第4章(5)
力尽きたショーンが後ろに倒れ込んでニースが慌てて受け止めるとほぼ同時、マチルダの目の前に氷の壁ができあがった。突進してきた黒い影が壁の向こうに消える。ログを連れ戻すために力強く一歩を踏み出したマチルダは、氷の壁に触れそうになってたたらを踏む。薄氷とはまさにこのことで、おそらくティモシーが作ったであろう氷の壁は薄く脆く、触れただけで壊れそうな代物だった。
「氷のほかに何がある? 石? いや、あんな複雑なものすぐには作れないし……」
ティモシーを振り返ると、金色に変化していた瞳は青に戻っていた。元素魔術は、元素を視るという性質からなのか目の色が変わる。ショーンの真言魔術と違い、維持するためには魔力を必要としないらしい。
「マチルダ!」
ゆっくりと溶けはじめる壁を見ていたマチルダは、ショーンに足を引っ張られてその場に尻餅をついた。その頭があった場所を、黒い霧が通り過ぎていく。壁まで一直線に進んだ黒い霧は、そこから下がっていた吊るし飾りを一瞬で風化させた。それまできれいな花を模した布細工だったものが、見るも無残な黒い塊になって朽ちていく。
「どうしよう、ショーン! 物理的な防御壁では守れない!」
「うん。わかる」
おいショーンとニースが止める中、ショーンはふらふらと立ち上がった。マチルダの隣にゆらゆらと辿りつき、下がっていろとマチルダの横腹を蹴る。舞い落ちる塵に呆然としていたマチルダは、慌ててショーンを見上げ――止めた。
「無理だ、ショーン。膝が笑ってるぞ」
「膝が笑おうが誰が笑おうが、やるしかないだろう。どう考えたってこれに兄貴を触れさせるのはまずい」
ティモシーの作った氷の壁は、壁というより遮蔽物としての役目のほうが強いようだった。黒い霧は視覚があるのか、こちらが見えると攻撃してくる。薄く溶けて向こうが見えるような隙間からまたも入り込んだ黒い霧が、ショーンの頬をかすめて飛んでいく。
マチルダは振り返った。
ショーンの言うとおり、ポール少年にこの黒い霧が触れたらどうなるか、なんとなく想像がつく。電信機で必死に何かを調べているニースの後ろで、ポール少年は小さな体を張って妹を守ろうとしているからなおさらだ。
ゆらりと立ち上がり、マチルダは腰から剣を引き抜く。
「抜くのか。治癒師殿」
「ねえ。……傷を治すのじゃなくてさ、体力回復とかができる治癒術が使えればいいのに」
たたらを踏むショーンを左手で支え、マチルダは右手に握った剣の重さを確かめる。
真剣を構えるのは、半年ぶりになるだろうか。ショーンの言うとおり魔的なものに物理攻撃が聞くとは思えないけれども、それでも、手をつかねて見ているよりははるかにマシだろう。
マチルダはログを連れてこなければならない。
「マチルダ。その剣は、浄めてあるの?」
ティモシーが眉をひそめる。マチルダはそれに答えずただ笑む。
長い付き合いの友人たちを連れてくるときに、戦闘になることは予想していた。でも、その相手が物理攻撃が効かない死霊だとは考えなかった。ログが見せてくれた映像は、慰霊堂に落ちてくるポールしか映っていなかった。電子機器に死霊が映るはずもないのだから当然だが、慰霊堂であることを考えれば想定してしかるべきだったと悔やむ。まして女房衆からは、死霊が関わっているという情報も得ていたのだ。控えめに言っても考えが甘すぎた。ログもショーンもティモシーもニースも、巻き込んでしまった以上マチルダが身体を張らなければならない。
責任を取るべきなのは、マチルダだ。
マチルダは自分の治癒術を光として認識している。剣に治癒術を乗せれば、もしかしたら浄化効果がえられるかもしれない――賭けるしかない。
「莫迦! おまえは大臣だろうが! 立場を考えろ!」
ショーンの手が力なく肩を引く。マチルダはそれを払うように受け流す。
「やだなあ。ここにいるのはただのマチルダだよ。ショーンの友達、マチルダ=シュルクーズ」
