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第2章(3)

 リナフィーが起案文書に署名する決裁日は、月に二度設定されている。

 長官でも大臣でもなく国王が署名しなければならない文書は、実はそう多くない。旅に出る前に国王は大臣や長官にその権限の多くを委嘱していった。外国との文書であれば国王の署名は必須だが、今は世界中が混乱のさなかにあって交流自体が少ない。国内でも本当に大事な事柄については可能な限り国王の帰還を待つことにしているので、リナフィーが署名する文書は平均して一度に三十程度になる。

年齢(とし)だわ」

 机の上の電信機をまじまじと見つめて、リナフィーは人差し指と親指で目の間をもみほぐす。

 国氏の署名を要するような重大事案の審議は、たった一日では終わらない。文書は電信機で各庁・大臣と共有できるようになっていて、主旨説明や質疑応答は電子上のやりとりで行われる。マチルダが持ってきた紙媒体の文書に署名をする前にもう一度記録を読み直すのが、リナフィーの署名前の習慣である。

「電信機をずっと眺めていると、私も目がちかちかしますよ。もう半分まで来たことですし、そろそろ休憩をおとりになったらいかがですか?」

「んー。目がちかちかするというより、細かい文字が見えにくくなっているのよねえ。そういうお年頃なのね」

「もしかして、老が――」

 リナフィーがにっこり笑って振り返ったので、マチルダは慌てて口を覆った。壁際まで後退してから、首を傾げて尋ねる。

「文書投映にしたらいかがですか? 文字が大きくなりますよ」

「それだと、連絡が来たときにほんの少しだけど反応が遅れるじゃない。だから、これでいいの」

 首を回し、リナフィーは手のひらにすっぽり収まる大きさの電信機に目を落とす。蟀谷を手首で押さえながら目で文字を追うその横顔には、リナフィーが言うとおり年齢相応の疲れが濃い。

「ポールは見つかるよ、マチルダ」

 心の中で頭を下げるマチルダを見透かすように、リナフィーは顔を上げずに語りかける。

「ポールは見つかる。……見つける」

「ポールがどうかしたんですか?」

 リナフィーの優しい声にうなずきかけたマチルダは、唐突に横から聞こえた声に顔をしかめた。あたたかい空気が流れてきて、少しすっぱい汗のにおいが鼻をつく。見るとまるで道場の光を背負うようにして、小首を傾げるログの姿があった。表情は逆光ではっきりとは見えないが、後ろには心持ち背を丸めたクリウの姿がある。

「ログ! ここは立ち入り禁止だぞ?」

「うん。いや、無事ならいいんだ。いいんだが――」

 振り返ったリナフィーが無言で机の上に突っ伏して書類をかき集める。今回持ってきた書類は機密度が高いものはなかったように記憶しているが、それでも一市民の目に触れさせて良いものではない。体で隠すリナフィーの行動は咄嗟の判断としては正しいように思われたが、しかし相手が悪すぎた。

「大丈夫ですか、リナフィー師?」

「待てログ! それ以上近づくな!」

 大股に歩み寄ろうとするログとリナフィーの間にマチルダは慌てて割って入る。身長があまりにも違うのでログはマチルダの頭越しに書類を覗き込もうと思えばできたはずだが、足を止めてマチルダの頬に手をのばした。

「試合を中座したままだから、何事かと心配したぞ。こんなに鼻の頭を真っ赤にして、何してたんだ?」

「何って……」

 ログの指は確かに温かく、見上げた表情は心配の色が濃かった。なるほど言われてみれば試合途中に電信で呼び出されたままだったのも事実で、放っておかれたら気をもむのはあたりまえかもしれない。

 マチルダは目を閉じた。深呼吸してから、ログを見上げる。

「いや。……確かにログの言うとおりだ。試合を中座したままだったんだから、対戦相手にも失礼だよな。説明を――」

「うん。それでリナフィー師。ポールがどうかしたんですか?」

 ログを近づかせないようにだろう、いつの間にかリナフィーは紙束を揃えて背筋をのばしていた。いつもと変わらないまま超然と小首を傾げるリナフィーに、ログは三歩近づく。視線を交わしてリナフィーにログを任せ、マチルダは扉へ――武道場へ向かう。

