第4章(2)
ポールは目を覚ました。
天井の色硝子から、光が静かに差し込んでいる。降り注ぐ光の色がはっきり見えるということは、きっと今は夜なのだろう。
ぎゅっと手を握り、手を離す。
目の前に動かして、そこに手があることを確かめる。
右。
左。
足の指も同じように動かして、見て、確かめる。
慰霊堂である。
良く晴れた夏のあの日、たくさんの人が唐突に未来を亡くした。生まれてくる孫を楽しみにしている人がいた。旦那さんと喧嘩して落ち込んでいる人がいた。出した手紙に返事が来る日を心待ちにしていた。そんな人たちのために青黒い石で丸い建物が作られた。壁にあの日亡くなった人たちの名前を刻み、天井には笑顔の女神を色硝子で作って、花を絶やさず菓子を供え手紙を置いた。
光の下に、誰かが倒れている。
あの日誰かを亡くしたひとのために、慰霊堂の扉はいつも開け放たれていた。かくれんぼのために子どもが忍び込んだこともあったし、家を飛び出した少年少女がずっと膝を抱えていたこともあった。旅人が夜露をしのぐために入ってきたことも、人相の良くない人が悪さの相談に使ったこともあった。祭日には神官がやってきて祈りをささげる場所だから、救いを求めてたどりついたひとたちもいた。
でもそのひとは、そのどれとも違っていた。
ポールは足を踏み出す。
入口と祭壇を結ぶ一本道には、絨毯が敷いてある。月に一度地域の人が丸洗いして、年に一度交換してくれるからいつもふかふかで柔らかいその上に横たわるひとの顔は、はっきり見えない。見えないことをいぶかりながら、ポールは慎重に足を進める。
緑色の髪がぱさりと広がっているのが見えた。
ポールは足を止める。
目をこすって自分の手足がはっきり見えるのを確かめて、もう一度見る。
緑色の髪の、女のひとが倒れていた。
大人ではないと思う。でも、子どもと言える年齢でもない。
髪もよく見ると青みがかかっている。不思議な色だとポールは思う。ここには青い髪のひとも緑の髪のひともいたけれど、どちらにも見えるこの色は見たことがない。前髪のほかに耳のそばの髪もまっすぐに切りそろえられていて、三段階の長さがある。
黄味のある肌の色に、濃い青の服がよく似合っていると思った。ふわふわの襟の下着の上に服を重ねて帯で締める服をポールは見たことがないが、よく似合っている。いったいどこの国のひとなのだろう。
「お姉さん」
光の中に足を踏み入れて、ポールは目を閉じたままのひとの肩に触れる。
「お姉さん、起きて」
「ん……」
まるで眠っていたみたいに眉毛をぎゅっと寄せて、女のひとはゆっくりとまぶたを持ち上げた。奥二重のまぶたの下から、夏空のようなきれいな髪の瞳が覗く。瞳はしばらくぼんやりとポールを認めてから、眇められた。
「あんた、誰?」
「ぼくは、ポール」
女のひとの肩から手を離して、ポールは立ち上がる。
頭を大きく一つ振って、女のひとは起き上がった。ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜて、鼻の頭に皺を寄せる。
「ここは、レンサの慰霊堂だよ。お姉さん、自分が何でここにいるかわかる?」
女のひとはぐしゃぐしゃと頭を掻いたまま、ポールから目を離す。
ポールは構わず話し続ける。
「ぼくがお姉さんを呼んだんだよ。お姉さん、とっても危なかった」
「危なかった……?」
女のひとは膝を立て、そこに肘をついた格好のままポールを振り返った。夏空の瞳がもう一度見えて、ポールは笑顔でうなずきかける。
「何がどうというのは、うまく説明できないんだけど。……お姉さんが無事にここに来てくれて、ぼくは嬉しい」
「放っておけばいいのに」
