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第4章(1)

地震についての描写があります。

読み飛ばしても話はつながりますので、苦手な方はご注意ください。

 それは――地獄そのものだったという。

 調和暦『憩い』三六三年夏――シェトラ内陸の町、レンサ。鉄鉱石の産出地として栄える人口三〇万の地方都市を、地震が襲った。人はもちろん建物さえも立っていられないほどの激しい揺れだった。見えない手になぎ倒されるように地面に這いつくばるしかなかった人々の上に、瓦礫となった建物が落ちて行った。もうもうと上がる土埃に視界を奪われた人々が再び目にしたのは――

 地獄、だった。

 町中に死があふれていた。のしかかる石の重さに押しつぶされた人々がそこここで血を流して絶命していた。降り積もった瓦礫の下からは、言葉にならないうめき声が聞こえていた。空は残酷なまでに高く青く、どこまでも澄み渡っていた。

 建物には強度を上げるために鉄骨が通してあったが、何の役にも立たなかった。鉄骨は土台から伸びたままむき出しになり、まるで神にすがる人の指のようにぐにゃりと折れ曲がって天に伸びていた。運よく倒壊した建物の下敷きになることを免れた人々は、呆然とその場に立ち尽くしていた。

「お父さん!」

 激しい揺れの中妻を家の外に連れ出した男は、道端に座ってぼんやりと家を眺めていた。採掘師として勤めて十五年。妻と二人でようやく手に入れた終の棲家は、骨組みだけを残してあっけなく崩れてしまった。

「お母さんも! 無事でよかった」

 教師に伴われて学校から帰ってきたポールは、つくねんと座る母を見てようやく笑みを浮かべた。男が――父が立ち上がり、教師に礼を述べる。他にも五人ほどの子どもを連れていた教師は、学校はしばらく休校となること、移住先の住所を学校に知らせてほしいことなどの事務連絡を手短に済ませると、足早に去って行った。

「学校の先生って大変だねえ」

 遮るものがない視界の中、涙目の子どもたちを励まして歩く教師の姿はいつまでも見えた。ポールの担任である男性教師は四十半ば、ポールたちより少し大きい男の子の父であると言っていた。自宅もわが子も心配でないはずがないのに、それをまったく顔に出すこともなく、笑顔で歩いていく。

「……は、どこ?」

 なんとなく立ち上がって教師を見送っていた両親に、おそるおそるポールが問う。男はそれではたと気づいた。ポールが学校に行っているのだから、今日は本来であれば勤務日であるはずだ。それが自宅にいて妻を連れ出すことができたのは――妻が十日前に、第二子を出産したからだ。妻のための産休中だからだ。

 男はゆっくりと首をめぐらせて妻を見る。強い陽射しに向こうが透けて見えそうなほどに、産後の妻の体調は良くない。青白い顔で土埃が巻き上げたほこりを浴びて、ただそこに座っている。

「まさか」

 その手に生まれたばかりの嬰児がいないことに、男はようやく気付いた。ごくりとつばを飲み下してから視線を倒壊した自宅に投げかける。地震が起きてからいったいどれほどの時間が経過した? あの子は――生まれたばかりの赤ん坊は、地震の直前までどこにいた?

「……!」

 ポールは瓦礫のなかに飛び込んだ。男が頭に手を当ててはっきりしない記憶を呼び戻そうとしているその間にも、瓦礫と化した石礫を必死に運び出す。砕かれたばかりの石礫はまだ七歳のポールの手に重く、やわらかな皮膚を突き破る。

「大丈夫だったか……?」

 仕事先から帰ってきた隣の家の住人が声を掛ける。男は何と答えていいかわからずに、歯を食いしばって瓦礫を運ぶポールをただ見つめる。隣の家の住人は何も言わずにポールを手伝い始めた。誰か、こっちと大声で呼ぶと、傷だらけの人々が何人も集まってきた。事情を知るものが産後の女をいたわり、掘り出した筵の上に落ち着ける。男たちはポールが運べない大きな瓦礫を数人がかりで運びだす。だんだん傾いていく陽射しの中、熱気ばかりが漂う。滝のように汗を流して作業を進める中、不意に赤子がおああと泣いた。

 それは、生まれたての赤子の、かぼそい、小さな小さな泣き声だった。巣に帰るために鳴き交わす烏の声に掻き消えそうな、本当に小さな声――

「待ってろよ! 今助けてやるからな!」

 隣人が腕まくりをして叫ぶ。女はぽろぽろと涙をこぼしてその場にうつぶせる。必ず助けるからそのまま泣いてろよと叫ぶ声にこたえるように、赤子はふにゃふにゃと泣き続ける。

 あのときは普通じゃなかった――その場にいたものたちは、後で一様に口を揃えてそう言った。冷静に考えれば、彼らには天から与えられた特殊能力があった。元素魔術師が物質を構成する最小単位に働きかけることも、真言魔術師が力のある言葉を使って瓦礫を砕くことも、もしかしたらもとに戻すこともできたはずだ。