分の悪い賭けだ。打って出るのはやはり氷の壁が完全に溶けてこちらがむき出しになってからが良いだろう――すぐ動けるように、マチルダは剣を正眼に構える。
機をうかがうマチルダの目に、ふわりと光が映った。
光はゆっくりと集まり、次第に人の形を取っていく。
身長はマチルダより少し高い。肩で髪を切りそろえたその人は、巫女服を着ていた。やわらかな頬の線、小作りの鼻梁とふっくらとした唇――見覚えがある気がするその顔に、マチルダはまばたきをする。じっと見つめるマチルダに気づいたように振り返ったその女性は、慈愛に満ちた笑みをマチルダに向けた。
ティモシーが息を呑む。ショーンが眉根を寄せる。
女性はマチルダが持つ剣に目を向けた。これ以上ないほど嬉しそうに口元をほころばせて、刀身に指を滑らせる。毎日手入れを欠かさない、父が鍛えた切れ味鋭いはずの真剣は、彼女の柔らかそうな皮膚を切り裂くことはなかった。代わりに、刀身に文様が光となって浮かび上がる。マチルダの記憶が正しければ、大司教級の神殿関係者の帯に刺繍された文様だ。
「あの……」
絶句するティモシーにうなずきかけて、女性はショーンの肩に手を置いた。両手を膝に置き、激しく肩を上下させていたショーンの顔を膝を折って覗き込む。大丈夫と問いかけるように目を覗き込むうちに、ショーンの呼吸が落ち着いた。血色を失っていた顔色ももとに戻り、汗も消えている。
最後に女性はティモシーの展開した氷の壁に手をのばした。細い指先がちょんと触れただけで、氷の壁がきらきらと光り出す。向こうが見えるほどの薄さの場所から、黒い霧が消滅していくのが見えた。
「神霊魔術……」
『マチルダさま!』
両手で電信機を抱えたままのニースが驚きとともにつぶやくのと、ポール少年がその女性の名を呼ぶのはほぼ同時だった。その場にいたマチルダ以外の三人が一斉にポール少年を振り返る。ポール少年は一瞬目を丸くしてから、振り向いた女性に笑いかけた。
『来てくれたんだ! ありがとう!』
「知り合い……?」
女性はポール少年に微笑み返してまた前を向く。身振りで全員にここにとどまるように指示して、氷の壁をすり抜けて行った。死霊やポール少年とは違い実在する人間にしか思えない存在感があるのに、あたりまえにすっと消えていった。
『知り合いというか、巫女さま。地震が起きたあの日に駆け付けてくれて、けがをしたたくさんの人を治してくれたんだ。本当にたくさんの人を助けてくれたんだけど……』
「死んでしまった」
言いよどんだポール少年の言葉をニースが補う。瞬間、ティモシーとショーンはマチルダを見た。マチルダはわずかに顔を向けて、知っていたよと答える。
「五年前――天覧試合の後、おれはそれなりに有名になったからね。母さんの身元を探していた人が遺髪を持って訪ねてきてくれた。手がかりはマチルダという名前と、産後すぐの産婦だったということだけなんだけどね。ふざけたことを言うな、あいつは生きてると父さんがけんもほろろに追い返してしまったから詳しいことはわからなかったけど」
そうか、母さんはレンサに来ていたのか――マチルダはひとりごちる。
「レンサで地震が起きたのはおれが生まれて三日目で、一緒に寝ていたはずの母さんがその日のうちにここに来るのはどう考えても無理があるんだけど……。でもあれはどう見ても母さんだったよねえ」
『うん』
「そっくり」
「生き写し」
「目元以外はまんまじゃん」
マチルダのぼやきにティモシーたちどころかポール少年も同意するので、マチルダは苦笑いするしかない。
「あれは神霊魔術だったから、マチルダのお母さんは神様に特に気に入られた巫女だったということでしょう。神霊魔術は天賦と違い、天啓を得た神官しか使うことができません。ただまあ――神の奇跡にしろ神霊魔術にしろ、産後三日の女性が使い続けて良いものではありません」
『そっか。マチルダさまはだから今も天賦が使えるんだね』
苦々しく解説するニースの説明をまじめに聞いていたポール少年が感心する。
