第1章(4)
「セリア!」
「すみません、師範」
クリウが鋭い叱責の声を出す。まるでそれをいなすように剣を払って、一人の青年がマチルダの進路に体を割り込ませた。マチルダよりも頭半分ほど大きい、がっちりとした体格の青年である。年齢はマチルダと同じかそれよりも少し上だろうか。目尻のぽっちりと黒いほくろが目を引く。
「リナフィー師範。……今、マチルダ――と仰いましたよね?」
首だけ振り返ってセリアが尋ねる。リナフィーは体ごと振り返って、言ったわ、とうなずく。
「彼の名前はマチルダ。マチルダ=シュルクーズ大臣。公用でこちらにいらしているのだから、失礼のないようにね」
はい、と折り目正しい返事を返して、セリアはマチルダを見下ろす。当人にはそのつもりはないだろうが、体格差があるのでどうしてもマチルダが見上げる格好になる。先ほどは失礼しましたと頭を垂れて、セリアはマチルダをいちずに見つめた。
「私は、セリア=トレンティフと言います。クリウ師範のもとで剣を学んでいます」
「マチルダ=シュルクーズです。本日は、交流試合の朝のお忙しい中、お騒がせをして申し訳ありません」
リナフィーはセリアに、マチルダを大臣として紹介した。それならばここは大臣として対応するべきだろうと判断して、マチルダは仕事用の顔でにっこりと微笑む。小さく頭を下げて顔を上げると、きゅっとくちびるを引き結んだセリアの顔があった。何か? と小首をかしげるマチルダに、まるで秘密でも打ち明けるようにおもむろに口を開く。
「自分――私も、あの日、天覧試合に出場しておりました」
「天覧試合」
セリアのことばを繰り返し、マチルダは大急ぎで記憶を手繰る。
天覧試合とは、五年前に開催された国王主催の剣術大会――だろう。マチルダが生まれてから行われたのは、ただ一回だけだったはずだ。ただでさえ剣術大会と言われれば喜んで参加するシェトラの男たちは、国王主催の大会で、しかも優勝者には国王の力の及ぶ限りで望みを叶えようという宣伝が行われたこともあり、文字通り国中の端々から参加した。その数は実に三千人にもおよび、予選は百人ごとに闘技場に放り込まれて既定の人数になるまで戦い抜けというとんでもない方式で行われたほどである。
目の前の顔の五年前を想像して記憶と照らし合わせる――正直、予選で当たった対戦相手は、顔もおぼろげながらにしか思い出せない。百人が一斉に剣を合わせた闘技場の雰囲気は異様だったが、そこはシェトラ人らしく、礼に始まって礼に終わる試合がそこここで行われていた。まだ十五だったマチルダには、しかし、それは作業のように感じられた。相手の顔をよく見て試合に臨んだ――記憶は、正直、ない。
「決勝一回戦までは進んだのですが、恥ずかしながらそこで敗北しました」
どこで出会った――空転する記憶を必死に検索し続けるマチルダの顔色を読んだように、セリアは続ける。話しぶりからするに、マチルダとは対戦していなかったようだ。覚えていなかったわけではないと知って、マチルダはほんの少し、胸をなで下ろす。
「覚えていますか? 決勝大会出場者は、闘技場でその後の試合を見守ることができました」
知らない。最終戦まで勝ち上がることができたマチルダは、試合の後は水分補給や休憩や――負傷者の手当てに充てていたので、わからない。
「最終戦を拝見しました。マチルダ閣下は、お小さいのに、体格でも速さでも勝るシェルリナさまとよく渡り合っておいででした」
セリアは褒めているつもりなのだろう。上気した表情にも、ほんのりと憧れのようなものがうかがえる。でもその内容は失礼極まりないように思われて、マチルダはちらりとリナフィーを見た。リナフィーはマチルダの視線に気づいてひらひらと手を振りかえす。さらに横目でクリウを伺うと、腕を組み両足を開いて、完全に見守る姿勢である。
「なぜ――剣を棄てたのですか?」
セリアが息を吐ききるのとほぼ同時、その背中にいた弟子たちが一斉に息を呑むのがわかった。リナフィーさえも手を止めて、顔を引き攣らせている。
剣を棄てる?
物心がつく前から棒切れを振り回し、友達と打ち合わせ、学校で読み書き計算と一緒に剣術も学んで育つシェトラの男子にとって、それはあまりにも失礼な質問だった。剣とは、言うなれば生活の一部であり、己のために仕立てられた剣は身体の一部のようなものだ。それを棄てるなんてことはありえない。だからマチルダは怒って良いし、憤ってしかるべきなのだろう。
「それが――ずっと、知りたかったのですね」
だが、穏やかに、にこやかに、マチルダは返す。
マチルダの目の前にはセリアの表情がある。ことば以上のことを、雄弁に語っている。
見上げた視線の先ではセリアが唇をかみしめている。目を潤ませ、必死に唇を引き結んでことばを抑えている様子は、まるで母に叱られた幼子のようだとマチルダは思った。そのあまりにも思い詰めた真摯な表情には、怒りなど湧いてこない。
「私は剣を棄てていません」
諭すようにおだやかに、マチルダは続ける。セリアが不満げに眉根を寄せる。
「確かに私は剣士ではありません。あの天覧試合の日、私は自分の天賦が治癒師であるということを知りました。人のけがをたちどころに癒せるこの能力を、私はありがたいと思っています。できるだけ使いこなせるように能力を高めていきたいとも」
マチルダは己の手を見る。これと言って特徴のない、ごくあたりまえのシェトラの文官の手だ。書類仕事ばかりだから中指が少し曲がって第一関節には胼胝ができている。手のひらの指の付け根は平らになって、固くなっている。何があるわけでもない、ごくごくふつうの手なのに、けがだけを治せる手。
ぎゅっと、握りしめる。
「天覧試合のあの日から、私は、私にしかできない方法で人を守ろうと思いました。天賦に加えて日々努力を怠らないあの方に剣は任せて、傷ついてしまった人々を癒そうと。だから剣術大会には参加しなくなりましたし、人前で剣を振るうことも絶えました。……でも、棄てられるものじゃないですよ、剣は」
「私は」
笑い含みに冗談に紛らせようとするマチルダの言葉を遮って、セリアが言葉をはさむ。その頬は紅潮しており、その青い目は今にも泣きだしそうに充血している。
「私だけではありません。実に多くの男たちが、あなたに勝つことを目標に稽古に励んでいます。あの天覧試合の優勝者はあなたではありませんから、目標にするべきは陛下なのかもしれません。でも、人には身の程というものがあります。相手が陛下では、畏れ多く手も届きません。でもあなたは」
じっと見守っていたクリウがマチルダの視界の端で動いた。マチルダは肩を動かしてそれを制する。確かにセリアの言っていることはマチルダにとって失礼だけれども、話は最後まで聞かなければわからないのだ。
「あなたは、シュルクーズ刀剣店のご子息ではありませんか。確かに今は大臣という尊い身分ではありますが、それでも、剣術大会に参加しようと思えばできるはずじゃないんですか? 同じ剣士として、後進のために胸を貸そうという発想はないのですか?」
「じゃあ、試合ってみたらいいんじゃないか?」
セリアはわかっている。自分の言いたいことが単なる剣士のわがままであることを。マチルダにとってはこの上もなく不躾で失礼な質問であることを。それでもそれを胸の内にとどめておけないほどに、不満がたまっていたのだろうとマチルダは受け止めた――だからことばを選んで説明しようと思ったのに、それをぶち壊す大きな声が武道場いっぱいに響いた。




