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第4章(4)

 長椅子でうとうとと微睡んでいたマチルダは、誰かに呼ばれたような気がして目を開けた。子どもを身ごもって四か月目、母にも姉にも聞いていたけれど眠くて眠くて仕方がない。ああそうだそろそろ彼が帰ってくるから晩御飯の支度をしなければと立ち上がると、玄関が開いて誰かがばたばたと上り込んできた。

「奥さん! 大変だよ」

 それは、隣家に住まう、彼と同じ年頃の小母さんだった。マチルダが彼と結婚してここに引っ越してからずっと、とても親切にしてくれる。ごみのまとめ方や掲示板の見方まで、神殿と勝手が違う日常のこまごましたことを丁寧に教えてくれるこの小母さんをマチルダは頼りにしていた。だからといって勝手に居間まで上り込まれるのは少々迷惑である。

「ああ――寝てたのかい。体調はどうだい? 順調かい?」

「はい。あの……」

 小母さんはずかずかと入り込んできて、マチルダの前に膝をつく。マチルダの右手を取ると、なぜか丁寧に撫でさすった。意味が分からず見下ろすマチルダを、奥さん、と固い声で呼ぶ。

「はい……」

 奥さん、と呼ばれるのはまだ慣れない。どこか気恥ずかしいような、自分のことではないような。それでもうなずくと、小母さんはようやくマチルダの目を見た。

「落ち着いて聞いとくれよ。……メドさんが危篤だ。病院に案内するから支度しな」

「え……? あの……。良人は今、鍛冶場に……」

「うちの宿六が野暮用で様子を見に行って、倒れているところを見つけたんだ。いつそうなったものか、発見が遅すぎてかなり危ない。身重の奥さんに伝えるのもなんだと思ったけど、医者が連れてくるようにと言ってたから、ある程度、覚悟をしてね」

 これは夢だとマチルダは思った。

 彼と出会ったのは、製鉄所の事故だった。溶鉱炉が爆発するという恐ろしい事故で、たくさんの人が亡くなった。店を開くにあたって仕入れの相談に来ていただけなのに、彼は率先して救助に当たった。自らもひどいやけどを負いながら熱い鉄板をどけて、マチルダたち神殿から傷を治すためにやってきた巫女たちのもとに息のある人たちを運び続けた。その男気に惚れたのは事実だけれども、もうすぐ子どもが生まれるのだからあまり無茶はしないでねと釘を刺していたのに。

「歩けるかい……?」

 はらはらと涙がこぼれた。雲の上を歩くような心地で手を取られて病院へ行く。今が夜なのか昼なのか、それすらおぼつかなかった。最悪の想像が頭の中を占拠していて、それを振り払うのに必死だった。

 彼はたくさんの管につながれていた。

 隣家の御主人の言うことには、工房は血の海だったそうだ。どういう経緯なのかは判然としないが、熱した剣の先が彼の喉笛に突き刺さっていた。幸いなことに剣先が止血栓の役割を果たしていたので出血は傷の割には少なかったが、それでも命に係わる量であるのは間違いがなく、しかも、熱した鉄のせいで患部が焼けただれているため縫合もできないのだと医者はマチルダに説明した。病院勤務の治癒師は別件で出払っており、彼女が戻るまで何とか保たせるために止血剤を点滴しているけれども、じわじわと出血は続いていて意識も戻らないうえ、敗血症の危険性もあるから、ある程度の覚悟はしてほしい。

 もっと違う話だったかもしれない。

 マチルダにわかったのは、彼はおそらくもう長くないということだった。

『だって、せっかく惚れた女と添ったんだから、せめて子どもが生まれるまでは二人を楽しみたいじゃないか』

 弟子入りしたいとやってくる青年を門前払いした理由を問うと、彼は頬を赤らめながら照れくさそうに答えた。大きな手がマチルダを抱き寄せた。広い胸が愛しくて安心した。

 付き添ってあげてくださいと医師が部屋を出ていく。話を聞いている間中ずっと右手を握ってくれていた小母さんは、あたしが付き添おうかと申し出てくれた。せめて一緒にいた方がいいだろう、実家はどこだい? ご両親を呼ぼうかと心配してくれるのを首を振って断って、隣人夫婦を見送る。

