してくれたの。マチルダを大臣に迎えることに迷っているというよりは、やっぱり、十五でしかない子どもに前例がないとか異例だとかそういう圧力を与えるのが心配だったように思った。でもわたしは、剣具店にこっそり様子を見に行ってマチルダを見たとき、大丈夫って思った」
マチルダの父は剣匠だ。産業団地で剣具店を営んでいる。基礎教育を終えたマチルダは、そこでしばらく店番の真似事をしていたことがある。
「シェルリナは、叔母のわたしが言うのもなんだけど出来物でしょう? でも、兄弟がいない。マチルダを見たときに、ああこの子なら大丈夫って思ったの。シェルリナをきっと支えてくれる、守ってくれるって。……そしてその勘は外れなかった」
「勘、ですか?」
「そうよ。女の勘。マチルダの何がどう大丈夫だと思ったのかは、今も言葉にすることはできないの。でも実際、マチルダはシェルリナをよく支えてくれた。一緒にいる姿を見て、シェルリナってこんな年相応の表情をするんだって驚いたもの。男性の大臣の第一の仕事が国王を支えることなのだとしたら、マチルダは本当に素晴らしい大臣よ」
リナフィーが真顔で褒め称えるので、マチルダは困ってしまった。身じろぎするマチルダにリナフィーは微笑みかける。
「シェルリナをマチルダが支えるように、ポールはマチルダを支える。それで三年間うまくやってきたんだから、それでいいんだとわたしは思う。今はシェルリナがいないけれど、それでもマチルダを支えることにポールは不満なんて持っていない。これだけは断言できる」
マチルダは目を見開いた。これ以上できないのではないかというほど大きく目を開けて、リナフィーの顔をまじまじと見つめる。
「お休みの日、ポールとたまにお茶に出たりするのよ? わたし、姪がほしかったから。わたし自身伯母にはとても目を掛けてもらったから、わたしも姪が生まれたらそうするんだって思ってたのに、お兄ちゃん男の子しかいないから」
不満げに唇を曲げて、リナフィーは肩をすくめる。
「ポールはマチルダを信頼している。何も言わずに出ていくほどポールが無責任な子じゃないのは、わたしよりマチルダのほうがよく知っているんじゃないの? ポールが失踪したかもしれないなんて考えたなんて知られてみなさい? 激怒するから」
「そう……でしょうか」
す――と、音もなく肩の力が抜けていくのが自分でもわかった。
こみ上げてくるものを必死に飲み下して、マチルダは尋ねる。声がまだ震えているが、これは恐怖のためではない。
「お母さんのことは、残念だったね。でも、身近とはいえたった一つの例でポールまで同じことをするなんて思ったのだとしたら、ポールに失礼よ。真面目すぎて融通が利かないけど、自分が選んだものをよくわかっている子なんだから」
たしなめるように、諭すように、リナフィーはマチルダの目を覗き込む。そうですねと表情を緩めたマチルダは、しかし、リナフィーの次の言葉に固まった。
「わたしは――ポールは、誘拐されたんだと思う」
「え……?」
あまりに予想外すぎて、ことばの意味が沁みてこない。ぽかんと顔を見つめるマチルダに、リナフィーは言い聞かせるように続ける。
「国土庁長官の話もそうだけど、正しいことを選んでいてもそれを受け容れられない人というのは必ずいるものでしょう? たいていの人はそれでもそれを呑み込んで最善を探すものだけど、三億も民がいればそうでない人も出てくる。為政者にてっとり早く要求を呑ませるために女子どもを狙うのは、簡単に想像ができる話だと思わない?」
ある種の確信を持った話しぶりに、マチルダは眉をしかめた。リナフィーは大きな青い瞳を見つめ返して、ぽんと手を打った。
「これはね、わたし自身が誘拐されたから考えたことなの。その意味で、ポールの失踪を疑ったマチルダと大差ないわね。人間って知っていることからしか考えられないというのは真理だわ」
「リナフィーさまは、誘拐されたことがおありなんですか?」
慎重に尋ねると、リナフィーはごくあっさりとうなずいた。
「最初に誘拐されたのは、学校の帰りだったから六つのころじゃないかしら? 誘拐されたのはそれを含めて三度、未遂は何件あったか数えてもいない。王家の娘の身柄を押さえれば国王に言うことを聞かせられると考える阿呆が世の中にこんなにもどっさりいるんだって考えれば、気がふさぐわよね」
「よく、御無事で……。ずいぶん恐ろしい思いをなさったのですね」
マチルダが言えば、リナフィーはコロコロと笑う。
「マチルダが生まれるずっと前の話だからね、もうあんまり覚えていないの。いつもお父さんとお兄ちゃんが助けに来てくれて――お手洗いに行きたいのに行けなくてつらかったことだけ、はっきり覚えてる」
尾籠な話でごめんねとリナフィーは言い足す。マチルダは首を振った。
「私こそ、おつらいことを思い出させるようなことをして申し訳ありません」
「マチルダはお母さんのことを思い出したんだから、それはおあいこ」
さて、とリナフィーは立ち上がって椅子を畳む。マチルダも同じようにして立ち上がり、椅子をもとの位置に戻す。落ち着いた? と訊かれたので、おかげさまでと答えた。
「ポールのことは続報を待ちましょう。その間に、国土庁のからでいいのよね? 署名を済ませてしまわないと」
「国土庁の官吏のことを思えば、最後でいいかもしれません」
笑い含みにそう言えば、リナフィーもなるほどと言って笑う。その余裕が年齢によるものなのか王族という生まれによるものなのかマチルダにはわからなかったけれど、リナフィーがいてくれて良かったと思った。




