第1章(3)
勝手知ったる他人の家とはよく言ったもので、シェルリナが旅に出て半年、月に二度ずつ訪問していれば、リナフィーの家の間取りも自然に覚えてしまう。すいすいと体重がないような体運びで進むリナフィーの背中を追いかけて、マチルダはまた思い出す。
『私は出た身だから』
リナフィーが国事代行を引き受けて最初に問題になったのは、彼女がどこに住むかということだった。国王の代理を務めるからには王宮に入るものだと官吏は考えていたし、利便性を考えればそれが妥当だろうとマチルダさえも思っていた。ただマチルダは、いずれ国王が戻ってきたときにリナフィーが元の暮らしに戻れるだろうかと心配もしていた。
市井の人となって約一五年、リナフィーは夫と二人で自分の暮らしを作ってきた。剣術道場を開き、弟子を受け入れ、育ててきた。国の大事とはいえ、前国王の妹――現国王の叔母に当たる人だから、ド=シェトラの姓を持つからと言って、すべてを彼女に押し付けることはできない。案の定リナフィーは王宮に入ることを拒み、官吏たちは激しく困惑した。
彼らが思い出したのは、先代国王のことだった。先代国王には放浪癖のようなものがあり、時折誰にも行先を告げずにふらりといなくなることがあった。それでもせいぜい五日もすれば戻ってきたので特に混乱もなく、どこに行ったのか誰も詮索したりはしなかった。しかし八年前――シェルリナが十五歳のとき、先代は二八日間も続けて不在にしたことがあった。ちょうど次年度の都市計画の決裁が必要だった時期で、入札予定日は近づいてくるし国王は見つからないしで、当時の行政庁長官たちはもちろん採用されたばかりの官吏どころか女房衆に至るまでが国王を探して国中を彷徨うという事態になった。手を尽くして探してもその行方は杳として知れず、世界のすべてを識るという『人類の女王』に頼るべきだという意見も出た。何の手がかりもないまま入札日を翌日に控え、一睡もできないまま朝を迎えた官僚たちがしずしずとシェルリナの部屋に赴いたとき、ふらりと先代が戻ってきた。聞けば亡き王妃が夢枕に立ったとかで、ブラム王家の墓に花を手向けに行っていたらしい――長官たちは文字通りその場に膝をついてくず折れ、中には泣き出したものさえいたと言う。
『だいじょうぶ、わたしは必ず家にいるから』
官吏たちの怯えに近い困惑を受け止めて、リナフィーは苦笑した。彼らの目から見れば、品行方正で国王としてこれ以上ないほど安心できる人材だったはずのシェルリナさえある日突然旅に出ると言い出したのだから、先行きが不安になるのは当然だろう。常に目の届くところにいてもらいたいという気持ちは、経緯を聞けばマチルダにもわかる。
国名を姓に持つものが署名をしたときに初めてそれは効力を発揮する――学校で国の仕組みについて学ぶとき、当たり前に教えられることだ。マチルダはそれが大切なことだとはちっとも思わなかったし、官吏たちもそれは同じだった。なぜわざわざ紙媒体で決裁書を作成するのだろうという疑問はあったにしても、そういうものだからと言われればそれ以上は追求しようとしなかった。
だから二八年前、当時の官僚たちは狼狽えたのだそうだ。都市計画の入札日はすでに告示してある。業者たちはその詳細を尋ねようと連絡を寄越す。シェトラの人は直截に用件だけを聞くことはしないから、世間話をしておもむろに要件に入る。たとえば街路樹は何にする予定ですかと尋ねられたとしよう。議論に議論を重ねて選んだものだから、もちろん覚えている――はずなのに、思い出せない。わかっているのに、言葉にならない。あわてて書類を探しても絶対に見つけられない。ならばとあらかじめ紙に書いて用意しておいても必ず紛失してしまう。電子情報でやりとりしようとすると、おおもとの情報が壊れてしまう――要するに、どんな努力をしても未決裁の都市計画は執行することができなかったのだ。
悪夢の二八日間を経て、官僚たちは思い出した。王家に生まれた女性は嫁いでも姓を変えることはない。王家と血縁関係のない夫がド=シェトラを名乗ることはありえないから王家に生まれた女性を妻とすると子は望めない――意味不明な慣習だと思っていたことの意味を、ふと理解する。
国名を姓に持つこと――国に関するすべてを決裁するということの重みを。
『家で仕事ができるようにしてもらいたいの』
顔面蒼白になった古参の官吏たちの顔をまっすぐに見て、リナフィーは続けた。なるほどと手を叩くマチルダとは対照的に、古参の官吏たちは一様に眉をひそめていた。大丈夫部屋数はあるからとリナフィーが請け負うのを、困ったように見つめていた。
