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第3章(3)

「それで、何があったのですか?」

 ショーンと二人で部屋に入ってきたなり、ニースは切り口上で尋ねた。四角く彫りの深い顔は昔と変わらないが、眉は手入れされて細くなっている。一目で上等だとわかる仕立ての服に身を包み、週休日だと言うのに縹色の前垂れをしっかりつけている。

 ティモシーの自宅の居間である。

 ティモシーから鍵を預かって、マチルダはとりあえず居間を片付けた。ティモシーの両親は鍔を細工する職人である。屋号のノゲシはティモシーの父の名だが、それよりもよく知られているのはティモシーの母で、精緻で繊細な細工が高く評価されている。職人気質で作業に入ると納得できるものができるまで二晩でも三晩でも工房に籠もったきりの二人に代わって、マチルダはログとティモシーと一緒によくこの店の店番をした。損得に疎い二人の代わりに父に教わり見よう見まねで貸借表をつけた。おかげで数字に明るくなり、ついでに、高級菓子の置き場所から小母さんのへそくりの隠し場所まで、ティモシーの家のことには詳しくなった。

 雪が積もるような冬だというのに、居間には籐椅子が並んでいた。長卓も玻璃でできた涼しげなもので、どちらも夏向けの家具である。小母さんが忙しいのかそれとも趣味なのかはマチルダには判断がつかなかったが、とにもかくにも四人が座れるように片づけを始めた。

 そうして――そんなに待ってはいなかったと思う。

 ガチャリと扉が開いて、人の入ってくる気配がした。もしかしたらティモシーの両親かと思ったが、どうも違うらしい。一人が台所に行く足音がして、くつろいだ様子で居間に顔を出したのがニースとショーンである。恰幅の良いニースと対照的にショーンは細身で、ついでにやっぱり眠そうで、刈り込んだ短い髪が良く似合っていた。マチルダはショーンを呼んでくれと頼んではいなかったが、先ほどの話の流れから一緒に来るだろうなと思っていたのでさほど驚きはしなかった。

「一年ぶりに会ったっていうのにそれかよ。まずは挨拶だろ?」

 壁に打ち付けられた釘にまっすぐ歩み寄り、ショーンは脱いだばかりの外套を掛ける。二人にとっても、ここは勝手知ったる他人の家というやつだ。ショーンがニースと呼ぶと、ニースは脇に抱えていた外套を差し出した。慣れた動作でそれを釘にかけてから、ショーンはニースの隣に戻ってさわやかに笑う。

「お久しぶりです、大臣閣下。今日はご召喚いただきまことにありがとうございます」

 グレンヴィルがリナフィーにしたような優雅な臣下の礼を取ってショーンが頭を下げる。右手で押さえつけるようにニースの頭を下げさせるのも忘れない。予想外のことにマチルダが戸惑ってぽかんとしていると、ショーンは顔をあげてにやりと笑った。

「俺とティモシーを除け者にしようとしたんだってな? おまえがやろうとしていたのはこういうことだってわからせてやろうって、ティモシーと道すがら相談してた」

 実際いやだったろ? とショーンは椅子に腰かけながらマチルダを見上げる。うん、とマチルダは素直にうなずいた。

「一年近く帰ってこなかったおまえが抱えていることが仕事がらみの困難であることぐらい、おそらくログでも想像がつくぞ? 俺たちにはまだ社会的地位なんてないけど、友達が困っているときに助けられる手は二本持ってる。だから、遠慮なく頼れ」

 な? とショーンが振り向くと、ニースはゆっくりとうなずく。何があったんです、とニースは今度は穏やかにマチルダに尋ねた。

 ニースの正面の椅子に腰を下ろし、マチルダは組み合わせた指先を見る。ティモシーは二人にどこまで伝えて呼び出したのだろうと考えてから、おもむろに顔をあげた。

「ポールが、いなくなったんだ」

「ポールって、あれか? あの巨乳」

「そ。あのおっぱいの大きい娘」

 足で扉を開けて入ってきたティモシーが、どこから話を聞いていたものかショーンの問いに即座に応じる。両手で茶器の乗った盆を持っているから仕方ないとはいえ、自宅だから許されるのかもしれないけれど、それにしても足で扉を開けるのはないんじゃないかとか、またもポールを身体的特徴で記号化して呼ぶのかとか、一瞬でいろいろな思いが込み上げてきてマチルダは目を見開いた。ニースも同じように呆然とマチルダを見ている。ティモシーが全員に茶を淹れるのを見届けてから、マチルダは顔をしかめて二人に問うた。

