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終章

 王宮に明かりが灯ったのを確かめて、ティアナは台所に駆け降りた。

 空調が効いているとはいっても、冬の夜中は冷える。部屋に一度戻って毛糸の上着をひっかけて台所に着くと、そこにはすでに明かりがついていた。夜更けだからか、ぼそぼそと話す声は低い。

「ティアナ! やっと来た!」

 ソワンが笑んでティアナを手招きする。

 それほど遅れたつもりはなかったが、鍋はほっそりと湯気を立てはじめていた。一国の大臣にあたため直しただけの食事で良いのかしらと首をかしげる人がいて、御酒をお持ちした方が良いのじゃないのと気を回す人がいる。深夜をとおに過ぎているというのに、誰の顔も晴れやかだった。結局一品だけ増やすことにして――はたと気づく。

 どこに行けばいい?

 食事を作って待っていますとティアナはマチルダを送り出した。マチルダはそれに微笑み返してくれた。昼前にいなくなったポールはおそらく昼食すら食べていないから、とにかく食事を用意することは、たとえ食べてもらえなかったとしても、間違いではないと思う。

「王宮にお持ちする?」

「官邸のほうがいいんじゃない?」

「距離的には大差ないんだからいっそこちらにいらしていただいたら?」

 起き出して活動している女房衆の数は十三、それぞれが首を傾げて考えて、結局、どちらに転んでも良いように準備することになった。女房宿舎の客間に食卓と椅子を運んで拭き清め、配膳箱を用意して、役割分担を済ませる。

 王宮にはティアナが行くことになった。

 ソワンが寒いから外に出るのは嫌なのよねと笑って送り出してくれた。もちろんそんなの本心ではないことは、ティアナもよく知っている。ありがとうございますと言って月明かりの道を白い息を吐きながら走る。長くのびた影が無言でついてくる。途中、出てきたよと教えてくれる人がいた。その親切な老爺が生きているかはもうどうでも良くて、ありがとうと足を止めて礼を述べてまた駆け出す。

「あら」

 王宮の前庭の豪奢な門に差しかかったところで、遠くから歩いてくる人影が見えた。向こうもティアナを見つけて、大きく手を振ってくれる。

 どくん、と心臓が跳ねた。

 それは――ポールの声だった。

「ポールさま……」

 人影の数は全部で七人――七人だ。マチルダと、その友人四人と、中年女性と、もう一人。失礼を承知で指さし数えて、三度目で涙がこぼれる。

 ポールが帰ってきた。

 背が高いのはマチルダの友人たちで、細いのが中年女性だ。マチルダとポールは身長も体格も似通っているから、遠目にはどちらかはわからない。でもそれが二つ見えることに、ティアナは安堵する。

「こんばんは。……寒くないですか?」

 ようやく顔が見える距離に七人が近づいてきた。少し疲れた様子のポールの顔を見つけて、ティアナは大きく息を吐く。マチルダの後ろ、がっちりとした体格の男性がさっとティアナから目を逸らした。休日でも正装というかっちりした性格の人から見たら、夜着に上着をひっかけただけのティアナは――

 夜着?

 だいじょうぶですと言いかけて、ティアナは自分の服を見た。女房衆としてリナレアに出てくるときに下着から普段着まで新調してもらったのに、夜着だけは着なれたものを実家から持ち込んでいた。ティアナお気に入りの小鳥柄のぽちぽちと染め出された一揃い。洗いすぎて毛玉が浮いたそれは、たとえ新品であっても、大臣その他の目に触れさせられるシロモノではない。

「ええとあの。ハイ。ダイジョブです」

 慌てて上着の襟を掻き合わせても、下袴では小鳥がぴよぴよ上機嫌に歌っている。

「お食事をご用意したのですが――どちらでお召し上がりますか?」

 それでも用件を切り出した自分をほめてやりたいとティアナは思った。赤くなって俯いて逃げ出すのは簡単だけど、女房衆として社会人として責任は果たせる人になりたい。

「食事! ああ、配膳箱の娘か!」

 マチルダの後ろを歩いていた、背の高い彫像のような美丈夫が上機嫌に手を叩いた。何があったのか、その衣服はかなり溶けている。切れたり撚れたりほつれたりならわかるけれども、衣服がまるで襤褸のように溶けているというのはどういうことだろう?