「ポール? 誰?」

「ポール――ええと、姓は何だったかな? 名前は男だけど、女性なんです。それはもう、立派な胸で、一目で女性だって納得できます。いや、オレはどちらかといえば二の腕派なんですけど、あの形の良い胸を見たときは一瞬ぐらっと来て、胸派に転向しても良いかなと思ったぐらいなんですよね」

 よく通る大きな佳い声でログが語るのを背中で聞いて、マチルダは心の中でリナフィーに詫びる。さすがのリナフィーもログの反応は予想外だったらしく、ああ、そうなの……? と気の抜けた返事をするばかりだ。

「ご心配をおかけして申し訳ありません、クリウ師」

 マチルダは扉のそばに立つクリウに頭を下げる。こちらこそ、とクリウは逆光の中ゆっくりと首を振る。

「ケネルファス師があまりにもご心配なさるので、扉を開けてしまいました。私を信用して預けてくださったのに、これでは申し訳が立たない」

「いえいえ。クリウ師には本当にご負担をおかけしているのですから、こちらこそ、今後ともどうぞよろしくお願いいたしますとしか。……幼馴染の私でも、実は、ログに押し切られてしまう自信があります。あの顔で説かれると、なんとなく理があるように思えてくるから不思議です」

「はい。……いや、本当に申し訳ない」

 くすくすと笑いあってから、クリウはうなだれるように頭を下げる。頭を上げてくださいと困惑するマチルダにもう一度深々と詫びてから、クリウはおもむろに弟子の名を呼んだ。セリアという耳に覚えのある音を聞いて、マチルダはそういえばそういう名だったと対戦相手を思い出す。

「本日は、ありがとうございました」

 マチルダが口を開くより早く、セリアは深々と頭を下げた。あの、と困惑するマチルダの前でうなじが見えるほど頭を下げてから、顔を上げる。その表情は驚くほど晴れ晴れとしていた。

「正直、あの電信に救われました。私ではまだまだあなたには敵いません。剣を合わせてくださったおかげで、己の未熟さがわかりました。おかげでまた練習に身を入れることができます」

 ありがとうございました、とセリアは頭を下げる。その顔が上がるのを待って、マチルダも小さく頭を下げた。

「こちらこそ、緊急事態だったとはいえ、何の説明もなく離れてしまい申し訳ありませんでした」

「リナフィー師は最初から、大臣が公務でいらしたと仰っていました。ですから問題ありません」

 ふんわりと汗のにおいを漂わせて、セリアが微笑む。額から流れる汗が涙ぼくろを通り過ぎていく。ありがとうございます、とマチルダは微笑み返す。

 剣を合わせたからこそ己の未熟を悟ったのだとセリアは言っている。己の実力と相手との差を把握できるほどに修練を積んでいるから到達できる境地である。セリアがそこまで言うのならば、今さらマチルダに言えることは何もない。

「いずれ機会がありましたら、ぜひまた――」

 ルルルルルルル――

 裾で汗を拭った手のひらをセリアが差し出した瞬間だった。マチルダが握手に応じようと手を動かす間もなく、無機質な電子音が響き渡った。マチルダとセリアは顔を見合わせ、何とも間が悪いですねとどちらからともなく言いあう。ぜひまたとセリアは言って、隣のクリウに頭を下げた。クリウはうなずき、セリアは何事かと手を止める弟子たちに気合を入れる。マチルダも同じようにクリウに頭を下げ――

 ログを見つけた。

 すらりと伸びた背中に大剣を背負ったログと、電信機を手に持ったままのリナフィーは、まるでそこだけ時が止まってでもいるかのように向き合っている。電信機の呼び出し音だけが、断続的に二人の間に響いている。

