第1章(6)
セリアは目を見開き、クリウは眉根を寄せている。大股に歩きだしたのはログで、弟子たちが口を開けてぽかんと見つめる執務室――音が聞こえるほうへと足を向けている。慌てたように駆け出すリナフィーを見守って、マチルダはようやく、眉をひそめた。
剣術道場にふさわしくない電子音、それも執務室から聞こえてくるということは、おそらく、電信機の着信音だろう。執務室には電信機が運び込んである。ただ、自分の暮らしもある中でリナフィーが何を思って国王代理の大役を引き受けてくれたかを理解していれば、軽々に電信機を用いて彼女を呼び出そうとは思わないはずだ。
――何が、あった?
手から剣をぶら下げたまま、マチルダは執務室を見守る。確率は低いが私信の可能性もあるので、リナフィーの後を追うのは躊躇われた。開け放たれたままの扉にクリウが手を伸ばすのを、ただ見守る。
「マチルダ」
ややあって、扉の向こうからリナフィーが手招きをした。眉をひそめたその顔は、困惑しているようにも見える。今にも首をひねりそうなリナフィーにはいと返事をして、セリアとクリウに頭を下げて執務室に入る。
執務室は冷えていた。高いところに切り取られた窓が、冬の日差しを投げかけている。むき出しの石造りの壁沿いに本棚と机が並べられ、事務用品が置かれている。中央に一つ置かれた両袖机の上には長方形の金属板が一つ、水を張ったように表面をきらめかせている――電信機である。
『お。大臣』
電信機は、空中に二人の男性の映像を投げかけていた。一人は中肉中背の四角い顔の中年男性、もう一人は顎の尖った若い男性である。リナフィーに呼ばれるままに電信機の正面に立ったマチルダを見つけて、若い男性はばつが悪そうに目を伏せた。
「おはようございます、スタンリー長官、フレデリク長官」
電信機の発信元は国土庁長官室である。休日の、しかもこんな雪の日に出勤するほど、国土庁長官スタンリーは勤勉ではない。不思議に思いながらあいさつすると、中年男性――国土庁長官スタンリーは黒縁眼鏡の奥の糸のような目をさらに細めた。
『大臣補佐はそっちにいるかい?』
おはよう、休日出勤お疲れさんとあいさつを返し、その延長のような気楽な口調でスタンリーは尋ねた。今日の雪はすごいねと世間話をするようなあまりの気軽さにいえとあっさり答えそうになってマチルダは目を見張る。フレデリクがスタンリーの隣で明白に驚いていなければ、きっと答えていただろう。
「大臣補佐に――何かあったのですか?」
質問に質問で答えるのはよくないとわかっていても、マチルダは訊き返さずにはいられなかった。視界の端で、リナフィーが体の向きを変える。リナフィーは電信機の映像にぎりぎり入らない絶妙の場所に立ち、この話にどこまで自分が関わるべきかを判断しているようだ。
『わかんね』
マチルダの質問に無言でこくこくと頷くフレデリクをちらりと見て、スタンリーは首を傾げた。少し大きいのだろう、黒縁眼鏡が動きに沿ってずれる。わざわざ外して息を吹きかけ拭ってから、スタンリーは眼鏡を掛けなおす。
『なんていうのかなあ――阿鼻叫喚って言うのか? 女房衆が取り乱していて話になんねえんだわ。ポール様が、ポール様がって言うばっかりで、いつどこで何が起きたのか、最前までと何が違うのかもさっぱりわかんねえ。一応セシルさんがなだめてるんだけど、話ができる人に聞いた方が早いべと思って、大臣に連絡してみたんだわ』
国土庁長官スタンリーのことばにはわずかに訛がある。もとは長距離専門の郵便配達人だったという異色の経歴を持つこの長官は、官吏の論理を飛び越えて行動することが多々ある。取り乱している女房衆と話すよりも落ち着いているマチルダから情報を引き出す方が早いという判断はなるほど合理的だが、一緒にいるフレデリクにさえそれを知らせていないというのがスタンリーらしい。
「そちらに、大臣補佐は?」
『いない。……しっかりと探したわけじゃないけど、少なくとも俺は話ができなかった。女房衆があんなでも、大臣補佐さえいればきちんと話ができたと思って探したんだけどな』
「ポールは――いえ、大臣補佐は」
咄嗟に名前を呼びそうになって、マチルダは慌てて訂正する。気が付くと手汗がじっとりと浮いてきていた。膝が今にもがくがくと震えそうなのを、意志を総動員して制する。
「昨夜別れたときには、明日は――つまり今日ですが――明日は雪が積もりそうだから自室で本でも読んでいようかなと言っていました。今日は週休日ですし、私は朝早くにそちらを出たので、それ以上はわかりません」
『そっちには一緒に行っていない?』
「はい。来ていません」
マチルダは固くうなずく。スタンリーは大きな動きでぼりぼりと後頭部を掻いた。
