表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/22

第2章(1)

 マチルダ=シュルクーズが消えたのは、夏の暑い日だった。

 三日前に初産を終えたばかりのマチルダの家には、母が泊まり込みで手伝いにきていた。一階奥の風通しの良い客間を娘と生まれたばかりの孫に譲って、その隣の納戸に小ぶりの寝台を運び入れて寝泊まりしていた。一日がかりのお産を終えてすぐに赤子の世話に翻弄されるようになったマチルダの頬はこけ、目は落ち窪み、濃い隈ができていた。ようやく授乳を終えてそのまま寝入ってしまった娘の乾いた唇に軟膏を塗ってやって、母は昼食を作るために台所に向かった。

 マチルダの夫は、剣具店を営んでいる。

 大通りに面した日当たりのよい場所は店舗になっており、シュルクーズ剣具店と看板がかかっているが今は閉まっている。一年先まで受注が埋まっているうえに、店番をするはずのマチルダが出産で休んでいるからだ。剣を手入れするための道具がぱらりと陳列された店舗を抜けると商談のための応接間があり、その隣に台所がある。台所の奥の扉は自宅につながっていて、居間があり客間があり手洗いや風呂があって、今はマチルダが子どもと寝起きする客間へつながる。

 昼食はどうしようと、母は台所で頭を悩ませた。

 産後の回復のためには滋養のあるものを食べさせたい。でも、あまりに栄養を取りすぎて乳腺がつまっても大変なことになる。知恵を絞って献立を決め、鍋を振るっていると玄関が開く音がした。

 マチルダの夫の工房は、庭の離れにある。

 昼休憩のために戻ってきた夫は、台所を覗くこともなく一直線に奥の部屋へと進んでいく。体が大きいためにどすどすと響く足音を、母はほほえましく背中で聞いた。十五も年の離れたこの結婚を当初は複雑に思っていたのだが、夫はマチルダをとても大切にして、出産を終えてからはそれこそ過保護に見えるほどだった。眠っているのを確かめればすぐに戻ってくるだろうと調理にいそしんでいた母は、次の瞬間、信じられない声を聞いた。

「お義母さん、マチルダはどこですか?」

 どたどたと全力で台所に戻ってきた夫は文字通り混乱していた。大きな背中を丸めて、唐突なほどにぱっちりと丸い目を左右にさまよわせて、口元がぐにゃりと歪んでいる。何を言われたのか理解できない母は寝ていますよ、と頓珍漢な答えを返した。

「マチルダなら、寝ていますよ。赤ちゃんが寝たばかりだから、起こさないでおきませんか?」

 マチルダと夫は、生まれたばかりの子どもにまだ名前をつけていなかった。何と呼んでいいのかわからないのでそのまま赤ちゃんと言って、母は内心首を傾げた。世間知があるせいか、夫は産後のマチルダを無理に起こすようなことはしなかった。昼間は任せきりだからと夜泣きにも率先してつきあい、大きな手で壊れ物を扱うように赤子をあやしていたのを母は知っている。

「いないんです」

 夫はとりすがらんばかりに母に向けて身を乗り出した。

「いないんです、マチルダが」

「お手洗いかしら?」

 大きな体を縮めておろおろする夫を見上げ、母は火の始末をして手を洗ってから台所を出た。手洗いの扉を叩く。返事はない。もう一度叩く。返事はない。赤子の泣き声が聞こえてくる。開けるわよと言って扉を開ける。誰もいないのを確かめて寝室に戻る。赤子は小さな体で泣いている。その隣に、マチルダはいない。

「マチルダ?」

 そんなところを覗いても誰もいないのなんてわかっていたのに、母は寝台の下を覗き込んだ。かわいらしい子ども用の箪笥の引き出しを開けた。首を傾げて窓を開け、大声でマチルダと呼ぶ夫の背中を見つけた。

 母は混乱した。

 調理中、玄関を開ける音を聞いたのはマチルダの夫が帰ってきた一度きりだ。寝室にはもちろん、自宅には玄関以外の出入り口はない。あえて言えば勝手口になるのだろうが、台所にあるのだから開ければ絶対に気が付く。

「マチルダ?」

 母がいなくなったのがわかるのだろうか、赤子は火がついたように泣いている。慌てて抱き上げてあやしても泣きやまない赤子を抱えて、母はぺたんとその場に座り込んだ。

 幸せな結婚をしたように見えた。

 夫婦仲は良好だった。夫の商売は順調で、経済的な不安はなかった。生まれた子どもは愛らしく、夫婦仲はさらにいっそう深まっているように見えた。

 夫の声を聞きつけて近隣の人が集まってくる。

 手分けして探そうと誰かが言って、あちこちからマチルダの名を呼ぶ声が聞こえてくる。

 泣き止まない赤子を心配して隣家の女性が訪ねてきた。三月前に出産したばかりだという三軒隣の女性が事情を聞いて赤子に乳を含ませにやってきた。満腹になった赤子がこてんと眠ったのを見届け、その女性はまた来ると言って去って行った。

 母はそれを、物語のようにぼんやり見ているような気がした。

 すみません、子どもを頼みますと言って頭を下げて、信じられないほど遠くまで夫はマチルダを探しに出かけた。良好なつきあいをしてきたのだろう、隣近所の人たちも総出で探してくれた。マチルダが結婚前に所属していた神殿の巫女や神官たちも、マチルダの父や姉や夫やその勤め先の人たちまで協力して、日々捜索が続いた。