『ここには一万人近い人がいるんだけど、天賦が使えるのはマチルダさまだけなんだ。たまにああして現れて、傷ついた人を治したり悪いものを祓ったりしてくれる。それは、神様が特別に選んだからなんだね』
「これは仮説なのですが」
ニースが指を立てる。
「お兄さん。先ほどの女性の姓名を知っていますか? 壁に彫られている名を」
『うん。マチルダ=ルーウェルト。何度も見たから覚えてるよ』
「やはりそうですか。先ほどお兄さんは、名前を彫られたことでここに括られている、縛られていると言いましたよね? マチルダの母は――ええと、あの女性の名は、マチルダ=シュルクーズと言うのです。ルーウェルトというのは聞いたことがありませんが」
「祖父母の姓――母さんの、結婚前の姓だね」
「やはり。彼女は神に巫女として召喚され、死後も巫女として奇跡を起こし続けているのです。だから彼女はここに滅多に現れないのです。なぜなら彼女は、マチルダ=シュルクーズだから」
仮説を語り終え、どうだとばかりに鼻の頭を膨らませたニースはショーンに肩に手を置かれてはっとする。気遣いは要らないよ、とマチルダは冷たい目線をニースに向けるティモシーに話しかけた。
「おれ――生まれて初めて、自分がマチルダで良かったと思ったかもしれない」
ティモシーは慎重に首をかしげる。マチルダは父の鍛えてくれた剣に目を落とす。
「だってさ、おれの名前がマチルダで、母さんと同じで、みんなが呼んでくれたから、母さんと会えたかもしれないってことだろう? 名前を呼ぶっていうのは、亡くなった人にとって重要なんですよね? ポール兄さん」
『うん。ぼくたちは身体がないから、気を抜くとどこまでが自分でどこまでが自分じゃないかわからなくなるんだ。でも名前を呼ばれると、自分がわかる』
ポールの兄は利発な子どもだったのだろう。マチルダの話の全部は理解できなくても、質問されたことにはきちんと応じてくれる。今さらながらに惜しいなと思った。そうやって唐突に絶たれた命がどれほどあったのだろう――そして母は、そのうちのいくつを掬い上げることができたのだろう。
物心ついたときにはすでに母はいなかった。それでもマチルダはここまで育った。今も生きていると信じている父には悪いが、マチルダは母が亡くなった経緯をおおまかでも知ることができて良かったと思った。母が最期にしたことを尊いと思えた。
そっか、とティモシーが微笑む。もしかして、とポール少年に尋ねた。
「死霊使いでもないオレたちがお兄さんとかマチルダのお母さんとかを見ることができるのも、名前を呼んだせい? ああでも、亡くなった人が括られている慰霊堂だから、名前を呼ぶだけでいいのかな」
『それは、あの人のチカラ』
ポール少年はわずかに妹を振り返る。
『この建物は、今、あの人のモノになってる。あの人が生者と話したいと思っているから、話せるんだとぼくは思う』
「そっか。じゃ、ありがとうぐらい言ったほうがいいのかもね」
ショーンが小さくマチルダを呼んだ。
母が浄化――だと思う。おそらく――の祝福を与えた光る氷の壁は、この寒さだというのにそろそろ溶けようとしていた。雨の日の窓のようにうっすらと見えるあちら側には黒い影はない。壁の向こうに行った母が何をしたのかはわからなくても、神霊魔術の使い手であることを知っていれば、だいたいの想像はつく。
ティモシーが杖を構える。
ショーンが肩を回す。
『あんたなんか嫌いだ! あっち行け!』
光の文様を宿す剣を見下ろしたマチルダの耳に、死霊の声が飛び込んできた。頭に直接響くポール少年の声とは違い、鼓膜が拾った音にマチルダはティモシーとショーンと顔を見合わせる。まさか「あんた」とはログではあるまいか。
光ともにさらさらと崩れていく氷の壁の向こうに、ログが見えた。剣にはマチルダのものと同じ神霊文字――どうやら母は手を打っていてくれたらしい。衣服に乱れ一つない完璧な彫像は、あらぬ方に向けて身体を捻っている。
「なんで吹き飛ばすんだ? あんた苦しいんだろう? 助けて貰ったらいいじゃないか」