女のひとは頬をぴくぴくさせて言い捨てる。ここに来るこのくらいの年齢のひとは、たまにこういう物言いをするのをポールは見てきた。そのときに大人がどういう対応をしていたかを、ポールは覚えていた。
「ぼくが、呼びたかったんだ」
だからうれしいんだよと言うと、女のひとは目と口と眉毛を一斉に鼻のあたりに集めるような変な顔をした。にこにこと笑うポールを上から下まで見下ろしてから、あっそ、と小さくこぼす。
ポールは女のひとの隣に座った。
膝を抱いて、右手で右の靴先を握る。うにょうにょと動かすと、右手に足指の存在が伝わってきた。左手と左足も同じようにして、そこにあることを確かめる。
「何してンの?」
しばらく繰り返していると、女のひとが顔をあげた。その視線を頬に感じて、ポールは右手を握って開く。
「こうしていないと、夜に溶けていくような気がして。どこまでが自分か確かめてるんだ」
「ふうん……」
女のひとは鼻で返事をして、右手をぎゅっと握りしめた。親指を内側に入れて人差し指から順番に握っていく。開いていくときは小指からで、とても几帳面なひとなのだとわかった。
手首には、いくつもの傷が走っていた。
「お姉さんはさ……」
「ラルシェ」
ポールは顔を上げてお姉さんの横顔を見た。お姉さんは左手を順番に握って、横顔で続けた。
「あたしは、あんたのお姉さんじゃない。ラルシェって名前があるの」
「ラルシェ」
耳慣れない音の響きを口の中で転がす。
「かわいい名前だね」
「名前だけはね」
ラルシェは唇を突き出す。その横顔を眺めて、ポールはしゅんとうなだれる。
人差し指で靴先をなぞっていると、ため息が聞こえた。うなだれたポールの横顔を、ラルシェが見ている。
「あんた、いくつ?」
「ぼく? ぼくは、ええと――二十七?」
「嘘! あんたどう見たって子どもじゃない!」
「二十年前に七歳だったんだから、二十七だよ」
「はあ? それ、七歳じゃない。死んだら年を取らないんだからさ」
ポールは目を真ん丸に見開いてラルシェを見た。ラルシェははっとして両手で口をふさぎ、それからごめんと肩を落とした。
「たぶん――あたしには、弟がいたような気がするんだ」
ポールが右足で左足を握っているのを見て、ラルシェは後ろに両手をついた。夜の空を仰ぐように、夏空の瞳が天井を見る。
「なんで死んだのかも、もうさっぱりわからないんだけどね。あんたを見ていたら、思い出した。あたしには、あんたぐらいの弟がいたと思う」
「ぼくみたいな子だった?」
「どうだろう。……もう、本当に思い出せない」
肩に流れて落ちてきた髪を片手ではねのけて、ラルシェは空を見る。
「でも、あたしはずっと十七で、弟はたぶんふつうにじいさんになって死んだんだ」
だからあんたもずっと七歳なんだよとラルシェはポールの頭をわしわし撫でる。久しぶりに触れる感触が懐かしくて、ポールはまっすぐにラルシェの目を見る。
「ぼくにも――妹がいるんだ」
ぽつりとつぶやいて反応を見る。ラルシェは首を傾げて続きを待っている。夏空の瞳がまっすぐにポールを見る。
「今年二十歳になる子でね、ぼくと同じポールって名前なんだ」
夏空の瞳に青が重なった。ポールはごくりと唾を呑む。
「ここに来るたび、ぼくの名前が刻まれたこの壁を不思議そうに撫でていた。泣きに来たこともいっぱいあった。大臣補佐に選ばれたときには、わざわざ報告――」
「なに、それ……」
夏空の瞳の向こうに見える青い瞳が遠ざかる。
ラルシェの肩が震えている。
「なにそれ? 自分がこんなに家族に思われてるって自慢したいの? 家族が立派だって、あんたが立派なわけじゃないのよ?」
「お姉さん?」
