第4章(3)
王宮の二階には、「扉の間」と呼ばれる部屋がある。
その名の通り壁一面に並ぶ大小様々の扉は、シェトラ各地の公所につながっている。扉を開けるとぽっかりと真っ暗な闇が開けていて、そこを百歩ほど歩くと公所に到着するのだ。公所が新しくできれば扉は増えるし、建替えや撤退のためになくなれば扉は消える。王族と、特に許されたものだけが通れる特別な扉である。
「考えてみたらさ」
暗闇を歩くマチルダの右から声がした。つないだ手をぎゅっと握りしめるのはティモシーである。
「百歩歩くと扉が開くって言うけど、ログの百歩とマチルダの百歩では距離が違うよね」
「お。そうだな」
ログはマチルダよりも頭一つ分ほど背が高い。もちろんその分足も長いから、歩幅はおのずと違ってくる。顔を引きつらせるマチルダの前方で、ログは能天気に手を打つ。
「こうも暗いと、考えなくていいことまで考えてしまいますね。……王宮へ行くときは夢中だったのに」
ニースの声はティモシーの少し後ろから聞こえた。ニースとティモシーは身長がほぼ変わらないから、歩幅が一緒なのかもしれない。ティモシーははぐれたら困るからとマチルダと手をつないでいるから、ニースは合わせているのかもしれない。
――お任せします。
申し訳ありませんとマチルダが頭を下げると、あっさりとグレンヴィルはうなずいた。スタンリーがこれで家に帰って母ちゃんのメシが食えるとすぐさま腰を浮かせた。拍子抜けしたマチルダに、グレンヴィルが微笑みかけた。
――私たちの内心についてはご心配いただくに及びません。官吏とはこういうものです。
目尻の皺を深くするグレンヴィルの隣では、フレデリクが苦笑気味にうなずいていた。どうしようもない罪悪感に棒立ちになるマチルダに、セシルが似顔絵を預ける。
――方法を選ぶのは大臣の仕事だ。私はそれに従うのに異存はない。早く行け。
スタンリーがさっと扉を開けた。挨拶のために外に待機していたログがひょいと顔を出す。オレの代わりに行ってくれるんだってな、ありがとなとスタンリーが飄々と挨拶をすると、ニースが差し出がましくて申し訳ありませんと謝るのが聞こえた。いいっていいってと手を振って、スタンリーが振り返る。どうにも動けないでいるマチルダに、大臣が行ってくれなきゃオレが帰れねえよとぼやいて手招きする。ごめんなさいと慌ててマチルダが駆けだすと、扉を通り抜け間際、無事帰ってこいよとそっと声を掛けてくれた。
小さな会議室の入口で方向転換して、マチルダは改めて頭を下げた。思いが届くように念じてじっと頭を下げて、ありがとうございますと踵を返した。
「王宮に行ったときとは事情が違うだろう。あのときは王族が一緒だった。王族が先頭を歩き、王族が扉を開けたんだ。その意味では、ティモシーの疑問はもっともだと思うぞ」
「え? 王族?」
暗闇でも落ち着いたショーンの声はログとティモシーの間あたりから聞こえる。頓狂な声を上げたログは立ち止まったらしく、すぐにショーンがうぉっと声を上げた。音から察するに、ログにぶつかったようだ。
「王族って――ええと、マチルダって王族になったのか?」
「は? ……ログ、この扉を開けたのは誰だ?」
「リナフィー師だろう?」
「リナフィー=ド=シェトラといったら先代国王の妹だろう。現国王の叔母にあたる人だから、こうして俺たちを送り出してくれたんだ」
「へえ……」
星空の下、リナフィーはマチルダたちと一緒に王宮に走ってくれた。一度通った道を折り返し、しんと静まり返った王宮の階段を駆け上がる。「扉の間」でリナフィーがレンサと声を張ると、二つの扁額がぼうっと光を帯びた。その一つのレンサ慰霊堂の「扉」を開けて、リナフィーはマチルダたちを送り出してくれた。
王族は、「扉」を通る許可を出すことができる――シェルリナが書物で見つけた事実である。旅に出るとき、シェルリナはマチルダを「扉の間」に案内した。リナレア河川管理事務所の扁額を示し、叔母の家に行くときにどうぞと使い方を説明してくれた。リナフィーにも念のため見つけた書物の該当箇所を書き写したものを渡して、不測の事態に備えてくれた。