『うるさい! うるさいうるさいうるさいうるさい!』
死霊が叫びながら衝撃波を飛ばす。ログは大剣で丁寧にそれを打ち砕く。防御壁を展開したショーンが、そんなんありかよと唸った。
『なんなのあんたら! なんなのよ!』
ショーンの声に反応したのか、それとも慰霊堂が支配下にあるせいで壁が消えたのを認識したのか、死霊は燃えるような碧の目でショーンを睨み付ける。飛んできた衝撃波を、マチルダはログを見習って剣で受け止め――消し去った。
『信じらんない!』
包装材を切るような手ごたえだった。できたねえとしみじみつぶやくティモシーに、うん、とマチルダは答える。俺の努力は何だったんだよとショーンがぼやいていると、死霊の声が降ってきた。
『あんたたち仲間じゃないの? なんでこの人を助けようと思わないの? 危ないって思わなかったの? 意味わかんない!』
「いや、自分で攻撃しておいて危ないって言うほうが意味不明だろう」
マチルダたちが口を開くより早くログが応じる。
「オレは信用されてるんだよ。でなきゃ危ない場所に行くのについてくるもんか」
『もうイヤ! あんたもおかしい! なんであいつら恨まないの!』
「オレがおまえを怒らせて、おまえがオレを攻撃する。……どこにあいつらが関わってくるんだ?」
『もうやだ! 意味わかんない!』
「オレも、意味がわからん」
死霊が呪詛のことばを吐くたびに、黒い霧が次々と現れた。自分に向けて突進してきた霧をログは一刀のもとに切り捨てる。ずっとああしてたのかなとティモシーが半ば呆れ声でぼやくと、ショーンがまさかと否定した。しばらくしてから、いや、あるかもしれんと付け加える。
「マチルダ、手を」
死霊の視界から隠すように両手を広げてポールを庇うニースが小さな声で呼ぶ。
「僕の力なんてほとんど役に立たないかもしれないけど、受け取ってくれますか?」
「ありがたいよ」
マチルダが後ろに動かした手をニースが取る。ニースは能力増幅に特化した魔術師である。手首が触れた固い指先から、マチルダの身体にぴりぴりとした何かが流れ込んでくる。
「行ってくる」
右手に剣を提げたまま、マチルダは死霊の正面――ログの隣に進み出た。マチルダの目の前に現れた黒い霧をログが確かな剣筋で切って捨てる。それが途切れるのを待って、マチルダは足元に剣を置いた。
「初めまして」
ログはマチルダと剣を見比べる。死霊を見ようという気はないようだ。
無防備な姿勢で対峙するマチルダを、死霊は眉を寄せて観察する。マチルダはにっこりと笑って見せる。
「マチルダ=シュルクーズと申します。友人のポール=エフィシャントを返していただきに参りました」
『なんで?!』
兄がつけたというカレンという名を用いた方が良いのかと一瞬思ったけれど、ここは事実だけを伝える。誠実に、慎重に――死霊は目を見開く。
『あれはあたしの身体よ! なんで身体ばっかりみんなに大事にされるの? 迎えに来てもらえるの? あたしと何が違うのよ! なんで誰もあたしを見てくれないの?』
「誰も助けてくれないって、今、助けようとしたマチルダの母さん吹っ飛ばしただろう」
絶叫に近い死霊の叫びをログがあっさり切り捨てた。またも身体を捻っているのは、その視線の先にマチルダの母が消えたということなのだろう。
マチルダはぽりぽりと頭を掻く。
「なぜ彼女だけが大事にされるかって、それは、彼女が真っ当に生きているからですよ」
マチルダは振り返る。ショーンとティモシー、ニースの後ろで目を覚まさない妹を両手を広げて守っている七歳の兄を。
「大事にされているってあなたは仰いますが、ポールは大事にされてなんかいなかったと思いますよ。六つでお母さんが死んで、家のことも何もしないお父さんと、生まれたばかりの弟を抱えて、学校に行って、家事をして、育児だってしていた。お父さんという人は妻を亡くした悲しみにばかり敏感で、彼女が髪を振り乱し家事に育児に奔走していてもねぎらいの言葉一つ掛けなかったそうです」
――俺の飯は?