「こんな夜更けにありがとうございます」

 マチルダの腰には、剣があった。遠目にあれはなんだろうと思って見ていたものの正体を知って、ティアナは今さらながらにマチルダが男性だったという事実に思い至る。あんな重いものを提げても疲れは見せず、あいかわず世界中の愛らしさを集めたような顔で頬にえくぼをへこませて、マチルダは首をかしげる。

「食事は、女房宿舎で用意したものですよね」

「はい」

「女房衆のみなさんは、何人ほど起きていらっしゃるのでしょう?」

「ええと、十三――あたしも入れて十四です」

「そうですか。ねえポール」

 マチルダはポールを呼ぶ。自分の足で歩いているものの、ポールの顔には疲れが濃かった。何? と応じて横顔を見るポールに、マチルダは尋ねる。

「女房宿舎は男子禁制だけど、起きているのは十四人なんだってさ。官邸に往復していただくには申し訳ないよね」

「そうねえ。……まあ、目立たないようにすればいいんじゃない?」

「女房宿舎に入れるのか?」

 マチルダの後ろの眠そうにしていた男性が反応する。ぴくんと身体を跳ねさせたのに、瞼がそれでも落ちたままなのがおもしろい。

「でも長居はできないわよ? いいの?」

「ヤだなあポール。オレたちをなんだと思ってんの?」

 髪を一つにまとめたすらりとした男性が唇を尖らせる。ポールは少し考えてから、神妙な顔で命の恩人、と答えた。

 沈黙が落ちる。

 すらりとした男性が笑いのめそうとして絡んだことはティアナの目にも明らかなのに、ポールは大まじめだった。咄嗟に反応できなくなる男性陣の代わりに、中年女性が話を引き取る。

「そうねえ。確かにポールにとっては命の恩人ね」

「いやそんな」

 慌てて否定したのは正装の男性である。中年女性は彼を目線だけで制して、ポールの肩を叩いた。

「でもね、わたしたちはポールを助けたくて助けたんだから、それを恩に着ることはないのよ。わたしたちはね、おいしいご飯をポールと一緒に食べられるのが何よりうれしいの」

 寒いところでずっと待ってた甲斐があるのよと中年女性は慈愛に満ちた笑みを浮かべる。

 一瞬ぽかんとした後、ポールは小さくうなずいた。

 よし、と中年女性はポールと腕を組む。

「ようやく話がまとまったようです。お待たせしてすみません」

 マチルダがティアナの前に進み出た。

「女房宿舎にお邪魔してもいいですか? 冷えてしまったので、できればあたたかいものが食べたいです」

「はい! もちろんです!」

 飛び上がるようにして返事をし、ティアナはさっと踵を返す。走り出しかけてはたと気づいた。自分が用件を伝えに走ったら、案内する人がいないではないか。

「宿舎へは、わたしが連れて行くから大丈夫よ」

 ポールが笑う。ほんの数瞬迷ってから、ティアナはお願いしますと駆け出した。

 女房宿舎にポールが来る。戻ってくる。

 それを早く知らせてやりたかった。



 調和暦『憩い』三八三年紅の月十五日のこの騒動を国王が知ったのは、翌々日である。

 遠く旅の空にいる国王が珍しく官邸に電信を入れたのは、シェトラの標準時で昼を過ぎたばかりの時間だった。電信機が映し出す国王が投宿している宿は明かりが灯っている。あちらは夜のようだ。

『それで――その方はどうなったのですか?』

「その方?」

 国王シェルリナは細身で長身、目元涼やかで整った造作をしている。ログのように造りものじみた整い方ではない、いかにも人のよさそうな柔和な顔立ちを心配そうに歪ませて、電信機に身を乗り出している。