たくさんの人が助けてくれた。いろいろなものを呑み込んでくれた。だから自分がここにいる意味を、マチルダは歩数とともに噛みしめる。
「九十五、九十六、九十七、九十八……」
マチルダの手をぎゅっと握ったまま、歩数を数えるティモシーの声が大きくなる。マチルダが顔を上げると、遠くにぼんやりと扉が見えた。あと二歩ではとても届かない――さてはログに距離を合わせたかと思った瞬間、扉は目の前にあった。
「うぉっ!」
ガツンと何かがぶつかる音がして顔を上げる。ショーンが頭ぶつけるから気をつけろと注意を促す。ログが先に言えよと文句を言うのをおまえがぶつかったからわかったんだよと応じて、ショーンの背中が遠ざかる。マチルダも念のため屈んだ方がいいかもとティモシーがにやにや言ってマチルダを押し出し、一気に視界が開ける。
そこは――慰霊堂だった。
二十年前に起きた大地震の犠牲になった人々を悼むために、カレヴからの救援隊が最後に建てて行った建物。球の下三分の一をすぱんと切り落としたような柔らかな形に石がくみ上げられ、中央にはそれを支えるように二本一組になった石の柱が立ち並んでいる。天井には女神を模した色硝子がはめ込まれ、月明かりに色をつけて白い絨毯に投げかけている。
マチルダの母には墓がない。父がまだ生きていると信じているからだ。マチルダが生まれたときには父方の祖父母はすでに亡く、母方の祖父母は今も健在だから、マチルダは墓参りやそれに類する行事に加わったことがない。それでも、この静謐で落ち着いた空間がただ慰霊のためだけに作られたということは、空気に触れただけですとんと胸に落ちた。
「マチルダ。邪魔」
立ち尽くすマチルダの足をとんとんと叩いて、ティモシーが下から顔を出す。
王宮からの「扉」は建設時に作られるものではない。建物の完成と当時に突然開通するものだ。だから「扉」は公所の不思議なところにつながっている――東部河川事務所の女性用手洗いの扉を常用しているマチルダも、ティモシーが出てきた扉を見て驚いた。祭壇の下、蝋燭や花瓶やそういったこまごまとしたものをしまっておくための場所に王宮からの「扉」は通じていたらしい。両手で扉の枠をを押さえてティモシーが出てくると、ニースがあたりをうかがってから続いた。
「ああ――確かに慰霊堂だ」
周囲を見回して、ティモシーが誰にともなくこぼす。
「なんか、背筋がのびるね。オレは信心深いほうではないけど、うん。祈りたくなる」
祭壇にはたくさんの花が供えられていた。花だけではない。果物、菓子、酒、文房具や玩具など実にさまざまなものが祭壇に並んでいる。祭壇の向こうの壁には衣類や手紙、写真もある。
「ここに、ポールの名前があるのか」
ぐるりと首を巡らせて、ログが小さな声でつぶやく。地声が大きく遠慮のないはずのログが声をひそめるほどに、この空間は気高い何かにあふれている。
「正確には、ポールの兄の名ですよ。ええと……」
マチルダは電信機を探した。慰霊堂に電信機というのはなかなか不思議な組み合わせだと思う。慰霊堂には管理者はおかれておらず、レンサの人々の善意に頼っている。年に一度催される慰霊祭の仕切りは神官で、公所というよりも神殿の管轄下だと思っていたので、電信機があり「扉」が通じていたのは不思議だった。映像でみた景色と目の前の景色を比べて、祭壇背後の壁をじっと探す。
「ここです」
「よくわかるな。なんでだ?」
「いやその――何度か来たことがあるんです、僕」
目を凝らすと祭壇奥の壁のくぼみに、月明かりが反射するのが見えた。壁に彫られた太陽と月の彫刻の中にはめ込むようにして、虹色に光る金属板を見つける。ああこれだ、ではポールはどこだと振り返る直前、マチルダはショーンの鋭い声を聞いた。
「誰だ!」
『あんたたちこそ誰よ』
その声はぞっとするほど平坦で、何の感情も感じさせなかった。ぞわっと全身の毛穴が開くような感覚ののちに脂汗が額から滑り落ちてくる。何、と声をひそめて右手に抱きついたティモシーと一緒にゆっくりと振り返ると、慰霊堂の中心に一人の少女がいた。