 でも、そのときは誰もそれを思い出さなかった。

 埃にまみれ、太陽を浴びて汗を流し、指先を血だらけにしても、とにかく力尽くで瓦礫を除けねばならぬと思った。

「これは――」

 太陽が地平線に沈むころにあらわになったのは、大人が十人がかりでも押しのけられない大きな一枚岩だった。最前まで天井だったのが、蛍光灯を吊るための仕掛けからわかる。くり抜いたようにそのまま落ちた天井と、その重みで押しつぶされた家具との小さな小さな隙間で、赤子は泣いていた。

 もし――この天井が落ちてこなければ、その上を覆い尽くしていた大小の瓦礫によって、赤子は絶命していたかもしれない。あるいは家具がなければ、屋根自体につぶされていただろう。さまざまな偶然が幸いして助けた生まれたばかりの命は、しかし、見えるけれども手の届かない場所にあった。

 家一軒分の天井は重く、手がかりとなる場所もないために容易に移動できない。瓦礫の山から木製の柱を見つけてきたものが梃子の原理で持ち上げようとするが、下手に動かすと赤子がいるであろう空間をつぶしてしまうかもしれないことがわかっただけだった。放心したままの男と女を置いたまま、隣人たちがどうすればいいかを話し合う。

 やがて日が沈み、赤子の声も聞こえなくなった。

「あ、ポール!」

 両親の隣で大人たちの話し合いの行方をじっと見守っていたポールは、意を決して屋根の反対側から荷物を運び出し始めた。かろうじて子どもだけが通れるだけの小さな隙間を何度も何度も往復して瓦礫を運び出して作り出す。意図を汲んだ大人たちが明かりを用意して次の瓦礫を待って出口で見守る中、ポールが叫んだ。

「見えた!」

 赤子を守っていたちっぽけな箪笥の残骸がもぞもぞと動く。息がある! とくぐもった声が聞こえて、現場は歓声に包まれ――

 そして、悲鳴に押しつぶされた。

 余震だった。

 ゴゴゴゴと低い地鳴りとともに戻ってきた地震があたりを激しく揺さぶる。立っていられないほどとは言っても本震ほどの揺れではなかったかもしれない。けれどそれはすでに弱っていた地盤を引き裂き、建物の残骸を押しつぶした。

 大人たちが見守る中、一枚岩のようだった天井は二つに四つに割れた。その下にポールがいることはみんな知っていた。助けなければと思うのに、助けたいと願うのに、立っていることすらできない。まして身動きなどとてもできず、その場に這いつくばったまま必死に手を伸ばして崩れていく天井を支えるだけ。

 永遠にも思える長い一瞬が過ぎ去って、大人たちは一斉に瓦礫にとりついた。一枚岩だった天井はもうただの石片だった。大人がちょっと力を入れれば運べるくらいに砕かれていた。でも、ちょっと踏ん張って力を入れなければならないほどには重かった。

 人工の明かりを見つけて、けがをした人たちが何人も集まってくる。事情を説明するまでもなく、大勢の人が瓦礫の除去作業に加わった。誰も何も言わず、黙々と作業を続ける間、ポールの両親は何も言わずにがたがた震えていた。

「いた……」

 背中の筋肉を震わせて瓦礫を持ち上げた男が、思わずというようにつぶやいた。白い光が照らし出す中、後頭部がぱっくり割れた小さな体があった。すっかり冷たくなったその小さな体を起こすと、腕の中からおああと微かな泣き声が聞こえた。大人たちがはっと顔を上げる。子どもが懸命に丸くした体の両手と膝の間に、赤子がいた。衣服はほこりにまみれ、唇は乾いて声にももう力はなかったが、それでも確かに生きていた。

「生きてる……」

 子どもの手足を開いて赤子を取り出す。見守っていた女たちがはっと息を呑んだ。

 腕の中の大切なものに向けられたままの顔は、微笑んでいた。背中にも大小の傷があり、後頭部への致命傷となった一撃はひどい痛みを与えたはずなのに、まるで赤子をあやすかのように剽軽に笑っていた。

「妹を――守ったんだね」

 もし可能であれば授乳してやってと言って女に子どもを預ける。遮るものがない闇の中、女たちが周囲に壁を作って男たちからの壁となる。ぽろぽろと涙を流して赤子を抱きしめた女は、んくんくと乳房にむしゃぶりつく赤子の髪を何度も何度も撫でて、こう言った。

「ポール、良かったね」

 それが命がけで妹の命を守り抜いた兄へのことばでなかったことを近隣の人が知るのは、一年あとのことになる。新しい市街に再建された自宅に戻ってきた夫妻は、よちよち歩きの女の子を連れていた。またお世話になりますとあいさつ回りをする中、夫妻は女の子に向けてこう声を掛けた。

「さあ、ポール。おまえもご挨拶をしてごらん」

 ようやく髪が生えそろったばかりの女の子が、にっこり微笑んでぴょこんと頭を下げた。


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