 涙があふれてきた。

 待ち望んだ子どもを得て、幸せな未来が待っているはずだった。

 こんなふうに唐突に断ち切られることがあるなんて、想像もしなかった。

 ――神のなさることに意味のないことなどありません。だいじょうぶ、あなたは前に進めます。

 救いを求めて神殿を訪れた人に、神官はそう言った。巫女であるマチルダにはその機会はなかったが、何度もその場には居合わせた。それが慰めにもならないことを、思い知る。

 ――神様。

 椅子を降り、マチルダはその場に跪く。

 もう、巫女ではないのに。

 たった一人のために願うなんて、許されないのに。

 ――彼を助けてください。

 神殿の戸を叩いたとき、マチルダは神を信じていなかった。ただ、女だけで独立して暮らす生活に興味があった。綿を育て糸を紡ぎ、薪を拾って風呂を沸かす暮らしをしてみたかった。もちろん神に祈ったけれども、それは暮らしの一部でしかなかった。

 ――どうかわたしに、もう一度だけ、奇跡の能力をください。

 血がにじむ包帯で覆われている彼の首に手を触れる。

 薪割りをしていた仲間の肉がえぐれた。その瞬間に神がマチルダに降りてきた。あたたかいものが体中に満ちて、腕が自然に怪我に触れる。イヤだなという感覚はなかった。ああこれで治ると思った。その、奇跡としか言いようのない経験を通して、マチルダは神を信じるようになった。

 ――お願いです、神様。わたしのすべてを捧げます。

 マチルダが仕えた光の女神は処女神だ。光があまねくすべてを照らすように、この世のすべてに等しい愛を注ぐことを教義とする。だから神の奇跡を授かる巫女はすべて誰のものにもなったことがない純潔の女である必要があった。誰にでも等しく愛を捧げられる存在でなければならなかった。

 たった一人の男を見つけたマチルダは、もう奇跡など使えないのに。

 マチルダは神の奇跡を願った。

 どのくらいそうして祈っていただろう。

不意にあたたかいものが体の中から湧き上がってきた。マチルダは彼の太い首に手をのばす。触れる前からそうとわかるほどに熱を持っている傷口にそっと手を置くと、何かが彼の傷口に吸い込まれていった。

「ここは……どこだ……?」

 瞬間、彼がそのつぶらな目を開いた。顔の作りだけでいえば強面なのに、彼の目は丸く愛らしい。その落差が好きだった。マチルダを見る優しい目が愛しかった。

「マチルダ。どうした……? 泣いてたんじゃないか? 何か嫌なことがあったのか?」

 起き上がった彼の首には傷がなかった。マチルダを引き寄せて、彼は自分が寝台に横になっていたことに気づく。さらに部屋を見回して病室であることを理解すると、彼は珍しく驚いた声を上げた。状況が把握できるとすぐにマチルダの顔を覗き込んで心配かけてすまないなと謝る彼の心がいとおしくて、マチルダは無言でその胸に飛び込んだ。

 それから半年。マチルダはかわいらしい男の子を産んだ。

 お産は重く、二晩かかった。まじまじと子どもの顔を見たのは、出産後一日を過ぎてからだった。母の助けを得て乳を含ませ、疲れ果てて眠ったところで、マチルダは声を聞いた。

 ――マチルダ=ルーウェルト。

 それは――結婚する前の名前だ。結婚して一年半、マチルダ=シュルクーズも悪くないと思えるまでになった。奥さんと呼ばれることもずいぶん慣れたのにと思って、はたと気づく。

 知らない声だ。

 マチルダは寝台の中で目を開ける。

「お迎えですか。女神さま」

 あのときマチルダは、自分のすべてと引き換えに彼の命を望んだ。神はそれに応えてくれた。子どもも無事に産むことができたのだから、マチルダは約束通りすべてを捧げなければならない。

 光にしか見えない何かが見えた。マチルダは眠る赤子を振り返って涙を拭う。枕元に出生届けがあった。どうかこの子をわたしだと思ってくださいと彼に伝えたくて、自分の名前を子どもに贈る。走り書きの文字が涙に滲んだ。離れたくないと叫ぶ未練を振り切って、子どもの上に出生届けを置く。

 マチルダは光に手をのばした。


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