『何しに来たの? どうやって入ってきたの?』
異国の服を身にまとった少女の髪は、風もないのにざわめいていた。足元に行くにつれて透けていく服の裾は、マチルダよりもはるかに高い頭上に浮いていた。マチルダの頭の中で記憶が蘇る。セシルの似顔絵。ティアナの証言。
彼女が――
「僕は、ニース=ヴェルゼ……」
「だめだ!」
誰何の声に律儀に答えるニースをマチルダは遮る。いつの間にか、ニースは入口にほど近い壁際に移動していた。どの横ではログが尻を突き出すようにして膝に手をつき、首をのばして壁を見つめている。
「名乗っちゃだめだ、ニース。彼女は――死霊だ」
「ポール=エフィシャント」
ごくりと唾を呑み込んだニースの隣で、ログが大声を出した。驚きに目を丸くしたのはマチルダばかりではない。目を細め、顎を引いた死霊もまた、眉根を寄せてログを見た。先ほどの神妙な態度はどこへ行ったのか、ログは壁に目を向けたまま陽気に尋ねる。
「ニース、これか? ポールのお兄さんの名前。ポールの姓ってエフィシャントか」
『なに……?』
慎重に死霊を観察していたマチルダは、彼女が眉根を寄せたのは驚きのためではない可能性に思い至った。唇を噛みしめた彼女から意識を逸らさずに、マチルダは大きくうなずいて見せる。
「そうだよ。ポールの姓名はポール=エフィシャント。お兄さんの名前も同じ」
「ふうん。じゃ、これであたりだな。ポール=エフィシャント」
尻を突き出した格好のまま、ログはやわらかく微笑んで手をのばす。そばにいるニースとショーンは死霊とログを交互に見比べながら次の動きを検討している。ティモシーはマチルダにつかまったまま、死霊ってどういうこと……と震える声で尋ねる。
「ポール=エフィシャント……ええと、さん。かな?」
死霊が頭を抱えていやいやと繰り返す。ポールの名前を呼ぶことで彼女は何らかの変調をきたしているらしい。死霊とポールにどのような関係があるのか、今のマチルダはわからない。ただ、映像ではたしかにふわりと慰霊堂の中央に落ちていくように見えたポールの姿が、そう広くもなく遮るものもないのに見当たらないということだけ認識している。
「このたびは、ポールを危険にさらしてごめんなさい。迎えに来たので、ポールを返してください」
ログの囁くような小声を聞いて、マチルダは彼が何をしているのかを理解した。腰を屈め、手をのばし、ポール=エフィシャントの名が刻まれた壁面を撫でる。あいかわらずマチルダには想像できない、けれど大事な行動をあたりまえに選んで、ログは壁面に話しかけている。
『耳を塞いで!』
瞬間、声が頭の中に響いた。何が起きたかを把握するために咄嗟に周囲を見回す間に、扉の玻璃がガタガタと震える。何事かとマチルダが見守る中、頭を抱えていた手を離して死霊が反り返る。その口からは叫びにならない声が放たれ、祭壇の供物が吹き飛んだ。咄嗟に耳を塞いで音を遮ったマチルダは、風を受けながら壁にぶつかって飛び散る花束を見る。
『助けて!』
それは――子どもの声のように聞こえた。やはり頭の中に直接響いたように思う。
不思議そうに振り向いたログの耳を片手で塞ぎ、残る一方の耳を腕で塞ぐ不自由な姿勢のニースとショーンは咄嗟に反応できなかった。マチルダは死霊の変化に注目していて動けなかった。瞬間的に駆け出したのはティモシーで、素早く走ってそれを受け止めた。
とさり。
慰霊堂の中央、重みのある音とともにティモシーの両手に落ちてきたのはポールだった。意識はなく、顔色は血色を失い髪は乱れて信じられないほど厚着をしているけれども、それは確かにポールだった。
「ポール……」
ニースが駆け寄る。慎重に顔を覗き込んで呼吸を確かめ、手を取って脈拍を確かめて、満面の笑みで叫んだ。
「生きてる!」
『返しなさいよ!』
ログよりもはるかに高いところに浮かんだまま、死霊が叫ぶ。
『それはあたしの身体よ! 返してよ!』
