第2章(4)
目を開けると、知らない天井があった。
ここはどこだろう――ティアナはぼんやりと天井を見上げる。粉が吹いたような石の天井は、見慣れた自室の天井とは似ても似つかない。明かりが消えるとぼんやりと星空が見える壁紙は、ティアナのために特に祖母が選んでくれたものだった。住み慣れた実家を離れてもうすぐ一年、女房宿舎の天井にはまだ馴染まない。
「気分はどう?」
ゆっくりとまばたきを繰り返すティアナの顔を、見知らぬ女性が覗き込む。女房衆としてはちょっとトウがたちすぎている妙齢の女性で、ティアナの母よりもおそらく年上だ。長い髪が細面を縁取り、ぽってりとした唇に差された真っ赤な紅が目を引く。ああ、「婀娜っぽい」だとティアナは思った。こんなに肉感的な人、女房衆にいただろうか?
「失礼」
女性はティアナの額に手をのばし、それから下まぶたに親指で触れた。まぶたの内側を確かめた手が耳の後ろに回り、人差し指と中指で首を押してから投げ出したままの右手を取る。その動作が脈を取る動作だと気づいて、ティアナは首を傾けた。
「お医者さん?」
「そう。あなたはしばらく気を失っていたの。どこか痛いところはない?」
女医はそっと手をのばし、ティアナの髪を撫でる。その動作がまるで祖母のようで、ティアナは安心してだいじょうぶと答えた。柔らかに撫でる女医の手が心地よく、再び眠気が覆いかぶさってくる。
――あんたが、
眠りに落ちる直前、瞬間的に背筋が寒くなってティアナは布団の上に起き上がった。女医は驚いたようすもなく、ティアナの手を握ったままそっと見守っている。その手のひらのあたたかさにすがりながら、ティアナは、ここが見慣れぬ場所であることをやっと認識した。
女房宿舎の自室には、使い慣れた家具を運び込んだ。
壁紙は白で殺風景だったけれども、王宮や官邸から下げたまだまださかりの花を一輪もらってきて生けると、そこだけ光が差したように見えた。同期採用の仲間たちから借りた恋愛小説が机の上には積んであるはずだし、壁には国王陛下の御真影も飾ってある。こんな、石がむき出しの柱に囲まれた部屋は、断じてティアナの部屋ではない。
「ここは――」
「法務庁庁舎一階の医務室よ」
桜色に光る指先で、女医がティアナの髪を掻き上げる。顔にへばりついたいくつかを取って、耳に掛けた。
「あなたは除雪中に倒れて、今まで眠っていたの。……覚えている?」
「はい」
部屋を見渡して、ティアナは学校の教室を思い出した。窓が大きく取られたこの部屋は南向きなのだろう、昇り詰めようとする太陽がまぶしい光を投げかけている。窓枠は金属製、壁は石がむき出しの無機質な部屋で、明かりも行政庁舎で使われるごくあたりまえのものである。窓際には机と椅子があり、中央には大きな円卓と丸椅子が置かれていて、壁に頭部をくっつけるようにした天蓋つきの寝台が二つずつ合計四つ置かれた部屋は、言われてみれば診療所のようにも見える。
「あの」
かたかたと、身体が震える。寒いわけでもないのに止まらなくて、ティアナは両手で自分を抱きしめる。細い息の間から、恐る恐る尋ねた。
「ポールさまは、どこ……ですか?」
「ポールさま?」
側机を引き寄せて、女医はごりごりと薬の調合を始める。慣れた動作で湯呑にさらさらと薬を溶かし、ほんのりとあたたかなそれをティアナの両手で握らせる。
「心が落ち着く薬よ。私が診察したのはあなただけ。ポールさまってどなた?」
震える両手で湯呑を包み込み、ティアナは首をかしげる女医を見つめる。自分がどこに驚いたのかわからなくて、笑う女医の顔をただ見つめる。ああそうだ、どうしてこの人はポールさまを知らないんだろうと思い至ったころに、扉が三度叩かれた。
「はい」
ちょっとごめんねとティアナに挨拶をして、女医が扉を開けに行く。細く開いた扉の向こうには、二人の人影が見えた。ぼそぼそと小声で会話が続く中で、教育庁長官を使い立てしてはいけないよメアリという男の人の声が聞こえてくる。そうおとのんびり応じたことから察するに、女医の名前はメアリというようだ。
「ねえ? あなたに話を聞きたいという人がいるのだけど」
来訪者を扉の外に締め出したまま、メアリは背中越しにティアナに尋ねる。話? と困惑するティアナに艶やかに笑いかける。
「わたしはただの医者だから、これ以上立ち入った話を聞くわけにはいかないの。あなたがさまをつけるくらいだから、きっと立場のある人なのでしょう? 法務庁長官と教育庁長官が来ているから、その人たちに訊いてみない?」
