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第1章(5)

 マチルダはリナフィーが困惑している顔というのを初めて見た。リナフィーほどに達観した人物であっても困ることがまだあるのだとさえ思った。師範がそうだから、まして弟子たちはあからさまに混乱している。セリアを含めて皆一様に口をぽかんと開け、ついでに目も見開いて、マチルダの後方――マチルダが今入ってきたばかりの扉を見ている。

「こーんなかわいい顔をしていても、マチルダは強いぞ? 王宮に上がる前は才能頼みみたいなところがあって付け入る隙があったけど、王宮で陛下と鍛錬するようになってからはかなり危険だ。おれも二回に一本取れるかどうか」

 武道館の人々の反応をまったく気にせず、耳に心地よく響く佳い声で闖入者は語る。記憶の片隅にその声の主を思い出し、マチルダは眉をしかめた。素晴らしく佳いこの声は幼馴染のログのもの――振り返るまでもなくマチルダは、その声の主の姿が良いことを知っている。芸術家が傑作として発表する絵画や彫刻のように現実離れして整った顔立ちと、細く長い肢体。隣の小母さんは、斜向かいに住んでいる彼を口を開かなければ好い男なんだけどね――ついでにあんたは口を開かなければどこにでも今すぐ嫁に行けるんだけどと笑いのめしてくれた。

 マチルダは目を閉じる。

 ログが――マチルダを研究施設に誘った彼が、そこで師に認められて剣術師範の教室を持ったという話は聞いていた。二十歳をわずかに過ぎたばかりで抜擢と言ってよい人事だった。いっぽうで、彼の社会性を見ればありえない人選でもあった。きっと顔採用なんだよと別の幼馴染が笑っていたことを思い出す。

「おはようございます、ケネルファス師」

「おはようございます、ローヤー師。本日は交流試合にお招きいただき、ありがとうございます」

 クリウの挨拶に応じて、無駄に佳い声が道場に響く。そういえば彼はケネルファスという姓だったなと、マチルダは床を見つめながら考える。だからどうというわけではなく、これ以上のことをあまり考えたくないだけだ。

「それにしてもこちらの道場は素晴らしいですね。昨日の大雪で時間までに研究生たちがこちらにたどり着けるか心配で早朝から来てみたら、すっかり雪が除いてある。町場からこちらまで道ができていたので、おかげで迷わずに済みました」

「ありがとうございます。交流試合はお昼からでしたね。よろしくお願いします」

 美術品のように整った顔で言い訳にもならない状況報告をするログのことばを受け流し、クリウがまだ早いんだと遠まわしに伝える。でもそんな婉曲表現ではログには伝わりませんと、マチルダは心の中でつぶやいた。面倒事になるのはわかりきっているので、口には出せないけれども。

「そうなんですよ。昼食後のお約束ですよね。……でもホラ、マチルダがあたりまえにこちらに入っていくのが見えたんですよ。マチルダです。わかりますか? 今そこで口説かれていた、かわいい子です。丸顔で小さいし名前もマチルダですけど、あいつあれでちゃんと男なんですよ」

 マチルダは知っている。ログは心底マチルダを心配しているのだ。俺は幼馴染だから確認したことがあるからご心配には及びませんとか余計なことを言っているのも、親切心からなのだ。振り向いて確かめる気はしないけれど、きっととても真面目な顔でクリウに話しているのだろう。

「マチルダ……さん?」

 だから、今は我慢しなければいけない――わかっているのに拳が震えているマチルダに気付いて、セリアが心配げに声を掛ける。マチルダは理性を総動員して表情筋を動かして笑みを作り、大丈夫ですと言葉を紡ぐ。

「マチルダはああ見えていろいろ考えるやつなんで、まさか万が一にも誘拐でもされたんだろうかと思ったんです。そしたらなんだか口説かれているじゃないですか。いやもうびっくりしてしまって」

「おれ――」

「いえ、あなたは私を口説いてなどいませんから、安心してください」

 今にも泣きそうに、言葉遣いも素に戻っているセリアを見て、マチルダはふと思った。道場生たちを動揺させ、手元の研究生たちを勝たせるために、ログは早朝ここに来たのではないだろうか――だとしたらそれは大成功だ。いや、どう考えてもログにはそんな深謀遠慮など無理か。

「知り合い……?」

「腐れ縁です」

 セリアの肩にそっと手を置いて、リナフィーが訊ねる。リナフィーの顔を見たセリアがほっと息をつく。苦笑いの表情を作って、マチルダはログをこっそり振り返った。

「幼馴染です。……研究施設におれを誘ってくれたのが、彼です」

 師範に抜擢されたとは聞いていましたが、まさか今日の交流試合のお相手が彼とは思いもしませんでしたと正直に言うと、リナフィーがくすりと笑った。

「クリウがね、若い人にはたくさんそういう機会を与えるべきだという考えの人なのよ。研究施設だし、若いしで、どこも断られているんですと言っていたから、それならうちへどうぞと――」

 ああ、それでとマチルダは納得する。もともと今日は決裁日の予定だった。その日に交流試合が入ってきたのは、そういうわけだったのか。

「マチルダ」

 リナフィーと話している間にどういう流れになったのか、ログが佳い声でマチルダを呼んだ。名を呼ばれれば反応せざるを得ない。マチルダが振り返ると、弧を描いて大剣が降ってくる。

「小父さんの作った剣だ。……貸してやる」

「あのさ」

 片目をつぶって親指を立てた右手を突き出したログに、マチルダは大剣を投げ返す。

「おれとおまえで、どれほど身長差があると思ってるわけ? いくら父さんが作った剣だと言っても、おまえのために造られた剣はお前のためのものでしかないの。それを借りるんだったら、模造剣をお借りしたほうがよほどしっくりくるよ」

「ふうん」

 器用に片手で受け取った大剣の鞘に革紐を差し込んで、ログは背中に背負いなおす。マチルダよりも頭一つ分高いログの頭からぴょこんと柄が見えるほどに長く大きな剣――マチルダが振り回したら、確実に道場の床を傷つけることになるであろう。

「じゃ、がんばれよ」

 剣の位置を確かめて、ログが手を挙げる。そのさわやかな満面の笑みを見つめて、マチルダは己の過ちに気付いた。いつの間にか、マチルダはセリアと剣を合わせることになってはいないだろうか?