瞬間、ティモシーの姿がマチルダの視界から掻き消えた。どんと鈍い音がして振り向くと、ポールの身体を包み込むように背を屈めて抱きしめたティモシーの背中が、無防備に壁に打ち付けられている。どれほどの衝撃だったのか、ティモシーは悲鳴も上げずにあえいでいる。
マチルダは駆け寄った。
ティモシーの背中にそっと手を寄せる。光が体に満ちてきて、それが次第にティモシーへと移っていく。マチルダの視界の中でティモシーの身体が光で満ちると、ティモシーはようやく目を開けた。
「ありがとう、マチルダ」
『なんなのよ! なんなの!』
死霊が叫ぶ。襲い来る衝撃に咄嗟に防御の姿勢をとったマチルダとティモシーの前に、ショーンが足音を立てて滑り込んでくる。
「守れ!」
ショーンの聞いたこともない大声が響き渡ると、不可視の壁がショーンの目の前に現れた。真言魔術師であるショーンが、とっさに魔術で防御壁を展開してくれたらしい。衝撃波が四散して、足元に吹き飛んだ供物が揺れる。ありがとうとマチルダが見上げると、ショーンは瞼を最大限持ち上げて大きく息をついた。顎を手の甲で拭う。
『それはあたしの身体なの! 返しなさいってば!』
死霊は両手を拳の形にして振り下ろし、叫ぶように全身を引き絞る。同時に衝撃波が慰霊堂を攫って行く。まるで子どものようだとマチルダは思った。遠い過去に思える今朝、雪で転んで腕を折ってしまった子が喉が見えるほどに泣いていた。身も世もないあの泣き方に似ている。
「いや、違うだろ。あれはあんたの身体じゃない」
様子をうかがうしかないでいるマチルダたちを後目に、歩き始めたのはログだった。大剣を背負った動く彫像は、すらりとした手足で死霊の前に進み出る。迂闊なことを、とマチルダは歯噛みした。なんとかログを安全な所へ連れてこなければ。
死霊は頬を引きつらせる。まずいと思ったマチルダが駆けだそうとしたところで、ログはその整いすぎた顔に美しい笑みを浮かべた。
「ポールの胸はもっと大きいぞ。あんたの倍近くはある」
その瞬間の衝撃を、マチルダはことばで表現することができない。
とりあえず顎は落ちた。目を見開いて、死霊をまっすぐに見上げるログにくぎ付けになる。
「でも安心しろ。あんたの二の腕はとてもいい! やわらかくて、適度に鍛えられていて」
「ログは猥褻目的を疑っておれに符丁を投げていたって言ったの、誰だっけ」
どういう意図なのか親指を立てて死霊に示すログを横目に、マチルダは歯の間から搾り出すように尋ねる。ティモシーはそっと目を逸らし、ショーンはああ、うん、と曖昧にうなずく。すみませんと頭を下げたのはニースだけだ。
謝ってほしいわけではないのだが。
ログのような反応は予想外だったのだろう、死霊もまた大きな碧色の目を見開いてまじまじとログを見つめている。
「ポール。ポール」
ティモシーが小声で名を呼びポールの頬をぴたぴた叩く。ポールはまるで眠っているように身じろぎ一つせず、何の反応もしない。
『中にまだあの人が残ってるんだ』
「うわっ!」
三度頭の中に声が響いて、マチルダは後ろを振り返った。座ったままポールを抱くティモシーと、その顔を覗き込むショーンとニースの隣に、子どもが一人立っている。ちょうど学校に上がったばかりの年頃の男の子は、後ろ姿でも、顔を見なくても、それがポールの兄だとわかる雰囲気をたたえていた。
『驚かせてごめんなさい』
飛びのいたニースに丁寧に頭を下げてから、男の子は、自分がポール=エフィシャントであると名乗った。ログが――そしてマチルダが何度も意識してその名を連呼したおかげで、こうして出てこられたらしい。ポールとラルシェが分離したのも名前を呼んだからだと、つたないことばで説明してくれた。
「あの人が残っているってどういうこと?」
ティモシーが訊ねる。
マチルダは視線を死霊に戻す。死霊はおずおずと、ログが褒めた右の二の腕を左手で握っているところだった。真っ白な頬に変化はないが、もしこれが生身の人間であれば頬を染めてそうな恥じらいの表情である。そういえばログは美形だったのだなと、マチルダはぼんやりと思い出した。中身がアレなのでいつも忘れてしまう。
