第1章(2)
マチルダはリナレアを東西に横切る東西線という道を歩いていた。通りごとに愛称はあるのだが、機能美を好むシェトラの人々は結局東西線というわかりやすい名称を使用している。西にそびえる広大な王城シュリンクス城から東に広がる産業団地へ続く道幅の広い道路で、街路樹はハラナ、石畳の色は赤褐色である。
マチルダが住まう王城から産業団地までは、順当に歩けば半日はかかる。ただ、王城には不思議な抜け道がいくつもあって、その一つを通れば水が湯に変わるほどの時間で町の中心部にある公所の一室に行くことができる。その抜け道を使い町に出て、マチルダは東へと歩いていく。
産業団地には、剣の国の二つ名を持つシェトラの主産業である製鉄業、製鋼業、そして剣匠の店が立ち並んでいる。剣匠は一人一人の体格や腕の長さ、利き腕に合わせた剣を見立てて打ち上げる。シェトラでは十五の祝いに一振りの剣を両親が子どもに贈る習慣があり、有名な剣匠ともなれば早くから予約が必要になる。一方で、安全面の配慮や音や光などの問題などから、これらが住宅地から離れた郊外に追いやられているのも事実である。
「さむっ」
川から吹き付ける風に首を縮こまらせ、マチルダは襟巻を鼻先まで引き上げた。
目の前には、産業団地の建物がどっしりとそびえている。朝日の中に眠るそれらの建物群に口角を上げ、マチルダは足を止める。東西線を右に曲がって住宅街に入り、看板を辿って目的地へたどり着く。
『ローヤー剣術道場』
花の季節にはさぞかし美しいだろうと思わせる芝生の導入路のそばに、交差した剣を意匠化した看板が置かれている。すっかり除雪の終わった濡れた石畳を歩いていくと、並んで建つ石造りの建物が二つ見えた。一つは明かり取りの窓が大きく張り出した石造り二階建てのごくあたりまえのシェトラの住居で、もう一つは窓の少ない箱型の平屋建ての建物である。剣術道場という看板を見れば、それが武道館であることはすぐに推測できる。
「おはようございます」
空がすっかり青く明るくなったのを確かめて、マチルダは住居の呼び鈴を鳴らした。ずり落ちてきた襟巻の先端を後ろに放り投げている間に、ばたばたと足音が聞こえてくる。まだ体運びが十分ではないその足音から察するに、住み込みの弟子だろうか。顔を出したのはまだ若い、そばかすの浮いた十代半ばの丸顔の少年だった。
「おはよう……」
口の端に食べかすをくっつけたまま、少年はしばらくぽかんとマチルダを見る。
嫌な反応だ、とマチルダは襟巻の中で唇をひん曲げた。
「ようこそ、ローヤー剣術館へ。何か御用?」
少年は顔いっぱいに微笑んで、これ以上ないほどの歓迎の気持ちを伝えてくれる。右手が髪を撫でつけていることに本人は気付いているのだろうか。口の端の食べかすを落とす方が先ではないだろうかとマチルダは思う。
「リナフィー様に御用があってうかがいました」
それでも落ち着いた声で要件を伝えると、少年はさらにいっそう嬉しそうに目を細めた。
「なるほど。リナフィー師範は女性ながらに素晴らしい剣士だものね。女性が剣の道を目指すなら、リナフィ―師範に弟子入りするのが一番だ。君は見る目があるね」
「ないない」
今にも手を取りそうな少年を止めたのは、玄関に現れた小柄な女性だった。年は四十をいくつも過ぎているはずだし、顔にはそれ相応の年輪が刻まれているのだが、すらりと伸びた背筋や細くしなやかな身体からは、年齢よりも若いような印象を受ける。関節の太くなった指のそろう小さな手をひらひらと振って、彼女は振り向いた少年を見上げた。
「その人がまっとうに鍛錬を続けているのなら、おそらくわたしよりも強いんじゃないかしら? ね、マチルダ?」
「リナフィー師範」
リナフィーが一音一音区切って発音したマチルダの名を聞き流して、少年はお知り合いでしたかと肩を落とす。知り合いも何も、とリナフィーは冷たい視線をマチルダに注ぐ。
「あなたも名前ぐらいは聞いたことがあるでしょう? 五年前の天覧剣術大会の準優勝者、マチルダ=シュルクーズ。研究施設の鍛錬だけでシェルリナと渡り合ったせいでその年の入門者を激減させた、商売敵の手先」
「え? あ? ええ?」
いやあの、とマチルダが口の中で並べた言い訳は、少年の戸惑いの声に掻き消された。少年はリナフィーとマチルダの顔を順番に見比べてから、リナフィーに向き直る。
「冗談でしょう、師範。それは俺もリナレアに住んでるから、伝説のシュルクーズ剣具店の息子さんの活躍は知っていますけど、あれはずいぶん前の話だし、それに」
マチルダさんは名前とは違って男ですよ――マチルダをちらりと見て、困ったように少年が言う。瞬間、リナフィーがぷっと吹き出した。マチルダは襟巻の中でこっそりため息をついて、リナフィーの笑いがおさまるのを待つ。
「相手の強さを推し測るのも技量の一つよ。実戦からは遠ざかったけれど、今もしっかり鍛えているのは見ればわかるでしょう? かわいい顔して侮れないんだから」
「これでも男性なので、できれば『かわいい』はやめてください……」
盛大なため息とともに足元を見てから、マチルダは顔を上げる。壁にもたれたままのリナフィーだけを見ようとしても、目の前の少年の驚愕に満ちた顔は視界に入ってくる。
「この顔で? この声で? ……この小ささで?」
