第3章(5)
法務庁庁舎から女房宿舎までの道のりを、ティアナはソワンと二人で歩いた。
空は高く、どこまでも青く、信じられないほど澄んでいた。道端の草木はここで起こったことなど知らぬげに冬の陽射しに輝いている。冬の太陽はすでに中天を越え、気温とともに空を滑り落ちようとしていた。
魔力探知ではポールを見つけられなかったこと、空間師はしかし人が吸い込まれるような空間の歪みを感知しなかったことをティアナはソワンから聞いた。女房衆たちをまとめて周囲を捜索し、それでも見つからなかったからスタンリーに助けを求めたことをソワンはぽつぽつ話してくれた。
「ごめんなさい。……ティアナが起きるのを待てばよかった」
「そんな! あたしこそ、助けてもらってありがとうございます」
ソワンが言わなくても、倒れているティアナを見つけた女房衆が惑乱したであろうことは容易に想像できる。それをまとめ上げ、考え付く限りの善後策を講じた後に長官にすがるのは当然だろうとティアナは思った。考えるまでもなく、ティアナはそこまでの判断はできない。先ほどの引き際と言い、ソワンというのはかなり有能な女性なのだ。
女房宿舎には誰もいなかった。女房衆は、念のために買い物を装ってリナレアの町にポールを探しに行っているのだそうだ。せめて力になれるかとティアナも行きたかったけれど、太陽がすでに傾き始めているのであきらめた。ソワンと二人、女房宿舎の広々とした食堂で味のしない遅い昼食をとった。
休日の今日は、本来であれば各行政庁舎の清掃業務の日である。何もしていないことはおそらく一目瞭然だろうが、この大雪を鑑みればおそらく官吏たちは何も言わないだろうとソワンは言った。まったく女はこれだからと言う官吏がいるかもしれないが、そういう人は何をしたってそれが言いたいだけなのだから言わせておくしかないのだと。
ポールの不在はとりあえずしばらくは伏せられることになるようだった。国王陛下がいらっしゃらない以上それもあたりまえだろうとティアナも思った。故郷の祖父母両親がこの話を耳に挟んだら、上を下への大騒ぎになるだろう。
昼食の食器を洗うとぽかんと空白の時間が生まれた。休んでいなさいと言うソワンに、何かしていたいとティアナは答える。しばらく困ったように考えてから、ソワンが夕食を作ることを提案してくれた。女房衆に長官四人、大臣を含めればそれなりの量となる。鍋を洗い、食器を準備して、野菜を剥いて肉を叩く。手を動かしている間はいろいろなことを忘れられた。ぐつぐつと野菜が煮える大なべをかき混ぜながら、そういえば味付けを任されたのは初めてだったとティアナは気が付く。
「ソワンさんは」
隣で鉄板に肉を丁寧に並べるソワンの横顔に、ティアナは話しかける。
「どうして女房衆になろうと思ったのですか?」
「都会に出たかったから」
ソワンの動きには相変わらず無駄がない。ティアナは大なべをかき混ぜていた手を止めて、石窯の様子を見に行く。
「あたしと同じですね。でも、ソワンさんは魔術師じゃなかったでしたっけ?」
「ティアナはどうして都会に来たかったの?」
まつ毛が焦げそうな距離で石窯の温度を確かめて、ティアナはソワンの背中を振り返る。
「あたしは死霊使いだから、田舎にいると変な目で見られるンです。それで、誰も自分を知らないところに行きたくて逃げてきました」
「そっか。わたしはね、女だから出てきたの」
石窯の準備はできてるとソワンが問う。大丈夫ですと答えるティアナのそばをすり抜けて、ソワンがもう一度石窯を開ける。これじゃあお肉が消し炭になるわよと笑って、温度を下げるために戸を開け放つ。
熱い空気がティアナの顔に流れてきた。
「わたしの地元は、人口二万人ほどの小さな金細工の町なの。きらきら輝く金の粒を並べてね、小さな小さな動物を作るのを見るのが好きだった。細かな作業が好きだから将来自分も必ず彫金師になるんだって決めていたんだけど、女だからお前にはできないと言われてしまったの」
ティアナは炎に照らされるソワンの顔を見る。その顔はいつもと変わらず落ち着いているように見えた。