『さっきまで、あの人はポールの中に入ってた。お兄さんたちが呼んでくれたおかげで、ポールとあの人は離れた。でもあの人はポールに執着しているから、完全には離れられていないんだ』
「なるほど。ポールは精霊を容れて使役する型の精霊使いだったということですね? もとから素養があったから、今回死霊も容易に入り込むことができた。で、ポールは修行していない上に精霊使いだから、死霊を使役することはもちろん追い出すことも受け入れることも能動的にできない――そういう理解でいいですか?」
『ええと、少しちがう』
ニースの語りに、ポール少年は困った声を出す。
『妹の身体にあの人が入ることができた理由は、たぶん、お兄さんの説明のとおりだと思う。でも、そのせいで、あの人は身体を取り戻せると思ってしまったんだ。妹の身体があればやりなおせると、そう思ってしまったんだと思う』
やりなおせる――それは、生きているマチルダには想像もできない思いだった。
二十年前の夏の日、妹を守って兄は死んでしまった。降り来る瓦礫の下で妹を精いっぱい抱えていた兄が死の覚悟をしていたかどうかは、マチルダにはわからない。ただ、その直前までは、兄にはたくさんの明日があったはずだった。友達と遊ぶ約束をしていただろう。将来の夢もあっただろう。それらすべてを投げ打ったことに後悔はなくても、心残りはあって当然だ。
「お兄さんも、身体があればやり直したい?」
ティモシーが優しい声で尋ねる。ポールの兄は驚いたようにティモシーを見て、ゆっくりと首を振った。
『ぼくは妹を守りたかった。そしてぼくは、妹を守れた。大人になることはできなかったけど、いちばんやりたいことはできたから』
「でも、やり直したい気持ちはわかるんだ」
『うん』
ポール少年は柔らかな目を妹に向ける。
『弟のお産で母が死んでから、妹はずっと一人で家事と育児と勉強をしてきたんだ。あんまり苦しくってここに泣きに来たのは――百回くらいまでは数えてたんだけど、覚えてない。いくら家事も育児も女の仕事だと言ったって、十歳にもならない娘に全部させるってどうなのってお父さんに言ってやりたいときもあった。ぼくが生きていたらこんなふうに泣かせないのにって、何度も思った』
小さな手が妹の頬を撫でる。しばらく無言でそうした後で、ポール少年は顔をあげた。
『でも、今は思わない。だってお兄さんたちがいるから。妹を助けるのはもうぼく一人の役目じゃない。たくさんの人がこうして妹を心配して守ってくれるんだから、ぼくはそろそろ安心していいころだと思う』
「子どものくせに、圧力をかけるなあ」
ショーンが笑う。ポール少年は首を傾げて、そういえば大臣ってどこと訊く。ニースとティモシーが、一斉にマチルダを指さす。
マチルダは振り返る。
とことこと、かわいらしい足音が聞こえそうな足取りで、ポールによく似た男の子がマチルダの前に進み出る。
『王様に伝えてもらえますか? 名前を消してほしいって』
「名前を――ですか?」
マチルダはポール少年に向き合った。膝をついて目線の高さを合わせる。ポール少年は神妙にうなずく。
『壁にね、名前が刻まれているの。あそこに名前がある限り、ぼくはいつまでも地震で死んだかわいそうな子なんだ。ここに括られてどこにも行けない。だから名前を消してほしいんだ』
「それは――」
『うん。ぼくだけじゃないよ。ここにいるほとんどの人がそう思っている。あちらに行こうと思っても、ここに縛られて動くことができないんだ。だから名前を消してくださいって、王様に伝えてください』
ポール少年は丁寧に頭を下げる。その子どもらしく愛らしい、けれどもどこか超然とした態度を見て、マチルダはふと、彼が自分よりも年上であることに思い至った。慰霊堂が作られて十八年、あの日から二十年、彼はずっと子どもの姿だった。
「わかりました」
床に着いた膝の上に手を置き、マチルダは大きくうなずく。
「確かに伝えます。任せてください」
『うん。ありがとう』