 マチルダは目を閉じた。武道場で剣を合わせる剣士たちの足音が耳朶を打つ。耳に心地よく響くその音にじっと聞き入って――腹を括る。

「リナフィーさま、応答してください」

「いいのね?」

「はい」

 リナフィーの問いに短く応じて、マチルダは振り返ったログを見上げる。

 クリウがそっと扉を閉める。

「ログ。おれは腹を括った。……何の覚悟もなく首を突っ込むほど、おまえは愚かじゃない。そうだよな?」

「オレはおまえを、大事な友達だと思っている。――ポールもだ」

 ログが口元を持ち上げると、造りものめいた顔に急に人間味が差した。その目をまっすぐに見つめて、マチルダはログの横を通り抜ける。

 マチルダはリナフィーの隣に立った。すぐさまリナフィーは電信機を操作して机の上に安置する。光の粒が躍るように現れて、やがて一つの像を結んだ。

「お待たせして申し訳ありません」

 光が映し出したのは、五十がらみの男性だった。目元口元に笑い皺があるいかにも穏やかそうな丸顔の男性で、白いものが混じり始めた癖のある髪を丁寧に頭に撫でつけている。鼈甲縁の眼鏡をかけ、平服に身を包んだ彼の名を、法務長官グレンヴィルという。

『いえいえ、こちらこそご連絡が遅くなり申し訳ありません。……申し遅れました、リナフィー様。わたくし、法務庁長官を拝命しておりますビル=グレンヴィルと申します』

 グレンヴィルはマチルダに頭を下げた後、リナフィーを見つけて恭しく臣下の礼を取った。三十年以上の勤続歴を誇る官吏らしい、いかにも丁重な礼である。まっすぐに用件を切り出したスタンリーとは対照的だなとマチルダは思った。

『結論から申し上げますと、大臣補佐は行方不明になったと考えて差支えがないように思われます』

 これは長くなるぞ――官吏たちの枝葉の多い説明を思い出して構えていたマチルダは、いつもの笑みを消して短く言い切ったグレンヴィルのことばにただ驚いた。こんな厳しい表情もできるのだと、口角を下げて唇を引き結ぶグレンヴィルを見つめる。

 どこから説明をすればよいのでしょう――まるでそこに答えでも書いてあるかのように、グレンヴィルは目を伏せて一点を見つめる。心をざわめかせるものを落ち着かせるように長いこと沈黙する彼に助け船を出したのはリナフィーだった。

「長官は、わたしが三回攫われたことは知っている?」

『はい』

 ぴくりと身じろぎして目を見開いて、グレンヴィルはうなずく。

『はい。現職に着きましたときに、記録を見ました』

「わたしがどうやって見つかったかは、書いてあった?」

『はい。……ああ、やはり最初からお話をしましょう』

 腹の前で両手を組み合わせ、グレンヴィルはマチルダを一目見てからリナフィーに向き合う。

『私が大臣補佐が消えたという情報に接したのは、今から一刻ほど前になるでしょうか。城門まで来ていたソワンという女房衆に話を聞きました。彼女の話では、除雪中の事故に巻き込まれて大臣補佐が消えたという話でした。女房衆は天賦で除雪をしていたということで、とりあえず私は現場を確認に参りました』

 グレンヴィルは胸元から出した手帳を矯めつ眇めつする。

『行政庁舎を西に抜けますと、すっかり雪が消えていました。私はこれまで天賦を用いて除雪をするという発想をしたことがありませんでしたが、かなり素晴らしい方法だなと思いました。ソワン女史の説明では、女房衆は天賦ごとに分かれて速さや美しさ、あるいは面積を競って除雪を楽しんでいたそうです。精霊使いである大臣補佐は審判のような立場で希少能力者と一緒に集まっていたのですが、寒さからでしょうか、希少能力者の中にも除雪を始めるものがいて、“そのとき”現場を目撃したものはいなかったようです』

 泣いて話にならないとスタンリーが突き放した女房衆からよくここまで話を引き出したものだとマチルダは感嘆する。グレンヴィルは長い間福祉の現場の最前線にいた。その経験が生きているのかもしれない。

「“そのとき”――何があったの?」

『雪が舞いあがったと、複数の女房衆が証言しています。突然“ぶわっと”雪が舞いあがり、除雪を済ませた場所に点々と飛び散った。せっかくきれいになったのにと気分を害して振り返った女房衆たちは、そこに倒れている女性を見つけて悲鳴を上げました』