『ええと。その――死霊です』

「おれよりもポールよりも死霊の心配ですか?」

『いえ、そうではなく』

 マチルダが拗ねて見せると、シェルリナは慌てる。マチルダはくすりと笑った。

「わかっていますよ。死霊は――よくわかりません」

 マチルダは思い出す。

 激昂した死霊が次々と生み出す黒い霧にマチルダはログと立ち向かった。それまでとは違い、黒い霧は無差別に八方を攻撃するのではなく明確にマチルダを狙ってきた。それでも背中に生後三日から一緒に育ってきたログがいれば、マチルダは目の前の霧を祓うことに集中できた。ちなみにマチルダが来る前は、母がこうしてログと背中を合わせていてくれたのだという。

『マチルダ、行けるか?』

『うん。ログは?』

『マチルダが背中を守ってくれてるからな!』

 汲めども尽きぬ泉のように、次々と湧いてくる黒い霧の相手に剣先が下がったころだった。ふわりと空気が暖かくなって、マチルダは彼女が戻ったのに気づいた。ログによれば、あっち行けと言われて飛ばされてしまったらしい――母。ログがマチルダの名を呼ぶたびに、呼応してくれるのではないかと思っていた。

 マチルダとログの前に母が立つ。黒い霧はそのままに、母はまっすぐに死霊に向かって行った。黒い霧をものともせずに近づいてくる女性に、死霊は驚き身を竦ませる。

『母さん!』

 何の気負いもなくそう呼べたことに戸惑いながら、マチルダは続けた。

『その人と話をしたいんだ。できれば力になりたい』

 それは――シェルリナだったら言いそうなことだった。つるりと出てきてマチルダは我に返る。彼女のしたことが許されるとは思えないけれど、それでも何か救いを求めているのだとしたら、できることをしたい。

『何よ! なんなのよ!』

 死霊は叫ぶ。

『キライ! キライ! みんなキライ!』

 その手に母の手が触れた。優しく慈愛に満ちた巫女そのものの笑みで抱き取ろうとする母の頬を、死霊は平手打ちする。

『もういい! 帰る!』

 涙目でそう宣言して、死霊は唐突に――音もなく消え去った。

 黒い霧も――母も、ポールの兄も、忽然と姿を消した。後に残ったのは、黒い霧に触れられて朽ちた服と、荒らされて散らばった供物ばかりだった。

「ポールも目を覚まして。……それで後片付けをして、帰ってきました。死霊の身元も、なぜ私を狙っていたのかも、結局わからずじまいで」

 死霊というのはそういうものです――死霊使いの女房衆が訳知り顔で言っていたことをマチルダは思い出す。あちらにはあちらの理屈があるんでしょうけど、もう生きていないせいか、わたしたちとは違う理屈なんですよ。

『ご苦労様です』

 電信機の向こうで、シェルリナは深々と頭を下げる。何度言ってもやめないので、マチルダはあきらめて国王が頭を上げるのをただ待つ。

「医師の診察を受けましたが、ポールも友人も異常はありませんでした。ポールは一日だけ体調不良として休んでもらいましたが、今日から職務に復帰しています」

『その。……心の傷は、大丈夫ですか?』

「そちらもお医者の世話になりましたが、とりあえずは。実際どう思っているのかはわかりませんが、文献に乗っていない体験ができたから書き残さないとと、今、ポールは使命感に燃えています」

『ポールは読書家ですからねえ』

 シェルリナは目を細め、そして唇を噛む。

『私がいないばかりに、御迷惑をおかけしました』

「それはまあ、どうしてもおっしゃりたいならリナフィーさまに申し上げてください。リナフィーさまはただ私たちが通る『扉』を管理するためだけにいらしてくださったのです。食事が終わると朝稽古だとおっしゃってすぐにお帰りになりました。陛下がいらっしゃればと思ったのは、後にも先にもこの件だけです」