『参ったなあ……。大臣補佐は、あの騒ぎで自室に引っ込んでいられるようなヒトじゃねえよなあ』
「大臣官邸の鍵は女房衆も持っています。ポールの部屋を確かめていただいてもよいですか? 先ほどのお話だと、セシル長官もいらっしゃるんですよね?f」
セシルとは、財務庁長官職にある女性の名である。そうだけどもさ、とスタンリーの反応は鈍い。
『セシル長官がいても、今の女房衆から鍵は借りられねえよ。……大臣は、いつごろこっちに戻る予定だった?』
「昼食前には」
先日マチルダがリナフィーから受けた連絡によれば、交流試合はちょうど昼から始まる予定だった。マチルダは持参した書類にリナフィーの決裁を受けて、試合相手が集まる前にここを辞すはずだった。
マチルダがちらりと見ると、リナフィーは口の動きだけで何かを訴えていた。ゆっくりと、ひとことひとことを区切るように動く唇をマチルダはじっと見つめ、大きく首を振る。唇の動きが読めないというより、頭の中でつながらない。頭が真っ白になるというのはこういうことかもしれない、とマチルダは思う。
「わたしも混じっていいかな?」
ついに焦れたリナフィーが映像の中に足を踏み入れた。突然現れたように見えるリナフィーにスタンリーは細い目を見開き、フレデリクは慌てて一歩下がって頭を下げる。差し出口を挟んでごめんねと顔の前で手を振って、リナフィーはまっすぐにスタンリーを見上げる。
「確認させてね。長官が取り乱している女房衆と会ったのはどこ?」
『どこって――ええと。噴水広場……か?』
噴水広場とは、王城の突端となる広場である。水の国レミュターからわざわざ技師を呼んで作ったという瀟洒な噴水を慕うように行政庁舎や中央銀行、王立裁判所の建物がまるで花弁のように建ち並んでいる。政治の中心地ともいえる場所であるために町側の入口には厳めしく武装した門番が昼夜を問わず常駐し、やってくる人間に目を光らせている。
『すみません。お話をしてもいいですか?』
要領を得ないスタンリーの返答に焦れたのだろう、フレデリクが手を挙げた。返事を求められたリナフィーはすぐにマチルダを振り返る。どうぞ、とマチルダは答えた。
『今の時点で、私がわかっていることをお知らせします。事の起こりからお話しするので、少し長くなりますがご了承ください』
初めに断って、フレデリクはスタンリーを見る。スタンリーは首を傾げてフレデリクを促す。
『今朝――日の出ごろでしょうか。私は自宅周辺の除雪を終えてから、王宮への道の除雪に赴きました。今日は決裁日で、明日からはまた忙しくなります。庁舎への道は坂道ですし、明日朝除雪をしながら登庁したのでは時間がもったいないと思ったからです』
フレデリクは二十代後半の若い教育庁長官である。やわらかく優しげなたれ目が印象的で、いつでもほんのり笑っているように見える。堅実で真面目な仕事ぶりが前教育庁長官に評価され、その推薦を受けて長官となった。いわば生え抜きの長官である。
『私が来たときには、すでに大勢の市民有志によって除雪が進んでいました。その中には数名の官吏もいました。ずいぶん久しぶりの大雪だと話を聞きながら進んでいくうちに、セシル長官、次いでグレンヴィル長官が合流しました』
『そうそう。俺は朝飯食ってから坂を登ったらさ、半分以上除雪が終わっててがっかりしたんだ。せっかくものさしと手帳を持って寒いところ出たのに』
「ものさしと手帳……?」
「スタンリー長官は、自然科学者なんです。五十年ぶりとかそれくらいの大雪ですから、きっと研究対象となりえたのでしょう」
戸惑うリナフィーにそう補足すると、スタンリーがにかっと笑った。あらまあ、とリナフィーは頬に手を当てる。それじゃあ、記録が取れなくて残念だったわねえ。
『いやいや、半分終わってたけど半分はまだだったから、記録はそれなりに。丘の上と下でそれほど積雪は変わらねえなあと思いながら進んでいったら――門のところに、女房衆がいてさ』
スタンリーは手帳を出し、眼鏡を押し上げて文字を追う。
『ソワン――って名前らしい。髪を振り乱して、長靴の踵が折れたまんまで助けてくださいって門番にすがってて、門番は場所を離れるわけにはいかないから困ってたんだわ。普段だったら交代もいるんだろうけど、みんな除雪に出てたからさ。それで俺が話を聞いた』
『噴水広場周辺の除雪は、門番の方々によってほぼ終えていました。私たちはその細い道を拡張しながら登って行って――そろそろ終わりにしましょうかと、グレンヴィル長官とお話をしていました。それなら待ってくれとセシル長官がおっしゃって、門番の詰所から湯呑とお茶を持っていらしたんです』