「倒れている女性?」

 マチルダは身を乗り出す。はい、とグレンヴィルは眼鏡を頭の上にあげ、手をのばして遠くに置いた手帳を目を細めて見る。

『倒れていたのは、ティアナ=マグレリアという年若い女房衆でした。人事不省に陥っていたので、法務庁まで運び込み、懇意にしている医師に往診を依頼して診察してもらいました。外傷はなく、昏倒しているだけということで、今、目覚めるのを待っています』

「そうですか。御対応ありがとうございます」

『いえいえ』

 手帳を胸元にしまいこんで、グレンヴィルはゆっくりと首を振る。鼈甲の眼鏡をもとの位置に戻すと、やはり厳しい表情でマチルダに向き合った。

『ティアナ女史はまだ目を覚ましません。医師の診断ではそう時間はかからないだろうということですが、実際のところはわかりません。現場でも、悲鳴を上げた女房衆たちはティアナ女史に一斉に駆け寄って、名を呼んだり揺すったり頬を打ったりしてとにかく目を覚まさせようとしたようですが、効果がありませんでした。その、わけがわからないことに対する恐怖がどんどん広がって行って、恐慌状態に陥ったころに誰かが――これは本当に誰かはわからないようです。きっと一人ではなく複数名が同時に気づいたということだと思いますが――誰かが、大臣補佐がいないことに気づいたのです』

「それは――怖かったでしょうね」

 リナフィーが言うと、グレンヴィルは重々しくうなずいた。

『ソワン女史は――本日の主任だったそうなのですが――気丈にも女房衆をまとめあげて大臣補佐を探索しました。雪が消えた範囲はもちろん、王宮背後の森や大臣官邸の裏、女房衆の宿舎の周囲など、まだまだ雪が残っているところまで――誰の足跡もないところまでも探索して、手がかりは一つも得られなかった。先ほど申し上げたように現場には希少能力者も少数ながらいましたから、彼女たちもそれぞれ天賦を用いて捜索をした。リナフィーさまが誘拐されたときは活躍した探知能力者も、大臣補佐を補足することはできなかった。空間師も、誰かが吸い込まれたような空間の歪みを感知することはできなかった。痕跡もなかった。それだけのことをして、恐慌状態に陥った女房衆たちをなんとかなだめて、ソワン女史は門番に助けを求めました』

「立派な方ですね」

 適当なことばが見つからないままマチルダが言うと、グレンヴィルは固い表情のままうなずく。

『私もそう思います。正直、官吏でさえ緊急時に彼女ほどの判断力と指揮力を持っている人はそういません。もちろん門番もそれは同じで、助けを求められたもののソワン女史以上のことはできずに――断るような形になったみたいですね。最後の砦として男性にすがったソワン女史の緊張の糸は、そこで切れてしまった』

 髪を振り乱して、長靴の踵が折れたままで――スタンリーはソワンについてそう言っていた。やっとのことでスタンリーを見つけたとき、ソワン女史は何を思ったのだろう。助けてくださいと言ったきり泣いてしまったという。無理もない。

『その後、庁舎を訪ねていらしたフレデリク長官とスタンリー長官と情報を持ち合い、さらにはソワン女史を連れて戻られたセシル長官とも話を突き合わせました。大臣官邸には、お部屋も含めてどこにも大臣補佐の姿は見当たらず、もちろん周囲にもなく、文字通り掻き消えたと考えて間違いないだろうという結論を得ました。同時に、四人で協議して、このことについては、陛下不在の折でもありますし、いたずらに民心を乱さないためにも私たち四人と女房衆八十四人で――百名近い人数でこの表現もアレなんですが、納めておこうということにしました』

 マチルダの記憶が正しければ、女房衆は総勢九十人だったはずだ。八十四名という数は、おそらく今朝宿舎にいた女房衆のほぼ全員に相当する。それほどの数の女房衆が懸命に探しても見つからなかったということに、マチルダは真実を見る。