「セシルさまは、その名前だけで仕事が取れるほどの彫金師でね。わたしの憧れだった。セシルさまがいらしたからこそわたしは自分も彫金師になりたいと思ったのだけど、実際は違った。一家を支える男が手先が器用なだけの女に負けるわけにはいかないという理由で、セシルさま以降の女の彫金師は育ててもらえなくなったの」
「え? なんですかそれ? 意味がわかりません」
「うん。わたしの育った田舎は、まだまだそういう男女差別があるところでね。都会では女も男と同じように仕事ができるって聞いて、それでリナレアに来たの」
肉の塊を乗せた重い鉄板を持ち上げ、ソワンは慎重に石窯に運び込む。都合三度それを繰り返して、俯いたまま振り返る。
「リナレアで働くなら女房衆だって聞いて応募したら、なんとか合格して採用していただいた。国王陛下にも直接おことばをいただけるし、その暮らしを少し覗けるしで、楽しい仕事だと思った。家事労働は得意ではなかったけど、毎日やれば技術も向上するし」
でも――ぱたんと石窯の扉を閉めて、ソワンは手袋を外す。
「どうせ働くなら、どんなに難しくても官吏を目指せばよかったって思う。ここは地元じゃないけど、シェルリナさまには男だ女だというこだわりはないけど、でも、やっぱり女房衆というだけでできないことが多すぎる」
わたしだって、ポールさまを探したいと思っているのよ――半身炎にあぶられたまま、ソワンはティアナに微笑む。はい、と素直に頷こうとして、ティアナは、ソワンのすぐ隣の熱い石窯からにゅっと顔を出してきた老婦人に悲鳴を上げた。
『あなた、わたしがわかるのね?』
どうしたのと心配するソワンと老婦人の顔をあわあわと見比べて、ティアナは意味もなくおたまを振る。ティアナの祖母を痩せさせたみたいな老婦人はとことことティアナの前まで歩いてきて、困っているのよと頬に手を当てて首を傾げた。
『伝言を頼まれてきたんだけど、誰もいないのよ。そういえばあたし死んでたんだわって思い出して話せる人を探してたらこんな時間になっちゃったの』
「ここに――人がいます」
なおも話を続けそうな老婦人ごしに、ティアナはおたまで人の形を作ってみせる。
『あなた、伝言を預かってくださる? わたしもねえ、引き受けた以上はちゃんとお伝えしたいと思っているのよ。大臣マチルダって言ったら今評判じゃない。だからどんな方か会ってみたいと思ってたんだけど、ご不在じゃあねえ』
「伝言を預かれと言っています」
表情をこわばらせるソワンに伝える。それでも老婦人がティアナによどみなく話し続けるのは、そもそもが無視されることに慣れているからだとティアナは知っている。ほとんどの人は死霊の声など聞こえないから、死霊は話し相手に飢えている。
「話してわかりそうな人?」
死霊に聞こえることを前提に、ソワンが慎重にことばを選ぶ。そういう考え方もあったのかと、ティアナは老婦人に話しかける。
「あたし、今、仕事してるんですよ。伝言って、預かっても届けられるかどうか」
『あらそう? でもあたしも、これ以上家を空けることができないのよ。ホラ、あたしは主人が心配で現世にいるわけでしょう? こんなふうに長いこと家を空けて、その間に主人に何かあってごらんなさい? 浮かばれないどころじゃないわよ。冗談じゃない。だからあなた、大臣閣下にお伝えしてくださる?』
「大臣閣下!?」
思わず大声がこぼれると、ソワンが振り返った。目線で会話して、ティアナは老婦人に尋ねる。
「大臣閣下に伝言ってどんな話? 急ぎだったら閣下を探したほうが早いかも」
『やあね、大臣閣下に直接話す必要なんてないのよ。わたしだってこの話は遠くに嫁いだ幼馴染から聞いたんだから。とにかくわたしは時間がないの。あなた、頼むわね?』
ポールハレンサニイル――流れるようにつながったことばの意味を取りかねて、ティアナは老婦人の皺が多い顔を見る。どういう意味ですかと問うと、知らないわよと老婦人はまた頬に手のひらを当てた。
『遠いところから人づてに伝わってきたことだから、もと情報がはっきりしないの。でも、妹の命に係わることだから助けてくださいって、小さな男の子が頼んでたんですって。二十年前の地震でなんとか助けた妹の命がまた危機にさらされているって、でも自分はここを離れることができないから、どうか大臣に伝えてくださいって言ってたって。ねえ、かわいそうな話でしょう?』