ポールが大臣補佐になったと伝えたとき、その父は真っ先にポールにそう尋ねたのだという。おめでとうでも良かったねでもなく、ただ、自分の食事の心配をした。
だから上京を決意したのだと、ポールはマチルダに言っていた。
「そんな家庭環境で育っても、彼女の弟は上京する彼女を快く送り出してくれた。姉が自分のために払った犠牲の尊さを理解していた。なぜだかわかります? 彼女がただ真面目に、ひたすらに、自分のすべきことをしてきたからです」
――お兄ちゃん。
兄ポールは思い出す。
――わたし、大臣補佐になったの。リナレアに行くんだよ。
あのとき、妹は泣いていた。嬉しくて泣いていたのだとばかり思っていた。まさかそんなことがあったなんて知らなかった。
「あなたは彼女の身体には入れません。諦めて、彼女を解放してください」
『絶対、イヤ!』
ラルシェは叫ぶ。
『まじめにやればいいんでしょう! だったらそうするもの。あたしだって、やりかたを教えてもらえばちゃんとやれるんだから』
「無理無理」
ティモシーが毒づいたので、マチルダは驚いて振り返った。杖を肩に乗せて、ティモシーは大きなため息をつく。その横でショーンは腕を組んでうなずいているが、後ろにいるニースは電信機を両手で抱えたまま恐ろしいものを見るようにティモシーの横顔を見つめている。
「本気で救われたいと思ってるならさ、そのために自分が何ができるか考えるよね? 助けて助けてって言われたって、自分が溺れるかもしれないのに助けにいく莫迦はいないよ」
「そうか? 助けてと声を上げさえすれば、とりあえず助けようとはするぞ?」
ログが首をかしげる。
「うん。少なくとも、助けてと言われれば全身全霊で助けに行くお人よしを、おれは一人は知っているよ」
シェルリナを思い出して笑いをかみ殺すマチルダに、ショーンが呆れ声を投げる。
「おまえ、自国の国王を掴まえてお人よしってどうなの?」
「いや、事実は事実だからさ。あっちの言うこともこっちの言うこともわかるって悩んでる姿を見てると、なんか、イライラしない?」
『ムカツク!』
和やかな雰囲気を引き裂くように、死霊が叫んだ。放たれた衝撃波を、それぞれがそれぞれの方法で跳ね除ける。剣を置いたままのマチルダの分だけは、ログが引き受けてくれた。
『結局あんたたちがコイツを助けに来たのは、コイツが大臣だからでしょ? 国王に代わって冬至の祀りをしても成功するぐらいに有能だからじゃない。国で一番エラくて、しかも国に一人の治癒師だから、助けたいんでしょう!』
正直に言いなさいよ――またも衝撃波をほとばしらせて絶叫した死霊を、マチルダは呆然と見上げた。俯いて少し考えてから、己を指さす。
「そっか、あなたが探していたのはやっぱりおれだったんだ」
死霊が乱れた髪の中から鋭い視線をマチルダに向ける。
「名乗っても無反応だったからあなたが探しているマチルダって言うのは別の人かなと思ったんだけどね。母もここにいるみたいだし。でも――治癒師で大臣でマチルダといったら、おれしかいない」
初めまして大臣マチルダ=シュルクーズですともう一度名乗って恭しく膝を折ると、黒い霧がマチルダのほうへ飛んできた。咄嗟にログが反応しても間に合わない素早さで、マチルダも一歩横にずれてかわしたが少し間に合わなかった。耳の上の髪が朽ちて、粉々になって落ちる。
『あたし、あんたキライ』
死霊は燃えるような目でマチルダを睨む。
『なんで守ってもらえるの?』
ぎりぎりと、噛みしめた歯の間から搾り出すように死霊は呪詛を吐く。
『なんであんたみたいな恵まれた人がいるの? なんであんたばっかり守ってもらえるの? 国にただ一人の真の治癒者なんでしょ? 大臣なんでしょ? どっちかだけでいいじゃない。なんで一人占めするの?』
「恵まれてる? マチルダが?」
マチルダが答えるより早く口を開いたのはティモシーだった。顔を真っ赤にさせて眉を吊り上げて、完全に怒りの表情だ。