「公所には届けたのか?」

 不思議なもので、近所の誰かにそう言われるまで、母も夫もそのことを忘れていた。

 産後三日の産婦の失踪ということで、公所も捜索に協力してくれた。国中に似顔絵が行きわたり、捜索が行われた。事情を聞かれる中で痛感したのが、手がかりのなさだった。

 玄関は開かなかった。

 見かけた人もいなかった。

 本当に忽然と消えてしまったから、手がかりは顔と名前と年齢しかない。

 公所が捜索期限とした一月後には、誰もかれもが疲れ切ってしまった。

 夫は夜にふらりと帰ってきて、朝は夜明けとともに出ていく。あれほど逞しかった体はやつれ、頬はげっそりと削げて目は落ち窪んでいた。ろくに手入れしていないから髪も伸び放題で、目だけが炯炯としている。

「メドフォード=シュルクーズさんですか?」

 その日も夫はいつものように家を出ようとした。疲れが出ているのだろう、いつもよりもほんの少し起きるのが遅くなり、母が作った朝食を少し食べた。もらい乳で成長した赤子を抱え、母は、いつ捜索を打ち切ることを提案しようかと考えていた。娘も心配だが、その夫も心配だった。

「はい」

 いかつい体に目ばかりぎょろぎょろとした夫の顔を見て、やってきた客人は怯んだようだった。抜けるような空色の前垂れに線は右――公人の証であるその人は、同じように空色の胴着の女性を伴ってやってきた。一歩下がった男とは対照的に、女はにっこり笑顔のままで夫を見上げた。

「今日は、マチルダさんの一か月検診のためにやってきました」

「あ……」

 マチルダの名を聞いて、夫は複雑な顔をした。久しぶりに聞いたその名が懐かしく、恋しく、そしてそれがそこにいないのが悔しく悲しい――そんな顔だった。

「マチルダは――その」

「はい。奥様がいらっしゃらないのは、すでに把握しています」

 赤子を抱えて玄関に見送りに立っていた母は、唇を噛む夫の代わりに口を挟んだ。ああそうか、と母はぼんやりと納得する。公所に届けたのだから、役人が知っているのはあたりまえだ。

「ですから、今日は、マチルダさんの一か月検診が目的です」

 言って男は医師免許を夫と母の前に示す。女も同様に看護師免許を二人の前に示した。拒む理由は見当たらないので、二人を居間へと案内する。夫はその後ろをぬっとついてくる。看護師が母の手から赤子を抱き取り、ここいいですかと言って抱えてきた鞄から道具を取り出す。簡易寝台を組み立てて赤子を横たえる二人の慣れた姿を、母はただ見守る。

「お義母さん」

 身長を測り、体重を計り、聴診器を当てる――そういえばあの子はこの一月風邪ひとつひかなかったと母は考えた。あんなに小さいのに、もしかしたらもう事情がわかっているのかもしれない。

「俺――出生届、出してねえや」

 母に語りかけた夫の声はがさがさしていた。一月の間弱音もはかずに黙々と捜索に出て、あちこちに頭を下げて、一回り小さくなった娘の夫のことばに、弱音を吐いていいんだよとうんうんうなずきそうになって――母は、顔をあげた。

「二人で決めようって言ってて、まだ、話してる途中だったからさ。名前、決まってなかった」

「ああ、うん」

「だから、出生届が、出せなくて」

「うん」

 夫の大きな目から、それに似つかわしいような大きな涙がこぼれた。そっと手ぬぐいを差し出して、小さくなった背中を撫でてやって――母は、気づく。

 なぜ、彼らはここにいるのだろう?

 子どもの向きを変えて足を引っ張る。頬に手を当てて哺乳力を確かめる。

 項目は少し変わっているものの、三十年前にマチルダを産んだときと同じ検診がそこにある。空色の前垂れも右の線もみな正式のものに見えた。

 でも――子どもは、公にはまだ生まれていない。

 生まれても、公所に届けなければ公的な支援は受けられない。見えないものに対応できるほど公所は暇ではない。

 じゃあ、彼らはどこで知ったのだろう?

「これで終了です」

 子どもに衣服を着せ付けて、ついでにおしめも替えてやって、看護師が赤子をメドフォードの腕に戻す。呆然と見守るメドフォードの前に医師がやってきて、次は一月後ですと書類を渡す。

 横目でそれを見て――母は目を見開いた。

「何の冗談ですか、これ」

 怒りのあまり震える声で問いただす。慣れているのか、医師はただ首をかしげる。

「この子は男の子ですよ? なんで名前のところに、娘の名前が書いてあるんですか?」

 突然の大声に驚いて、機嫌よく笑っていた赤子が泣き出す。おろおろとあやす夫を庇うように進み出て、母は両手を握りしめる。

「ああ、そういうことですか」

 母の剣幕とは対照的に、医師は涼しい顔で手を打つ。目くばせひとつで、看護師が鞄から紙片を取り出す。

「私たちも名前から女の子だと思って来たのですが、おしめを開けたら男の子で、驚いたんです。名前をお呼びしてもお子さんの名前だという認識がおありではないようでしたから、少し、不思議に思っておりました」

 看護師が医師に紙片を渡す。夫と母は、それを食い入るように見つめる。

「これは、公所に提出された出生届の写しです。これが助産師の氏名と署名、これが届出人の氏名と署名――本人確認は、静脈認証で行われたようですね」

 マチルダ=シュルクーズ――と、届出人の欄には見慣れた文字が並んでいる。シュルクーズが綴りづらいと言いながら練習していた娘の横顔を、母は思い出す。

「妻の――筆跡です」

 母は書類に目線を走らせる。探さなくても右下にはっきりと、受付印が押されていた。その日付は、失踪したあの日――忘れもしないその日付を見て、全身が震える。

 何が――不満だったのだろう。

 何を考えていたのだろう。

 どうして何も言わずにいなくなったのだろう。

 夏のあの日、マチルダは、生まれた男の子に自分の名前をつけた出生届を提出して、姿を消した。それはきっと、マチルダ自身の意志だ――


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