「滑るから気を付けて」
リナフィーが居間の扉を開けると、冷たい風が吹き込んできた。開け放たれた扉の向こうに、白い箱状の建物が見える。武道館だ。普段は二つの建物をつなぐ飛び石が見えるのだが、今日はさすがに見えない。ただ、狭い通り道ができているのだけがわかる。
官吏たちが困った顔をしたのには、もちろん理由があった。どんなに部屋数があると言っても、リナフィーの現住居は所詮一般家屋である。どんなに精選してもそれなりの量がある事務機器を運び込める空間がすぐに空けられるとは思えない。しかも扱うものの中には当然機密事項が含まれる。住み込みの弟子がいるような状況でそれらを果たして運び込んで良いものか――
「おはようございます」
一枚板に鋼を組み合わせて作られた重い武道館の扉を開けると、元気な挨拶が飛んできた。暗いところから明るいところへ出たばかりの目が、高いところに窓が切られた稽古場の暗さに慣れずに世界を白く切り取る。それでもおはようございますと挨拶を返してから、マチルダはようやく目を開ける。
稽古場の扉のすぐわきに、体格の良い男が一人立っている。質素な武道着をごくあっさりと着こなして、背筋をぴんと伸ばして立っている。鍛え上げられた鋼のような体躯に太い首、日に焼けて赤みを帯びた髪を短く刈り込み、太い眉の下の細い目で微笑んでいる彼の名を、クリウと言う。クリウ=ローヤー――この剣術道場の主であり、リナフィーの夫に当たる男性である。
『では、道場でいかがですか?』
困惑のさなかにあった官吏たちを救ったのは、ほかならぬこのクリウであった。武道館の奥には武具置き場として設計されたものの今はほとんど使われていない部屋があること、自分は武道館が開いている限りずっとそこにいることなどを説明し、そこをリナフィーの執務室にすることを提案した。リナフィーが国事代行をすればそれだけで彼にも負担がかかるのに、まるで気にする様子はなかった。ただ、それが一番良いならそれでいいのではと、ごくあたりまえに請け負ってくれた。そして今日も、その言葉通り、道場入口にその鍛えた体躯で鎮座してくれている。
「今日は、朝早くからありがとうございます」
年齢はリナフィーとそう変わらないはずだから四十の半ばほどだろうか――目上のはずなのに、いつも礼節を持ってマチルダを遇してくれる。クリウを見るたびに、マチルダは、剣術道場で鍛えるのは腕ばかりじゃないんだぞと父がよく言っていたことを思い出す。
「こちらこそ。交流試合の日にお騒がせをして申し訳ありません」
ローヤー剣術道場は常ににぎわっている。今日のように雪が積もった朝でさえ、周囲の雪かきを済ませた弟子たちがそれぞれに汗を流している。寒い冬の朝だから、上気した顔から湯気が立ち上っているように見える。マチルダはそれを、まぶしいものでも見るようにして目を細めて見守る。
マチルダは研究施設で剣を学んだ。剣術教師になりたいという幼馴染になんとなくつきあっての選択だった。父は剣術道場に行くことを勧めてくれたのだが、幼馴染や研究施設でできた友人たちと遊ぶのが楽しくて、結局通わずに済ませてしまった――そもそも剣の国と呼ばれるシェトラでは、剣技は学校での必修科目となっている。当然そこで教えるための技術や理論について研究する場が必要となる。それが研究施設だった。もちろん公設の施設だから教授は自分の研究に忙しく、片手間程度でしか剣の相手はしてくれない。だからマチルダは実は、とりたてて誰かに剣を学んだことはない。ただ毎日、幼馴染や友人たちと剣を合わせていただけである。
商売敵の手先。
リナフィーの声が脳裏に蘇って、マチルダは苦笑する。交流試合を申し込まれたので、決裁日を変えられないだろうかとリナフィーが連絡を寄越したのは、ずいぶん前だった。マチルダはリナフィーは善意で国事行為の代行をしてくれていると思っている。だからずいぶんと骨を折ったのだが、議会や各庁など、あらゆる関係部署がすべて決裁日に向けて予定を組んでいるので、動かすことはできなかった。それで早朝、弟子たちがまだ食事をしているような時間に訪れ、書類決裁を依頼することになった。
研究施設で剣を学んだマチルダは、正直、交流試合の大切さはよくわからない。けれどこうして朝早くから武道場に顔を出し、周辺の除雪を済ませてから練習に励む若者を見ていると、少し胸が熱くなる。
「マチルダ?」
足を止めていたマチルダに気付いたリナフィーが振り向いて声を掛ける。その声に我に返ったマチルダは、すいませんと小さく詫びてリナフィーに向けて一歩を踏み出す。その先に、模造剣がすっと差し出された。