『空間転移以外に人が忽然と消えることなんてあるのだろうかと、現在、長官たちはさまざまな文献を当たっています。ソワン女史には女房衆を落ち着かせて、箝口令をしいてもらっています。魔力探知を疑うわけではありませんが、うち何人かには買い出しのふりをしてリナレアの様子を見に行ってもらっています』

 グレンヴィルはまっすぐにマチルダを見る。

『今のところ、私たちにできることはありません。唯一の希望は昏倒したままのティアナ女史ですが、彼女から有力な情報を得られるとも限らない。一刻も早く大臣補佐の安否を確認するためには、陛下にご連絡して“人類の女王”におうかがいするしかないのではないかと、私は思います』

 『人類の女王』とは、世界のすべてを識るとされているスノーブル王妃の別名である。グレンヴィルの口からあっさりその名が出てきたのは、きっと、八年前の先代国王の墓参り事件があったからだろうとマチルダは推察した。古参の官吏に水を向ければ、この事件についてはいくらでも長く話を聞かせてくれる。それほどに大変な事件だったとマチルダは理解している。『人類の女王』とはいえ他国の王妃を頼らなければならないほどに、官吏たちは追いつめられていたのだと。

「長官は――先代の墓参り事件のときには、官吏をしていらしたんですね」

 それはわずか八年前の事件だ。外部から抜擢されたセシルやスタンリー、年若いフレデリクは知らないが、グレンヴィルはもちろんよく知っている。

 グレンヴィルははっとしたように目を見開いた。何度かまばたきを繰り返してから、鼻の頭を人差し指で掻く。

『そう、ですね。私が畏れ多くも“人類の女王”に頼ろうなどと考えてしまうのは、あのときのことが関係しているのかもしれません。陛下の不在が深刻になったときには、すでに陛下は探知能力者が感知できる範囲にはいらっしゃいませんでした。もちろん民には陛下の不在を知らせるわけにもいきません。現場の仕事を離れ、毎日足を棒にしてあてもなく彷徨いながら、どうして上司はもっと早く動かなかったのだろうと心の中で詰りました。こうも気が急くのは、あのときの経験が関係しているのかもしれません』

「あのときは――本当に、ごめんなさい」

 リナフィーが深々と頭を下げる。いえいえ、リナフィーさまが頭を下げる必要はありませんと穏やかに言い切って、グレンヴィルは再度マチルダを見る。

『ただ、今回と先代の件では、そもそもの問題が違うように私は思います。先代は当代一を誇る剣豪でいらした。人を傷つける覚悟さえなされば、どうにでも自分の身を守るすべを持っていらした。けれど大臣補佐は、私が今日聞いた限りでは、それを持たないのではありませんか? 他の精霊使いとともに除雪に参加しなかったのは、相応の修練をしていなかったからだと女房衆に話していたと聞きました』

「はい。ポールは……天賦を使いこなすことはできません」

 マチルダはうなずく。

「精霊使いには、大きく分けて二種類の能力があるとされているそうです。万物に宿る精霊と対話することによりそれを使役する能力と、精霊を体内に宿してその能力を行使する能力と。残念ながらポールは、精霊を認識することはできても自分がこのどちらの能力者であるかすらわからないようです」

『そうですか。では、やはり身を守ることはできない』

 グレンヴィルは唇を引き結ぶ。

『陛下はともかく、大臣補佐には失踪する理由はありません。私たちは、これが事件か事故であろうと考えています。あまり考えたくないのですが、大臣補佐がすでにこの世にいらっしゃらない可能性も――直視しなくてはなりません』

 苦しそうにこぼされたグレンヴィルのことばを聞いて、マチルダはぽかんと口を開けた。ずっとポールが失踪したかもしれないと――何がいけなかったのだろうと考えていた自分の視野の狭さに心底驚く。再び震えようとする膝を必死に抑えて、マチルダは、だからフレデリクでもスタンリーでもなくグレンヴィルが連絡を寄越したのだと納得した。官吏としての経験の長いグレンヴィルだからこそ、恐ろしい可能性もこうして穏やかに提示することができたのだ。