「良いの?」

 リナフィーがマチルダに尋ねる。何の感情も読み取ることができない、落ち着き払ったその顔を見つめ返し、マチルダは首をかしげる。

「良いか悪いかを決めるのは、リナフィーさまとクリウさんです」

「そうか。……そうね」

 リナフィーはクリウを見る。目線だけで会話を交わして、もう一度マチルダの顔を覗き込む。

「お願いすると私たちが言ったら……?」

「お受けします」

 小声の質問に、笑みを含んで答える。

「私も男ですから、剣を交える機会をいただけるのなら喜んで。……ただ、今日は朝からあちこちでかわいいかわいいと言われていて鬱憤がたまっていますので、手加減できるかはわかりません」

「万が一けがをしたとしても、優秀な治癒師がいるからね」

 マチルダの冗談に冗談で応じて、リナフィーがセリアを呼ぶ。すっかり萎れてしまっていたセリアは、名を呼ばれてハイとあわてて顔を上げた。

「三本勝負ね。……マチルダから一本も取れなかったら今日の交流試合にあなたを出すことはできないけれど、それでもいい?」

 セリアはリナフィーとマチルダを見比べた。もともと細い目を糸のように引き結んで、表情を引き締める。姿勢を正し、ハイと折り目正しく答える。

「よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 マチルダはセリアに正対して頭を下げる。それを見た弟子たちがおおと声を上げてどよめく。一人拍手をしているのは、おそらくログだろう。クリウがログにどんな話をしたのか気にならないわけでもないが、マチルダの胸には確かな高揚感がある。

 マチルダが治癒師の天賦を自覚したのは、己が剣で他人を傷つけてしまったときだった。剣で肉を切る感触は、今でもまざまざと思い出すことができる。当然、その後しばらくは剣を持つことさえできなくなっていた。剣術試合に出場することが絶えたのは、そのことと無関係ではない。それでも今こうして剣が持てるようになったのは、そして鍛錬に励むようになったのは、マチルダが傷つけてしまった相手――国王シェルリナの支えによるものが大きい。けがをさせたのではあなたではなく剣なのです、使いこなせるようになりましょうと言われ、一緒に鍛錬をするようになり、剣を合わせるまでに至った。最初は国王のお相手を務める程度の気持ちだったが、彼が旅に出て半年たつ今は、逆に自分が相手を欲していたらしい。

「それでは、よろしいですか?」

 弟子たちと、ついでログを壁際に退避させて、クリウが中央に進み出る。リナフィーはさりげなく、執務室となっている武具置き場のそばに立っている。弟子たちは神妙な顔で一列に並んでおり、黙っていれば美形のログは精悍な顔で腕を組んで扉付近に立っている。

 マチルダは剣を借りた。誰のためにで作られたものではない――たいてい、剣匠の弟子たちが修行のために打ったものである――模造剣の中で、長さと重心が自分になじむものを選んだ。己のために父が鍛えてくれた剣とは使い勝手がまるで違うが、剣を使いこなせるようになるという目標に近づけたのか確かめるのにはちょうどいいかもしれない。

「では――始め!」

 落ち着いた声でクリウが試合開始を告げる。

 セリアは剣を中段に構え、右足をそろりと動かして前に出す。マチルダは借りた模造剣を右手で持ってだらりと下げ、全神経を集中してセリアの動きを見守る。

 天覧試合で予選を勝ち抜いた後も鍛錬を続けていただけあって、セリアもなかなかの使い手であろう。ただ水のように心を落ち着けて、マチルダを見守っている。マチルダはそれをさらに研ぎ澄ませて、あるがままを受け止めて――お互いに、相手の隙を伺っている。

 動きのない二人が目に見えぬところで牽制し合っていることに、弟子たちは気付くのだろうか。二回に一本取れるかどうかと言っていたログは、気配を消してじっと立ち尽くしている。集中すると周囲の状況がよく見えるというのは、本当である。

 マチルダの剣に流派はない。ただ、己が体格においてほぼすべての対戦相手に劣るということを熟知しているだけだ。だからゆったりと剣を構えて、相手の動きを見守る。上段からの攻撃も、下段からの突きも、すべてかわしてから攻撃に入る。これ見よがしに隙を作って攻撃を誘う。

 ――お見通しかな。

 セリアの澄んだ青い目を見て、マチルダは思う。天覧試合から五年、彼の目標はマチルダだったと言っていた。決勝戦ではマチルダとシェルリナの対戦を間近で見たとも。だとしたら、五年前のマチルダの剣の癖をしっかりと覚えているかもしれない。

――さて。

剣を両手で持つ。重心がやや前方に傾く。やはり、慣れぬ剣は扱いづらい。 セリアが動く。ほんのわずか、ぴくりと。マチルダの体幹がぶれたのに気づいたか。

だん! と体重をかけてセリアが一歩を踏み出す音が響いた。振り下ろされた一撃をマチルダは体を右に逸らして受け流す。返す勢いでセリアの脇腹に剣を添えるように当てようとしたところで

――ルルルルルルルルル

いっそ場違いなほどに甲高い電子音が響いた。


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