「はい」
鍋をかき混ぜるのを忘れて、ティアナは老婦人の顔をまじまじと見る。じゃあ頼んだわよと老婦人は壁をすり抜ける。一か八かで触れられるかわからないその手を引くように手を動かすと、老婦人は壁から半分だけ顔を出して振り返った。
「確認します。ポールはレンサにいる――ですよね」
ソワンが目を見開く。老婦人はそわそわうなずく。
『そうよ。ポールハレンサニイル。あなたも次の人にちゃんと伝えてね。頼んだわよ』
「たしかに。確かに――承りました」
窓から見える王宮はすっかり茜色に染まっていた。冬の太陽は知らぬ間に天空を滑り落ち、夜がそこまで迫ってきている。何もなかったかのように掻き消えた老婦人の背中を見送って、ティアナははじめて自分が死霊と話せてよかったと思った。
ソワンと相談した結果、法務庁庁舎にはティアナが一人で夕食を提げて報告に行くことになった。オバケとからかわれてきたティアナは、死霊から聞いた話などそうそう信用してもらえないことを熟知している。電信機で呼び立てるのも気が引ける。だから夕食を持っていくついでに、こういうことがありましたと報告することにした。
上着を着込んで、配達箱を提げて道を歩く。
太陽は王宮の向こうにすっかり沈んでいた。その名残の光だけがほんのりと西の空を照らし、あたりは薄闇に照らされている。思ったより遅くなったと気持ちは急くが、四人分の食事を入れた鉄製の配達箱は重くて思うように足は進まない。それでもなんとか行政府までたどりついたころには、向かいからたくさんの同僚が戻って来はじめていた。
同僚たちはティアナを見るとはっと顔をあげて手を振ってくれる。もう大丈夫なの、良かったねえ、心配したのよと声を掛けてもらうたびに、ティアナは涙が出そうになった。ティアナが倒れた姿を見て怖い思いをした人もいただろうに、優しいことばが降り注ぐ。ありがとう、ごめんねと繰り返していくうちに、あっという間に法務庁庁舎に着いた。
法務庁庁舎の正面玄関は、あたりまえのことだが閉まっている。えっちらおっちら配達箱を提げて裏口に回りこんだところで手がのびて、配達箱が一瞬軽くなった。
「運びますよ」
聞き慣れた声は大臣マチルダのもの、間近で見る大臣が想像以上に愛らしくてティアナは目を見開く。薔薇色でもちもちの頬、ぷりっぷりの唇、ばさばさの睫毛――これまで同僚がかわいいかわいいと言うたびに男の人に言う言葉じゃないだろうと思って来た自分を消し去らなければならないとティアナは思った。透明でやわらかな声と言い、こんなかわいい愛らしい生きものをティアナはこれまで見たことがなかった。
「思ったより重いな」
ティアナの手が緩んだ隙にひょいと抜き取って、マチルダは配達箱を見る。
「配達箱ということは、長官たちの夕食ですね。ありがとうございます。お仕事を増やしてしまって済みません」
「いえいえいえいえ。重いんであたしが持ちます!」
「いや、こういうのは男の仕事ですよ。大丈夫です」
取り返そうとするティアナを手を立てて制してマチルダは配達箱を引く。何か言わなければと焦ったティアナはなぜか姓名を名乗った。
「あの。あたし、ティアナ=マグレリアといいます」
マチルダの大きな目がさらに大きく見開かれたので、ティアナはしまったと思った。なんて意味のないことを言ったのだろう、それよりも言うべきことがほかにあったんじゃないかとあわあわする。マチルダは大きくまばたきをして、配達箱をすっと横に突き出した。
「そうですか、あなたが―――誰か持ってて」
「誰かって誰だよ」
このときはじめてティアナは、マチルダの後ろに人がいることに気が付いた。薄明りではっきりとは見えないが、いずれもマチルダよりも背が高い若い男性ばかりである。いや、同世代であろう男性に混じって一人、ティアナの母と同じくらいの年ごろの女性もいる。
「じゃ、ログ持ってて」
「わかった」
あっさりと配達箱を受け取った人を見て、ティアナは目を見張る。ティアナよりも頭ひとつ分ほど大きいその人は、一見して彫像のように見えた。美術館に飾ってある神様を模したようなあれである。ログと呼ばれたその人は、ティアナの視線に気づくとにかっと笑った。