『はい』

 臣下のことばに耳を傾けて、神妙な顔でシェルリナはうなずく。リナフィー宅には個人の電信はないから、きっと後から丁寧な手紙を書くのだろう。異国の便箋に丁寧な文字で近況が綴られた手紙を読むのは、マチルダ自身も楽しみとしているものだ。

『お友達にも、私が心から感謝していたとお伝えください』

「はい」

 マチルダを通してシェルリナの人柄を知っていても、友人たちにとって国王は国王だ。その国王が頭を下げて礼を述べていたなどと伝えたら、ニースなどは畏れ多さに慄くだろう。ログはあっさり受け取るかもしれない。ティモシーとショーンはどうだろう? あの二人はどうも予測できない。

 二、三用件を伝えて様子を聞いて馬鹿話をして、マチルダは腰を浮かせる。

「電信をいただき、ありがとうございます。久しぶりにお顔を拝見できてとても安心しました。お元気そうで良かった」

『おかげさまで。……可能な限り早く戻ります』

「だいじょうぶですよ。今回のことで、陛下がいなくても大方のことはなんとかなるとわかりましたから」

 マチルダが軽口を叩くと、シェルリナは短く詰まる。

「でも――そうですね」

 マチルダは光の粒でできた国王に微笑みかけた。

「私がここで踏ん張っているのは、すべてあなたのためです。あなたがいつ戻るかはホント正直どうでもいいですけど、どうか、御無事で」

 机に手を置いて、鼻先がつくほどに頭を下げる。

「お体を大切に、御無理はなさらないで旅をお楽しみください」

 あの死霊はこの星の人ではないのかもしれないとティアナは言った。セシルが描いた写し取ったような似顔絵を見て、グレンヴィルもその可能性を肯定した。異変は去ったが、これまでにはなかった何かが起こっていることは肌で感じている。

 国王の旅は、その本質に迫るものだろう。そしてマチルダは、それを助けたい。

 シェルぅ、と甘ったるい声が聞こえた。シェルリナがわずかに横を見る。どうしましたフレアと優しい声で訊くと、マチルダだ! と弾んだ声が返ってきた。ほぼ同時、おそらくシェルリナの膝に乗ったのだろう、薔薇色の頬をした女児がマチルダの目の前に現れる。

『マチルダ! げんき?』

「元気ですよ。フレアも元気そうで何よりですね。もう寝る時間なんじゃないですか?」

 始まりは、この子だった。

 世界から昼が消えたあのとき、マチルダは国王の陰鬱で荒んだ目を初めて見た。それを止められなかった自分を責めた。ポールのように文献に当たることも考え付かず、異変に対して有効な策も思いつかず、擦り切れていくシェルリナを見送る日々――この子が来てすべてが変わった。

『うんとねえ、ねてたんだけど、やっぱりおはなしのつづきが気になっておきちゃったの』

「それは寝たふりというやつですか?」

『ちがうよ! だってシェル、でんしんきみつけてそわそわルンルンしてたんだもん。だからね、シェルがはやくでんしんにいけるようにって――ええと、きづかい?』

『フレア!』

 名を呼ばれて、女の子は顔を上げる。

「それは素敵な心遣いですね。おかげさまでマチルダはシェルリナさまとひさしぶりにゆっくり話すことができました。ありがとうございます」

『うん! シェルも良かったってかおしてるよ!』

 生まれたときからただ一人の王子として国を担う重責を背負ってきたひとを支えたくてマチルダは大臣になった。慌てた顔、戸惑った顔、困った顔、そして笑顔――人前では決して感情を顔に乗せなかった王子が表情豊かになるたびに、胸が温かくなった。それをするのは今はマチルダだけの役目ではなくなったけれども、こうしてシェルリナのためにできることはまだある。

「フレア。シェルリナさまをよろしくお願いします」

『うん! マチルダ、おやすみなさぁい!』

 にこにこと宣言した少女の姿が消える。乗っていた膝から降りたのだろう。慌てて後を追おうとする国王をからかって、マチルダは電信を切る。

 さて、仕事だ。頑張ろう――マチルダは窓から空を見上げた。

 遠くシェルリナにもつながっている青空を。


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