確認しますかと半ば言いかけてたマチルダは、続く少年の言葉に目を瞠る。
「俺よりも六つも上……?」
嘘だぁとこぼす少年を止めもせず腹を抱えてただ笑うリナフィーを見て、マチルダは主が今ここにいないことを実感した。
始まりは、金髪の少女だった。
先端がくりくりと丸まった癖のある髪の、大きな碧の目を持つ少女だった。年齢的には女児と呼ぶのがふさわしいかもしれない。四歳ばかりの、かわいらしい女の子だった。
三か月続いた曇り空のあと、シェトラに訪れたのは漆黒の闇だった。わずかな光をもとに生活を維持していた光触炉もさすがに機能を停止し、人々は日々の暮らしをつなぐことに疲れ切っていた。昼夜の温度の差が激しい室内に川で汲んできた水を貯め、煮炊きのたびに火を使い、汚れた衣類を洗うためにまた川に足を向ける日々。日に日に減っていく食料の残量を数えて荒む心を慰めたのは、何より国王だった。三年前に即位したばかりの若い国王は、ようやく掬い上げた頼りになる官僚とともに善後策を検討する一方で東奔西走して国民を慰撫し、日に日にやつれて行った。目は落ち窪み頬はこけ、髪も肌も艶を喪ってあからさまに弱っていく国王にマチルダだけでなく官吏たちも理を説いて休ませようとしたが、彼は頑として受け入れなかった。
――眠れないんです。
ほんのわずか苦しそうに顔を歪め、しかし微笑んで国王はマチルダだけにそうこぼした。
いつもの、無理矢理ひねり出した笑みだった。
そのときのことを思うと、マチルダは今でも胸が苦しくなる。
マチルダは剣術大会で国王と出会った。出会って、その人柄に触れ、国王に即位するということが現実にはどういうことであるかどうかを学んだ。マチルダより三歳だけ年長の彼が背負ったものを思い、どうしても力になりたくて、王の補佐官である大臣になることを望んだ。
なのに、マチルダは国王を眠らせてやることができなかった。
眠れないと真実を伝えてくれるようになっただけ良いと思わなければならない。本音がこぼせるようになって少し楽になったようだと先代は国王を見て確かに言っていた。でもそれでは足りないとマチルダは思う。官吏さえも国民として遇しようとする国王に届く言葉を見つけて、少しで良いから寝かせてやりたかった。
国王が金髪の少女を連れてきたのは、深夜だった。
少女は国王の腕の中で寝息を立てていた。漆黒の闇ばかりの日々で失われた時間の感覚を補うため、二人で時計を眺めた。安心しきった顔で眠る少女に注がれる国王の視線は優しく、隠し子ですかとマチルダはひとしきり国王を構った。
――果実をくれたんです。
国王ははにかんだ笑みを浮かべた。
――喉が渇いたと言ったらもらったんだけど、おじさんのほうが欲しそうだからあげるね、って。
おじさんと言われる年齢ではないはずなんですけどねと国王は心底困ったように――微笑む。あからさまに老けましたよとマチルダは言って、再度国王に寝るように促した。はい、と国王はいつものように素直に答えて、少女を寝かせる用意の整った客室に向かった。
特に用件があったわけではないのだけれどなんとなく国王を待っていたマチルダは、あまりに時間が経つのでそっと客室を覗いてみた。国王は寝台の隣の椅子で眠っていた。差し出された手の指には、白く小さな指が絡んでいる。二人の間にどういうやり取りがあったのか想像するのは容易で、マチルダは自然に微笑んだ。その後も少女は国王に寝かしつけをせがみ、国王は夜寝るようになって日に日に回復していった。懸案だった闇もついには少女が払って、国王はその能力を前に少女の旅を助けたいと考えるようになった。
疲弊したままの国を放って、得体のしれない少女を助けたい――国王の望みは、客観的に見ればそういうものだった。昼夜の別のある当たり前の生活が今日あるとしても、明日も続くかはわからない。そういう体験をシェトラの人々はしてきた。ともすれば自暴自棄になりそうになる日々をかろうじて支えた国王と――ついでに、奇跡の力を持つ少女に去られたら困ると、誰もが思った。
ところがすでに少女は興味をよそに移していた。マチルダには見えないけれども、少女の袖にある水晶玉にはどうやら少女の行くべき道が映っているらしい。それはかつて国王の手で養育した隣国の王で、しかも隣国もシェトラ同様異変に悩まされていると聞けば、少女をこのままシェトラにとどめるわけにもいかない。事情を鑑みれば少女の旅を助けるのに国王の代わりを務められるものもいない。
悩む国王を前に、マチルダはただ無力だった。後のことは任せてください大丈夫ですと出発を促したものの、シェトラ三億の民の明日を一人で担う不安は大きい。ただ民意には、不思議な能力を持つあの子ならば異変に覆われた隣国を救えるのではないかという希望が息づいていた。少女と丁寧に町を歩き、確信を持ったシェルリナが国民に信を問うべく腹を括ったときに――リナフィーが現れた。
リナフィーは先代の妹で、国王の叔母に当たる。嫁してのちはごくあたりまえの一般市民として暮らしていた。ただ、王家に生まれたものとして、大事のときには何をするべきか一通り教育されてきた。先代は旅に出たきり戻ってこないけれども、シェトラ王家はしっかりとシェトラを守ると民に伝えてきなさいとリナフィーは檄を飛ばし、マチルダとともに国王を見送った。
そして現在がある。