「生まれてすぐにお母さん無くして? 女みたいな顔で? 背も低くて、女の名前で、コイツがどれほど苦労したかあんた知って言ってんの? コイツが荒れたときにオレたちがどれほど心を痛めたか知ってるワケ? 国でただ一人の治癒者なんて、そんなの、天が勝手に与えたものじゃん。マチルダが望んだわけじゃない。マチルダが自力で手に入れたのは大臣の立場だけだ。それだって、オレとたった一つしか違わないのに、国を引き受けて必死に一生懸命やってるのに、あんたにその苦労わかるの?」
ティモシー、とショーンが肩を引くのを振り払ってティモシーは両足を踏ん張って死霊を睨み付ける。言い終わったときには肩が上下していた。それを守るように一歩踏み出して、俺も言っとこうかなとショーンが耳の後ろを掻く。
「なぜマチルダが守られるかって、マチルダが俺たちを守ってくれようとするからだよ。陛下がいなくて、たった一人で、それでも俺たちを巻き込まないように心を砕いてくれるからこそ、安易に頼ろうとしないでいてくれたからこそ、俺たちはマチルダを助けたいと思うんだよ。力になりたいと思うんだ」
ティモシーとショーンが進み出てきたからか、マチルダの目には死霊が少したじろいだように見えた。そこにひどく静かなニースの声が割って入る。
「僕はあなたが誤解するのは仕方がないと思います。僕の目から見ても、マチルダは恵まれています。容姿はともかく、学力も高いし剣術もそつなくこなす。あの体格で天覧試合で準優勝するとは、誰も予想しなかった。しかも国に一人の真の治癒師なのだとしたら、なんで神様はマチルダばかり贔屓するだろうと思っても仕方がないと思います」
マチルダはしんとニースを見つめる。死霊は訝るようにニースを見下ろす。
ニースはポールを振り返る。
「でも、人は人じゃないですか。自分はどこまで言っても自分にしかなれない。官吏の父に選良意識を持つように育てられ、人と比べてばかりの僕ですが、マチルダたちと一緒にいるときはそれを忘れられるんです。関係ないんです。人と自分を比べるよりも、自分の良いところを自分で評価してあげる方がきっといいと思いますよ」
『ムカツク』
その声は――それまでになく冷たかった。
マチルダは右手の指をぴくりと動かす。そこに剣がないことを確かめて、固唾をのむ。
『要するに、あたしが悪いって言いたいんでしょ、あんたらは』
どす黒い何かがもわもわと死霊の周辺に集まり始めた。それは瞬き一つの間に濃くなって、あっという間に死霊の姿をかき消す。
『努力しなかったあたしが悪い。他人を羨んだあたしが悪い。みんなみんな、あたしが悪いって!』
だってどうしようもなかったのに! 死霊は叫ぶ。
『誰も教えてくれなかったのに! 誰もわかってくれなかったのに! みんなみんな、あたしのせいなんでしょ!』
「他人に責任をなすりつけながら自分のせいだというのはどういう理屈だ?」
死霊は自分の言葉に興奮しているように見えた。黒い霧は死霊のいたところをぐるぐる回り、次第に加速してすでに目で追えなくなっている。ちらりと足元の剣を見て、マチルダは唇を尖らせた。
「助けて助けてって言う割には、助かろうとしているようには見えないんだよね。困ったことに」
「あんなに理想的な二の腕は見たことがなかったのでオレも説得を試みたんだが、まったく通じなかった」
ログの説得がどのようなものかちょっと想像してみて、マチルダは苦笑する。その鼻先を猛烈な勢いで黒い霧が吹きぬけていく。
ショーンが防御壁を展開する。その隣で、ティモシーがぎゅっと杖を握りしめて唇を噛んでいる。ティモシーもニースも、この状況では無力だ。祝福された剣を持つのは二人、状況を打破できる可能性のあるものが守りにいかないと、早晩ショーンの気力が尽きてしまう。
『どうしてあんたみたいのがいるのよ! 消えろ!』
死霊が黒い霧の中で叫んだ。爆発するように黒い霧がマチルダに突進してきて、間に入って撃ち落としたログの上着を溶かす。大丈夫かとログに問うと、一人じゃ無理だとすぐに答えがあった。
「これでも一国の大臣だから、お話し合いで解決したかったんだけどなあ」
頭をかきかきぼやいて、マチルダは剣を取る。ショーンの展開する防御壁へとじりじり移動する。
「ログ。背中は任せた」
「オレのもな」
「もちろん」
父が鍛え、母が浄化の付加効果を与えてくれた剣を構え、マチルダは低い声を出す。
「マチルダ=シュルクーズ。参ります」