「申し遅れました。私はマチルダ=シュルクーズです。グレンヴィル長官からあなたが倒れていたと伺いました。目を覚まされたようで何よりです。御気分はいかがですか?」
ティアナがログに気を取られている間に、マチルダがティアナの顔を覗き込むように尋ねる。年の離れた妹に心配をかけているような気分でああ大丈夫と答えそうになって、ティアナはぎりぎりのところで我に返った。
「大丈夫です。わたしのほうこそ、御心配をおかけして、本当に申し訳ありません」
深々と頭を下げて足元を見つめ、動機がおさまるのを待つ。あまりに長かったからだろう、だいじょうぶですかと声を掛けられて顔を上げると、一瞬にして世界が回った。細い腕に抱きとめられて、その場にぺたりと尻餅をつく。
「病み上がりですからね、無理は禁物です。この食事は私が長官室に運びますから、あなたはここで待っていてくださいますか?」
「いえあの!」
やっぱりこれ食事だよなと佳い声が喜ぶのを遮って、ティアナは声を張り上げる。それでは食事のついでに長官たちに情報を届けることもできない。叫んだせいでさらにくらくらして天を仰ぐと、だいじょうぶよと優しい声が耳を叩いた。
「そんなに声を張り上げなくても聞こえているわ。話があるのね? ちゃんと聞くから、落ち着いて話してね」
声からすると、さきほど見逃しそうになった中年女性だろう。細い腕はこの女性のもので、ティアナを支えてくれたようだ。かなり機敏に動かなければティアナの後ろに回り込むなどできないのに、すごいなあとティアナは思った。
「マチルダ、この子お話があるみたいよ」
大丈夫ねと優しい目でティアナを見てから、中年女性は呼びかける。配達箱を受け取ろうとしていたマチルダが、ティアナの前まで戻ってきた。
「ポールはレンサにいる」
まるで何かに突き動かされでもしたかのように、つるりと言葉がこぼれた。ぽかんとティアナを見下ろすマチルダを認識してから、ティアナは自分が何を言ったかを考える。あの老婦人は大臣閣下に伝えてと言って行った。考えてみれば確かにティアナが伝えるべきは大臣であって長官ではない。ここは勢いではなくきちんと話すべきだと気を取り直したティアナの前に、マチルダが膝をつく。
「話を聞かせてもらってもいいですか? 実は、今あなたが言ったのと同じ情報を別方面から仕入れています。かなり確からしい話なのですが、あなたの証言を合わせて確信を持ちたいのです」
学校を卒業したばかりの少女のようなふんわりした頬の線に緊張感をにじませて、マチルダはまっすぐにティアナを見る。ああこれは大事な話だとティアナもすぐに悟った。夕食が冷めてしまうのは気になるが、とにかく知っていることを話さなければ。
冬の太陽はあっという間に沈み、あたりに暗闇が満ちてきた。マチルダの連れの一人が光球を作って浮かべる。その青白い明かりに照らされて、ティアナは自分が見たものの一部始終を話した。一度話したからだろう、長官たちに話したときよりももっと短くまとめて話すことができたように思う。
「ありがとうございます」
ティアナがすべてを話し終えると、マチルダは丁寧に頭を下げた。柔らかでふわふわの髪が風になびく。ティアナはふと、グレンヴィルを思い出した。法務庁長官もまた、話し終わったティアナに礼を述べて頭を下げてくれた。ああ、やっぱり大人は違うとティアナは思う。地位が高くても小娘相手にきちんと礼を尽くすことができる。
「冷えてきましたね。もう立っても大丈夫ですか?」
膝を払って立ち上がり、マチルダはティアナに手をのばす。重いものなど持ったことのない柔らかな手を予想していたのに、わざわざ手袋を外して差し出してくれた手は硬く厚かった。そうだこの人は男の人だったのだと、ティアナは今さらに思い出す。
「わたしも、ポールさまを助けに行きたいです」
ティアナの後ろに控えたままの女性に預けて背を向けかけたマチルダに、ティアナは勇気を持って申し出た。もちろん駄目だと言われるのはわかりきっている。それでももしかしたらと思える隙のようなものがあって、ティアナはすがるようにマチルダの背中を見つめた。
「ありがとうございます。とても助かります」