肩の荷が下りたからだろう、マチルダの目の前でポール少年が破顔する。年齢相応の影のない笑みにマチルダも思わず笑みがこぼれた。
「ポールのことも、任せてください。必ず『あの人』を追い出して連れ帰ります」
『カレンだよ』
請け負うマチルダに、ポール少年は大切な宝物を差し出すように教えてくれる。
『妹の本当の名前。ぼくが名付け親なんだよ』
「カレン」
不意に――涙がこぼれてきた。なぜこぼれてきたのかわからないまま頬を伝う熱いものを乱暴に手で拭う。そのまま目をこすって洟をすすり、ポール少年に微笑みかける。
「良い名前ですね」
『うん。ありがとう』
「盛り上がってるところ申しわけないんですけどねえ!」
触れられない小さな手と握手しようとするマチルダの背中に、ショーンの硬い声が掛かった。顔をあげたポール少年がわっと声を上げる。いつの間にかショーンは新たな防御壁を展開していた。魔力を放出してそれを維持しているのだろう、ショーンの額には脂汗がにじんでいる。
「ごめ、何があったの?」
「ログがやらかしたに決まってるだろう」
庇う必要があるのかは定かではないが、ティモシーはポール少年の手を取って引き寄せる。ニースが壁と自分の身体の間にポールとその兄を挟み込むのを見て、ティモシーは杖を構えて進み出る。
「あの莫迦、死霊に向けて『どんなに良い二の腕でも実体がないのじゃ意味がない』と言い切った」
額から緩やかに汗を滴らせるショーンの顔は、かなり追いつめられて見えた。治癒師であるマチルダは魔術師の実際はわからないけれど、精神力をかなり消耗するものだという一般的な知識はある。マチルダとポール少年が語り合っている時間がどれほどだったのかは計っていないので不明でも、長短にかかわらずあれほどの死霊をせき止めるのはよほど集中力が要るだろうことは想像できる。
「それで、ログは?」
「大剣を構えたところまでは見た」
「剣を構えた? まさかログはこうなることを見越して神殿で剣を浄化してもらっていたのか?」
「あれがそんなことができる男だと思うか? 単純に、勝てると思ってるんだろうさ」
「浄化のない剣で勝てるはずがないだろう! 助けないと!」
マチルダが身を乗り出す。ショーンがその肩に手を乗せる。引き留めるというよりも支えとするようなその震える手を、マチルダは目を見開い見る。
「今あの壁を解いたら、一番に兄さんが危ない。ログはまあ――なんとかしてるだろう」
ティモシー! とショーンが叫ぶ。なに? とティモシーが応じる。
「俺はもう限界だ。おまえは防御壁を張れるか?」
「やってみる」
ニース、ポールを頼むよとティモシーは言い置いて、五歩の距離をたっと進み出る。
「マチルダ。俺は今から防御壁を解く」
「うん」
「ティモシーは元素魔術師だ。同じものは作れない。壁が消えて新しいものができるまでの間に、おまえは、ログの首根っこを掴んで連れてこい」
マチルダはショーンの横顔を見た。金色の目をして周囲を見回しているティモシーを順番に見て、もう一度ショーンを見る。
「俺は、この場は撤退すべきだと思う。こんなの、俺たちの手に負えない」
マチルダは目を見張る。
「物理的な攻撃に対応できても、魔的なものはどうしようもない。これは、神殿の管轄だ。ポールを連れて王宮に戻ったら、神殿を頼ろう。これ以上ここにはいられない」
「どうやって『扉』まで行く?」
固い声でマチルダが問うと、ショーンは振り返った。その目線はマチルダではなく、その後ろのニースに向いている。
「そんなの、ニースが考えるさ。だろう? ニース」
「はい」
紙のように白い顔のまま、ニースは両手で電信機を握りしめる。なるほど正攻法ではうまくいかなくても、世界にはここから抜け出す良い知恵があるかもしれない。
「行くぞ、マチルダ! ティモシー!」
「ちょ、ちょっと待って!」
「もう無理だ!」
慌てるティモシーにショーンが叫ぶと同時、ふっと風がマチルダの頬を撫でた。黒い霧に目鼻を付けただけにしか見えないモノが、マチルダに向けて突進してきた。