セシルは雪深い北方の出身だとマチルダは聞いたことがある。非力な女性の身でありながら除雪に参加したのは習慣なのか。湯茶接待の準備まで前日の上に整えておける先見の明にはただただ畏れ入るしかない。
スタンリーがうなずく。
『目を真っ赤にしてさ、泣くのを懸命にこらえてたんだろうけど、ポール様が消えてしまったんですって言ったきりぼろぼろ泣き始めてなあ……。ちょうどセシルさんが来たし、それ以上はどうも埒があかなさそうだってんで、俺はちょっと王宮に行ったんだ』
『詰所の様子がおかしいことに気づいたのは、グレンヴィル長官でした。私はのんきに湯呑を配っていて――財務庁庁舎と門番詰所のありったけの湯呑を動員しても、除雪有志の人数にはどうしても足りなかったので、湯呑を洗っては出して洗っては出してをしていました。あたたかいお茶を飲んで人心地ついた人たちを見送った後、セシル長官に手招きをされました』
スタンリーとフレデリクは別々のことを話しているのに、時系列が合っている。そのときその場にいた四人の動きを頭の中で想像しながら、マチルダはうなずく。
スタンリーがフレデリクを見る。フレデリクが続ける。
『たぶん――今、スタンリー長官が仰った女房衆だと思います。踵が折れた長靴をはいた女房衆と一緒に、セシル長官が大臣官邸を見てくるとおっしゃいました。私はわかりましたと答えました。セシル長官と女房衆の様子から何か起きていることは察せられたので、門の外で談笑している市民有志の最後の一人まで見送ることにしました。どこまで市民に知らせるかは、後から判断すべきだと思ったものですから』
『なんだ。じゃあ、大臣官邸はセシルさんが女房衆と見に行ってるんだな?』
『はい』
驚いた様子で問いかけるスタンリーに、フレデリクが苦笑交じりに答える。珍しい取り合わせの二人は、ろくに打ち合わせもなく連絡を寄越したようだ。悪い、大臣。さっきのは取り消しだ――スタンリーが顔の前に片手を立てる。
『王宮前は、きれいに雪が消えてたよ。女房衆が天賦を使って除雪したんだって言ってた。俺は除雪は男の仕事で、力仕事だと思い込んでたから、天賦を使って雪そのものを消すっていう発想に驚いた。でもそれより驚いたのが、その女房衆たちが濡れた地面にうずくまって泣いていたことだ。あんなに広い場所が、女のすすり泣く声でいっぱいでさ。俺の姿を見たら、大勢がいっぺんに立ち上がってポール様がポール様がって言ってすがってきたんだ』
いや参った――スタンリーは唇を引き結ぶ。
『ただ事じゃないことが起きていることだけはわかった。でも、話を聞こうにも誰一人筋道の通った説明はできねえ。とりあえず大臣補佐の姿が見えないことだけは確認できたから、それで、大臣に話を聞こうと思ったっていう最初の話に戻る』
『最後の方を見送って広場に戻ると、どなたもいらっしゃらず、門番も状況は把握できていないということでした。どうしようと思って歩き出すと、王宮側から戻ってくるスタンリー長官の姿が見えたので、話を伺おうと思ったんです。まとめて説明するからと仰って、それで――』
申し訳ありません、とフレデリクは丁寧に頭を下げる。生え抜きの官吏であるフレデリクからすれば、状況を把握していない自分が一緒に電信に映るというのは考えられないことなのだろう。ただ、スタンリーの性格を知っていれば合理的に動く彼が説明を一度で済ませようとするのも理解できる。
マチルダはゆるやかに首を振った。
「咄嗟のことです。それぞれが最善と思われる判断をして行動しているのですから、何が良かった悪かったなんて結果論でしかありません。今はそれよりも、ポールのことを考えましょう」
スタンリーがうなずく。フレデリクがハイと返事をしてマチルダをまっすぐに見る。
マチルダは大きな目を閉じた。体の芯が震えているのを、認める。
「ポールの身に何が起こったのかはわかりませんが、一刻も早く手を打たなければならない事態であることは確かであるように思います。ただ――今、私は、たいへん申し訳ないのですが、それを考えることができません。お休みの日に心苦しいのですが、まずはそちらである程度動いていただいてもよろしいですか?」
膝が震える。鼓動が早い――マチルダは顔をあげて二人の長官の顔を順に見る。
いいよ、とスタンリーの返事は短かった。もの問いたげに唇をむずむずさせているフレデリクを後目に、気楽に手を挙げる。
『今はまだ何もわかっていない状態だから、ある程度わかったらまた連絡するよ。リナフィーさま、それまでに国土庁の分だけでいいから決裁頼んますわ』
よろしくお願いしますとマチルダが答えるのと、フレデリクがえ? あ? と困惑の声を上げるのはほぼ同時だった。スタンリーがごく自然な動作で通信を切断すると、マチルダの前に珪藻土が塗られた武具置き場の壁が現れた。