つまさきをティアナに向けて体ごと振り返って、マチルダは目を細める。花が咲きこぼれるような笑みというたとえがあるが、まさしくこれを言うのではないかとティアナは思った。頬がほんのりと赤みを帯びていて、左の頬にえくぼが浮かぶのが本当に愛らしい。思わず別のことを考えてしまうほどに予想外の反応に、ティアナは逆にぽかんと口を開ける。
「でもごめんなさい。ティアナさんを連れて行くことはできません」
マチルダはすっと頭を下げる。
「死霊使いのあなたの力を借りられるなら、状況的に、これ以上ありがたいことはないんです。とても魅力的なお申し出だと思います。でも、伺ったお話から考えると、現地では刃傷沙汰になる可能性が高い。残念ながらそこであなたを守れるほど、私は手練れじゃないんです」
一息に言ってマチルダは顔を上げる。
天覧試合で現国王に次ぐ二位の成績を収めて大臣になった人が何を言うのかとは、思わなかった。代わりに思い出したのは、二十年前の地震でなんとか助けた妹の命がまた危機にさらされているという老婦人のことばだった。ティアナの言葉をマチルダはきちんと受け止めてくれている。修行もしていない声を聞くだけ姿を見るだけの死霊使いに何ができるだろう。
「私はこれからポールを助けにレンサに行きます」
レンサは、リナレアから西に車で二日行ったところにある。ポールの出身地であり、二十年前に大地震に襲われ壊滅的な被害を受けた町の名であるとソワンは言っていた。ふとそれを思い出し、老婦人の言葉を考えて、ティアナはひやりとする。ポールの命が危機に晒されているのは今で、到着にはどう考えても二日を要するのでは、絶望的ではないか。
「心配は要りません。秘密の抜け道を使うので、時間はかからないんです」
秘密を打ち明けるように小声でマチルダはティアナに教えてくれる。ようやくティアナは口を閉じてマチルダの顔を見上げた。マチルダはちょっと後ろを振り返る。正確には、その一人が持っている配達箱を。
「これから私は、悪さをするんです。だからあの食事をお借りしてもいいですか?」
「悪さ、ですか?」
「そう」
マチルダはいたずらをする子どものように笑う。
「先ほどの話で決心がつきました。刃傷沙汰になったときにおれの背中を守れるのは、長官じゃないんです。気心の知れたこいつらなんです。だからおれは、これから長官たちに、友達を連れて現地に乗り込むと伝えに行きます。こんな時間まであらゆる方策を尽くしてポールを探してくれている長官たちにですよ? ひどいですよねえ」
マチルダの大きな目に罪悪感のようなものが過っていった。そんなことないですと根拠もなく否定したくなるのをティアナはこらえる。マチルダのしようとしていることは確かに非礼なのかもしれない。でもあの四人の長官であれば、それでもそれを呑むだろうとティアナは思った。
今、ティアナは、長官たちが無能な死霊使いであるティアナと疲弊した魔術師であるソワンを守ろうとして遠ざけた可能性に思い至っている。彼らなら、冗談めかして言うマチルダの本心にも気づくだろう。相手の狙いがマチルダである以上、マチルダは現地に赴かざるを得ない。国王、大臣補佐に次いで大臣まで不在のシェトラを担うのは、長官たちである。彼らを守り、また同時にマチルダを守るためには、マチルダに優しい視線を向ける四人の古馴染みを同伴するほうが確かに良いのだろう。
「だいじょうぶです。長官たちはきっとわかってくださいますよ」
ゆっくりと考えてからティアナはマチルダに声を掛けた。同じことを言うにしても、考えてから話すと声が違う。マチルダは大きな目を見開いてから、何も言わずにうなずいた。
「お残しは承っておりませんと、長官にお伝えください」
裏口の三和土から一歩外へ出て、ティアナは背中に回した手を結ぶ。
「七人分の夜食を準備してお待ちしています。お帰りになったら一度宿舎へみなさんでおいでください」
マチルダの後ろで一人が指折り数える。マチルダ、そして四人の男性と一人の女性。そこにポールを加えれば七人だと確認して、大きくうなずく。
「行ってらっしゃいまし」
「はい。行ってきます」
本当の出発はここではなかったが、ティアナは六人が法務庁庁舎へ入っていくのを見送った。
空には星が輝いていた。