「たぶん――ポールは生きていると思う」

 勝手に上がってくる心拍数と、それにこたえるように早くなる呼吸を持て余していたマチルダは、一瞬リナフィーのことばを理解するのが遅れた。耳が音を拾い、その意味を理解してから目を見開く。首を巡らせてリナフィーを見れば、いつもと変わらないきれいな姿勢でグレンヴィルを見上げている。

「『人類の女王』氷美さまは、たしかにすべてを見通していらっしゃる。このわたしたちのやりとりはもちろん、シェトラがどのような状況に置かれているかよくご存じだと思う。でも、『人類の女王』は、スノーブルの王妃なの。だから氷美さまは、よほどのことがない限りシェトラには干渉していらっしゃらないし、逆に言えば、本当に必要なときにはわたしたちに必ず連絡をしてくださる」

 これは経験なんだけど、とリナフィーは肩をすくめる。

「子どものころ、友だちに頼まれて氷美さまにお手紙を書いたことがあるの。王族ならば受け取ってくださるんじゃないかって言われて、だれそれクンの好きなひとをおしえてくださいって手紙を書いたの。でも、父は送ってくれなかった。一人娘のわたしには甘々だった父がとても怖い顔をしていたのを、今でもはっきり思い出すことができる」

 リナフィーは遠い目をする。

「返事が来たの。手紙のことなんか忘れたころに、きれいな薄様の便箋と封筒が私宛で届いた。わたしはもちろん父もとても驚いていた。添状があったけど、質問の答えはなかった。それがわたしが王族だからなのかそれともかわいらしい子どもの悩みだったからかはわからない。けれど、氷美さまのお人柄だけは伝わってきた」

 リナフィーはマチルダにつま先を向ける。青い目をひたと見つめた。

「わたしはね、マチルダ。ポールはわたしたちが、わたしたち自身の手で取り戻さなければいけないと思っている。だって、もしポールが政治的理由で攫われたのだとしたら、今後も同じことは必ず起こるんだもの。シェトラのことは、シェトラで片付けたいじゃない」

『ああ――そうか。そうですね』

 光の粒でできたグレンヴィルが天井を仰いだ。癖のある髪がゆらゆらと揺れる。右に左に首を動かして元に戻したときには、グレンヴィルはすっかりいつもの穏やかな表情を取り戻していた。

『僭越ながら私も昔語りをさせていただきますと、八年前のあのとき、人類の女王にすがるべきだという我々の主張を大臣は最後まで容れてくれませんでした。……それは、つまり、そういうことなのですね。シェトラのことは、シェトラの民が責任を持ちたいと』

 グレンヴィルは柔らかに微笑む。

『陛下が旅に出ると仰ったとき、私も、安心したのを覚えています。私は先代のときから奉職しておりましたから、即位したばかりの先代を存じ上げています。決断力行動力に優れている反面、粗削りで近視眼的なところがおありでした。年齢を重ねるごとにそれらはなくなっていったのですが――即位直後のシェルリナさまは、すでにそれを備えていらした。二十歳になったばかりの青年がよくぞと思う反面、その内面を考えると、いや、老婆心ですが、御心配申し上げずにはいられなかった』

 マチルダがうなずく。グレンヴィルは頭を下げる。

『大臣を惑わすようなことを申し上げて、本当に申し訳ありません。……私たちは――いえ、私は、国を離れられないと悩む陛下の背中を押し出しました。国のことは任せて安心してお出かけくださいと申し上げました。……陛下の不在は覚悟していた以上に大変ですが、それでも、確かに、まずは私たちだけで解決しようとすることが大切ですね』

「そう――ですね」

 あたたかなものが満ちてくる感覚があって、マチルダは胃のあたりに手を添える。グレンヴィルをまっすぐに見上げた。

「グレンヴィル長官にお礼を。おかげで私は、何が大事なのかを思い出すことができました。私にとって大切なのは、今、遠い空の下にいるシェルリナさまなんです。シェルリナさまが安心して旅をするために、わたしはこの国を預かると決めました。シェトラ三億の民を背負うことはできなくても、国王ひとりなら私でも支えることができます」