「おまえらなんでポールというと胸の話になるんだ? 他に言うことがあるだろう」

「いやおまえ、おまえも男だろう? マチルダ」

 驚いたようにティモシーと顔を見合わせて、口を開いたのはショーンだった。

「女の胸にはこう――男の夢が詰まっているわけじゃないか。目の前であんなにゆっさゆっさ揺れてみろ。男なら顔より先にそっちに目が行くだろう? 物理的に反応するだろう? “マチルダが連れてきたあの子”がいつの間にか“あの乳の子”になっても、仕方ないじゃないか」

「いや、無理があるだろうその理屈」

「あのね」

 茶器を茶卓にカタリと置いて、ティモシーがゆらりと立ち上がる。目鼻立ちのはっきりした顔に満面の笑みを乗せて近づいてくるその様子には、得も言われぬ迫力があった。

「オレたちがポールに出会ったのはいくつのとき? そのときマチルダは何してた?」

 背もたれいっぱいに後退して、マチルダは考える。質問の意図がわからないけれど、それを訊き返すのは得策ではない。ここは素直に答えるべきだろう。

「ポールを紹介したのは、ポールがうちに下宿することが決まってからだから――おれが十五のとき? 大臣の研修が始まって官邸に住み込むことが決まったときだ」

「そうだねえ」

 がっと音を立ててティモシーはマチルダの椅子の背もたれを掴む。マチルダを抱え込むようにして上からさらに尋ねる。

「マチルダが十五歳ということは、みんなが学校を卒業した年だね。なかなか会えなくなるっていうときに――ポールが来たんだ」

 ティモシーはマチルダに顔を近づける。まつ毛が数えられるのではないかというほど接近して、青い目を覗き込む。

「それはね、理屈はわかるよ。ポールは地方の出身で、車を使っても片道二日はかかるところにはそうそう帰れない。部屋の空いているマチルダの家に下宿させてもらうのは仕方ないよね。同僚だもの」

 でもさ――と、ティモシーは唇を歪める。

「たまの休日、おれたちが莫迦をやるのを邪魔する権利はないと思うんだよね」

「邪魔?」

「マチルダを誘いに行くと、何の用って言うんだよ。遊びの誘いに来たと言うと、どこに行くの何をするのとしつこく聞く。適当なことを言うと一緒に行くと言って、断ると男女差別だっていう。女の子は連れて行けないことをするんだと言えば触法行為はいけないと説教されて――極めつけは夏の恒例の野営だよ」

 マチルダが十歳の夏だったように記憶している。ログの両親が河原に天幕を張ってくれた。野外で食事をとるのが楽しくて、マチルダたち子どもはそのままここで寝たいと駄々をこねた。おおらかな人柄のログの両親はいいぞと言って寝袋を用意してくれた。――実際は蚊に刺されて散々だったのに、なぜかマチルダたちは気に入って河川敷での野営を恒例行事にした。天幕を張るのも火を起こすのも子どもたちだけでやるのは大変だったけれども楽しかった。マチルダが研修に出てからもそれは続いた。マチルダはそのためだけに休みを取ったほどだった。

「家があるのに外で寝るなんて意味がわからない――本気で腹が立った」

 作り笑いをやめたティモシーが吐き捨てるように視線を逸らす。

「一緒にやろうと誘っても固辞するばかりで、ホント、邪魔だとしか思えなかった」

「あの娘がレンサの出身だと聞いたのは、その後だった。シュルクーズの小父さんが、ポールは一晩中心配そうに見てたって教えてくれたんだ。二十年前の地震で家をなくしてお兄さんさえも亡くしたポールにとって、野営っていうのは特別な意味があることだった」

 唇を噛んで背を起こしたティモシーの言葉を、ショーンが引き取る。

「あのときはオレたちも子どもだったからさ、行動の理由は楽しいか楽しくないか、それだけだった。みんなでつるんでイタズラをするのが楽しくて、それが他人にどう見えるかなんて考えてもみなかった」

「あの日から――僕たちにとってポールは、特別な娘になったんです」

 全員の言葉を代弁するようにニースがしみじみとこぼす。マチルダの目の前のティモシーはいかにも悔しそうに唇を噛んでいて、マチルダはそっとその手を取った。

「そっか。……みんながポールを大事に思ってくれていることはわかった。ありがとう」

 マチルダはまずティモシーに、そして全員にと二度頭を下げる。でも、と顔をあげた。

「それとポールの胸が大きいことは、何の関係もないだろう? ていうかむしろ今は、別の話をしたいんだけど」

「おまえ――本当に、男か?」

 呆れたようにショーンが顎を落とす。深々とため息をついて先を引き継いだのはニースだった。

「ショーンもティモシーも、猥褻目的の略取を疑っているんですよ」

「猥褻目的?」

「そうです。状況はわかりませんが、ポールはいなくなったのでしょう? 猥褻目的で男に連れ去られていたとしても、不思議はないと思うんです」

「いや――え?」

 驚愕はゆるゆるとやってくる。座っているのに立っていられないような感覚に襲われて、マチルダは背もたれに全体重を預けた。渋面を作るティモシーの顔をすがるように見上げる。