「え? ……あ、はい」
状況がつかめないながらにティアナがうなずくと、メアリはがらりと扉を開けた。にこやかな笑みを浮かべたままこちらを見た白髪交じりの男性が、笑顔のままでぴしゃりと扉を閉める。
「若い女性がまだ寝台にいらっしゃるのに、男を通す人がありますか!」
「そうお? わたしは気にしないんだけど」
「フレデリク長官はまだ独身なんですよ? 目の毒じゃないですか。……もしかして、まだ寝台から動かすことはできないとか?」
今度のやりとりはティアナにもよく聞こえた。どうなるのかと見守るティアナの目と、振り返ったメアリの目が合う。動ける? と問われた気がしたので、ティアナは湯呑を側机に置き、寝台から立ち上がる。買ったばかりの長靴がすぐそばにあったのがちょっと嬉しかった。
「できれば二階の小会議室に場所を移したいのですが、階段を登らせても大丈夫ですか?」
「たぶん大丈夫よ。でも、念のため、介添えがいたほうがいいわねえ」
立ち上がったときに少しくらりとしたものの、一歩、二歩、とティアナは歩くことができた。大丈夫と伝えたかったが、メアリは振り向かない。代わりに、セシル長官を呼んできますと駆け出す若い男の人の声が聞こえてくる。お願いしますと答えて、では上で待ちますともう一つの足音が遠ざかっていく。
「いやあねえ、男ってのはうるさくて」
長い髪をかきあげて、メアリが振り返る。ティアナの隣をすり抜けると、側机に置いてあるこまごまとした道具を片付け始めた。適当にやっているように見えるのに、細かな道具があるべきところに次々と収納されていく。職業柄、片付けには興味があったので、ティアナはそれを食い入るように見つめた。
「ティアナ!」
女医が机を手ぬぐいで拭き清めはじめたころに声がして振り向くと、髪をふり乱したソワンが立っていた。そのそばには、作業着を着たすらりと背の高い――女性が立っている。肩までのまっすぐな髪を耳にかけ、右目に単眼鏡をかけた印象に残る風貌をしている。
「気分はどう? どこも痛くない?」
ティアナの二の腕をがっちりと握って、ソワンは早口にまくしたてる。
ティアナの知っているソワンは、もっと落ち着いた女性だった。採用されたばかりのティアナの手元をじっと見るだけで、決して手伝ってくれることはない。ただ、どこをどうすればいいのかを、しつこく繰り返すだけの――冷たい人だと思っていた。まさかこんなふうに涙をぽろぽろとこぼすなんて、思わなかった。
「大丈夫です。ソワンさんこそ、その……」
「わたしは大丈夫。どこも痛くないわ」
涙をたたえた目を細めて、ソワンは微笑む。よく見ると乱れているのは髪だけではない。いつも隙のない格好をしているのに、化粧は剥げているしリボンは傾いている。きっとティアナが寝ている間に何かあったに違いないのに、ソワンは何も言わない。
「ごめんなさいね、急に握ったりして。びっくりしたわよね」
医師、ありがとうございました――荷物をまとめて出て行こうとするメアリにソワンは丁寧に頭を下げる。メアリは片手をあげるだけでそれに応じて、入り口の女性と二言三言話して姿を消す。
これが大人なんだと、ティアナはわかった。
五歳の夏、お祭りの帰り、足が痛いとティアナは駄々をこねた。祖母は少しだけ困った顔をして、小さな背中をティアナの前に出してくれた。ティアナは大喜びで祖母におぶさり、そのまま眠ってしまった。後から聞いた話では、祖母はこのとき足を挫いてしまったのだという。それでもティアナを起こさずに、家に連れ帰ってくれた。
自分の痛みよりも、自分以外の誰かを大事にできる人を大人と呼ぶ。そしてティアナは年齢的には大人になったから、こうして働いて糧を得ることを許された。早起きがつらい寒いのはイヤだ掃除なんて面倒だと駄々をこねるために女房衆になったわけじゃない。
「ティアナ? だいじょうぶ?」
ぼろぼろぼろと、涙が一気にこぼれた。心配そうに覗き込むソワンに、ティアナは笑いかける。
「あたしは大丈夫です、ソワンさん。でも――ポールさまは、御無事ではないのでしょう?」
ソワンが言いよどむ。それが答えだ――女医の反応から察しがついていた。
自分のせいかもしれないと思う。口に出してそんなことはないよと言って慰めてもらいたい。でも、ティアナは大人だ。今この瞬間から、大人になると決めた。だから代わりに、ソワンの目をまっすぐに見る。
「あたし――じゃなかった。わたしが知っていることをお話します。二階の小会議室に連れて行ってもらっていいですか?」