 足の震えは消えていた。鼓動も呼吸も落ち着いて、ただ、ぽかぽかとしたあたたかさだけがある。

「ポールを探します。週休日に申し訳ありませんが、グレンヴィル長官にもご協力を願います」

 はっきりした声が腹から出た。グレンヴィルは笑顔ではいと応じる。

「噂がどこからシェルリナさまの耳に入るともしれませんから、ポールのことは極力伏せておくということでお願いします。グレンヴィル長官にはお手数ですが、そちらにいらっしゃる三人の長官の意向をうかがっていただいて、了承を得られるのでしたら次の方法を協議して実行してください。女房衆については、もし、ソワン女史という方が落ち着いていらっしゃるのでしたら、その方にとりまとめていただいてリナレアを捜索してもらってください。探知能力者を疑うわけではありませんが、とにかく今は、すべての可能性をつぶしていくしか方法がないように思います」

『承りました』

 グレンヴィルは恭しく頭を下げる。頭頂部の資源がやや薄くなっていることにマチルダは気づいたが、目を逸らしておく。

「リナフィーさまには申し訳ありませんが、平常通り決裁をお願いします。明日官吏がきたときに今日何があったかを知られないためにも、業務に支障は出ないようにしておきたいのです」

 それは勝手な言い分だとマチルダは思う。いきがかり上巻き込んでしまったリナフィーに、これ以上関わるなと言っているに等しい。震えるマチルダの話を聞いて落ち着かせてくれた人に大変失礼なのに、リナフィーは笑顔で応じる。

「わかった。……決裁が終わったら、わたしは交流試合に戻るわ」

「ありがとうございます」

 マチルダは深々と頭を下げる。同時に電信機がかすかな音を拾ってマチルダの耳に届けた。顔を上げればグレンヴィルの後ろの扉がそっと開いて、フレデリクが顔を出したところだった。グレンヴィルはわずかに息が上がり、顔を紅潮させている。

『目を、覚ましました……!』

 フレデリクはそれだけ言って、膝に手を置き息を整える。

 電信の発信元は法務庁長官室と表示されている。目を覚ましたというのは昏倒していたというティアナ女史のことだろうから、彼女が運び込まれた庁舎一階の医務室から四階の長官室まで、フレデリクは階段を駆け上がってきたのだろう。

『医師が、長官を、お呼びするようにと』

『それで教育庁長官を使い立てするとは、困った人ですね。申し訳ありません。代わっておわび申し上げます』

『いえ。そんな。……大丈夫です』

 グレンヴィルが背筋をのばして頭を下げると、フレデリクは慌てた。ふにゃりと気が抜けたような笑みを浮かべる。

『無事で、良かった』

『本当にそうですね。……大臣、リナフィーさま』

 グレンヴィルが振り返ると、フレデリクはえええええと大きな声をあげてのけぞった。光の粒が形作るマチルダとリナフィーが見えていなかったのか気づいていなかったのか、大変申し訳ありませんと頭を下げる。

「いえ、ちょうど終わるところでしたから支障はありません」

 ね? と同意を求めると、グレンヴィルがうなずく。マチルダは顔をあげたフレデリクの目を見て尋ねる。

「フレデリク長官にも、ポールを探すのに協力していただいていいですか?」

『もちろんです。週休日と言っても、大臣補佐行方不明は一号出勤と同等の緊急性があるじゃないですか。大臣が恐縮なさる必要がありません』

 官吏には、その役職に応じて緊急時に召集に応じることが義務付けられている。マチルダはすっかり忘れていたが、まじめなフレデリクはあたりまえのように覚えていた。スタンリー長官が母ちゃんに今日は帰れないかもと連絡してくると言っていましたと笑顔で付け加える。

『医師の許可が出次第、ティアナ女史からも話を聞きます。それがまとまり次第、またご連絡を申し上げます』

「ありがとうございます。お待ちしています」

 マチルダが応じると、グレンヴィルは失礼しますと画面に手をのばした。踊っていた光の粒がぱっと掻き消えて、珪藻土の壁がまた無機質に視界に迫ってくる。さて、とリナフィーが両腕をあげて伸びをした。