「おれだってもう十九なんだから、公道でおっぱいなんて言っちゃいけないくらいの分別はあるの」

 それは――符丁だった。

 最初にそれを言い出したのがログだったので、マチルダは気づかなかった。ログは昔から周囲の状況を気にしなかったので、そういうものだと思っていた。ログが剣術の専門教育課程で師範を任されるまでになっていたことの意味を、理解できないでいた。

 これは、マチルダの失態だ。

「マチルダは、ポールが自分の意志で失踪したと思ったんでしょ?」

 ティモシーがきゅっと眉根を寄せてマチルダの顔を心配そうに覗き込む。蒼白になりながら、マチルダはうなずくだけでそれを肯定する。お茶を飲んだばかりだというのに、のどがからからに乾いて声が出ない。

 そんなことはないとリナフィーが言ってくれた。マチルダ自身も信じようと思った。だから今は、ポールの失踪についてはほとんど心配していない。ただ、自分がこのことについてしっかり考えられないことだけは自覚している。グレンヴィルに言われなければポールが生きていないことすら想像できなかったほどに、マチルダは思考能力を失っている。

 だから――見逃していた。

 ポールは政治的な理由で略取されたのか事故に巻き込まれたのかの二択だと思っていた。ポールが女性だというだけで狙われる可能性があるなんて、考えもしなかった。

 一刻も早く見つけないととグレンヴィルが言っていた本当の意味を、マチルダはようやく理解する。

足元から震えが這い登ってきた。がたがたと震えるマチルダをティモシーが抱きしめる。両親が家に戻ってこなくて泣くティモシーを、マチルダは何度もこうして抱きしめた。まさか立場が逆になる日が来るとは。

「とにかく探そう」

 ショーンがきっぱりと言い切る。ニースが深くうなずく。

「正攻法で探しても見つからないならニースに頼れってログが言ってたって。ニース、心当たりはある?」

「心当たりがないわけでもありません。なぜログがそれを知っているのかは疑問ですが」

 カタリと音を立てて茶器を茶卓に置いて、ニースは足の間で手を軽く結ぶ。

「マチルダ。落ち着いてからで良いので、状況を教えてください。僕はポールを助けたい」

「ポールは忽然と姿を消した。だけどそこには空間の歪みはなかった。それなのに跡形もなく姿を消して、しかも魔力探知には引っかからなかった」

 ティモシーの腕の中からマチルダは答える。喉が枯れているかのように声は嗄れていた。それでもなんとか伝えてそっとティモシーから離れる。ニースの隣でショーンが椅子から腰を浮かした。

「それって――思ったよりも状況は深刻じゃないのか?」

「もし、ポールに万一のことがあれば『人類の女王』が警告を下さるだろうと仰る方がいるから、おれはポールは生きているとは思っている」

「ああ、そうか……。ポールは大臣補佐だもんな」

 何度もつっかえつっかえマチルダが説明すると、ショーンは気が抜けたように腰を下ろした。その動きを横目で見て、ニースがおもむろに口を開く。

「マチルダ」

「なに?」

 ティモシーがお茶を足してくれた湯呑で口を潤すと、なんとか声が出た。ニースは唇を舐めて、マチルダを見る。

「どこまで知られていい?」

「どこまでって――」

「ポールがいないっていうことをあまり知られたくないから、僕だけに話を絞ろうとしたんだろう? でも、話を聞く限り、状況はマチルダの予想よりもずっと逼迫している。ポールを無事に取り戻すためには、ある程度情報を広めなければならない。それはわかりますね?」

 慎重にことばを選ぶニースに、マチルダは微笑んでみせる。

「ログが、オレたちの友達のポールを探す分にはどこまで知られても問題がないだろうって言ってた。もしそれが可能ならば――ポールが大臣補佐だってことさえ伏せられるならば、あとは任せるよ。おれはこの通りで、判断力がないんだ」

 干した湯呑にティモシーが白湯を足してくれる。温かみだけがあるそれをゆっくりと流し込んで、マチルダは正直に告白した。ニースの隣でショーンが笑う。

「わかった」

 ニースはうなずき、外套から虹色に輝く金属板を取り出した。


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