ばたんと大きな音を響かせて扉が閉じた。ばたん、ばたん、ばたんと、すべての窓が勢いよく閉じていく。
失敗だとポールは悟った。ラルシェの向こうに見えた青い瞳はもうすっかり消え失せて、今、目の前にはラルシェの気配だけがある。ポールに触れた手は確かに妹のものだったのに、妹の青い目がかすかにほの見えたのに、ラルシェをその身体から追い出すことができなかった。
風が吹いてきたとポールは思った。
ポールの重さのない実体のない軽い体は風に吹き飛ばされた。同時に、ポールの意識もまた途切れた――
警告音が鳴った気がして、ポールは目を覚ました。
もうどのくらい眠っていたのだろう。まるで水の中をずっとたゆたっていたみたいに、身体が重い。どこまでが自分でどこまでが世界かまったくわからず、手足の感覚も鈍い中、なぜ目が覚めたんだろうと考えた。
ややあって、体内から響くようなこの警告音のせいだと思い至る。
音の出どころを探して首を巡らせる。
何かが見えた。
それが何であるかはわからなかった。ただ、そこに妹がいることだけは一目でわかった。妹は力持ちの人が全力で投げた鉄球みたいに一直線に、どことも知れずに飛んでいく。
助けなければ、とポールは思った。
あの日の夕方、ポールは同じ警告音を聞いた。いてもたってもいられなくて妹を助けに行った。ぐっしょり濡れてしまったおむつと、汗をかいて唇が乾いた力の抜けた妹を見つけたときは、本当に嬉しかった。その直後に天井が割れたことと、警告音がやんだことだけは覚えている。
ポールは手をのばした。しかし、ポールの手は届かない。
妹はどんどん遠ざかっていく。
手をのばしたまま跳ねてみた。梯子をつたって天井に張り付いた。
それでも、七歳の子どもの背丈はたかが知れている。
「ポール……」
自分の名前で妹を呼ぶのは、やっぱり変な気持ちだ。妹もそれは同じだったようで、慰霊堂の入口右に刻まれたポールの名前を、小さいころから何度も何度も不思議そうに撫でていた。嬉しいことがあったときは笑顔で教えてくれた。悲しいこと辛いことがあったときはじっと前に座っていた。ポールはそのたびに手をのばして、自分より大きくなっていく妹を励ました。大臣補佐に決まったときは本当に喜んでいて、ポールもとても嬉しくなった。これからはあんまり来れないかもと寂しそうに妹が言い置いて行ってから、ずっと目を覚まさなかった。
警告音も鳴らなかった。
「ポール!」
壁に名を刻まれ括られたポールは、慰霊堂から離れることすらできない。飛び上がることすらできずに飛んでいく妹を歯を食いしばってみていると、突然、ふわりと体が浮いた。
「がんばって」
誰だろうと一瞬下を見たけれども、前垂れに隠れてわからない。ただ、自分の腰に添えられた手がとても細いものであることだけは見えた。霊体には重さがないから、女性でも自分を軽々と持ち上げることができるのだろうか――手はポールの身体に沿って下に降りて行き、ついに足だけを掴んで持ち上げる。その瞬間、ポールの指先が妹に触れた。だらりと力なく落ちた指先を手繰るように引き寄せて、全身で抱きかかえる。
上げたときとは反対の動きで手が動いて、ポールを引き戻してくれた。どういう仕掛けなのか、地面にたどり着いたと思った瞬間に景色が変わる。見慣れた慰霊堂の柔らかいところを探して、ポールは絨毯の上に妹を寝かせた。
ひゅん、と心臓が跳ねた。もう動いていないはずなのに、鼓動が内側で響く。
重さを無視して抱き下ろしたのは――妹ではなかった。
助けたのは確かに妹のはずなのに、そこには知らないひとが横たわっていた。
なぜだろう? ポールは考える。
太陽の光の中必死に考えて――自分の境界を見失ったポールの意識は、光に溶けた。