「さっさと終わらせて交流試合に備えないと」

 椅子を引き、電信機を操作して壁に文字を投映する。次の連絡はティアナ女史の話を聞いてからだから、それなりに時間的余裕があると判断したのだろう。お願いしますと頭を下げて、マチルダは棒のように立ち尽くすログのそばに行く。

「ログ。……おい、ログ」

「んあ? 終わったのか?」

 ログは立ったまま眠っていた。一緒に育ったマチルダは、この幼馴染が子どものころからこの特技を習得するために熱心に努力していたのを知っている。しばらく見ないうちに直立不動のまま眠るほどに熟練しているとは思わなかったが。

「偉いさんの話は長くてダメだな。結局ポールはどうなったんだ?」

「ポールは今のところ所在不明。これから、全力で探すところ」

「ふうん。じゃあ、ニースを呼ぶか」

 あまりに気楽な口調でログが言うので、マチルダは盛大に顔をしかめた。

「あのさ。ポールが所在不明であることは、おおっぴらにしていいことじゃないの。わかる? 一般人であるログをこの部屋に置いておくことにどれだけの決意が要ったか。この上さらにニースを巻き込むなんてできるわけないだろ」

「でも、エラいさんが行方不明って言うってことは、正攻法では見つからなかったってことだろう? そしたらそれ以外の方法を取るしかないじゃないか」

 ログはそれがあたりまえであるかのように首をひねる。唇を食いしばるマチルダに苦笑して、振り返ったリナフィーが口を挟んだ。

「その、ニースさんはどういう方なの? 口は堅い? 秘密は守れる?」

「おもしろいやつですよ。専門学校で経済を学んで、それで今は会社をやってるんです。口が堅いかどうかはよくわからないけど、そもそも秘密にする必要もないでしょ」

「おまえな」

「いや、マチルダの言うことはわかるぞ? 国王陛下がいらっしゃらない今、大臣補佐までいなくなったと知られたら大変だよな。おれでさえこの国の明日を心配する。でもさ、おれが探したいのはポールなんだよ。大きな胸のポールって女の子。この国でいったい何人の人が大臣補佐の姓名を言えると思う? ポールと聞いて大臣補佐だと了解できると思う? もちろん一定数はいるだろうけどあくまで探しているのはオレのトモダチでいけば誤魔化せるし、そもそもポールの安全とどっちが大事って話だろ?」

「詭弁ね」

 ログのことばをばっさり切り捨てて、リナフィーはくすくすと笑う。マチルダの目を見て、それでいいんじゃないと首を傾げた。

「わたしだったら、正攻法の捜索は長官たちに任せて、友達には別方面から探してもらうかも。よくわからないけれど、マチルダのお友達は協力してくれそうなんでしょう? 今は使えるものは何でも使った方がいいんじゃない?」

「いや……。はい。それは、そうなんですけど……」

 マチルダはあいまいにうなずく。ログに言われると納得できないのに、リナフィーに言われるとそれもそうかもと思ってしまう。きっとこれが人徳というものなのだろう。

「じゃ、決まりだな!」

 ログはばちんとマチルダの肩を叩いた。突然のことにたたらを踏み、痛みに睨み付けたマチルダにひらひらと手を振る。

「まだまだ体重が軽すぎるんじゃないか? もう少しカラダを作らないと」

「おれはこれが最良なの!」

 くすくすとリナフィーが声を立てて笑う。

「ニースの居場所は、たぶん、ティモシーが知ってる。オレは試合が終わったら合流するから、ティモシーの家で待ってろ」

「このうえさらにティモシーまで巻き込むの?」

「だっておまえ、ニースが今どこにいるか知らないだろう? ニースは実家を出たからな。ちなみにおれはニースの新居を知らないぞ。だからおまえがニースに会うためには、ニースさんはどこですかって一軒一軒聞いて回らなきゃならない。それって目立たないか? ティモシーに頼んだ方が早いと思うぞ」

「そうですね! ていうかなんでおれがここを離れることになってるんだよ。おれはここが終わり次第王宮に戻るの!」

「じゃあどうやって探すんだ? オレはこれから交流試合だぞ? 大臣補佐の失踪は、民には知られたくないんだろう?  教師がいかなったら弟子たちは怪訝に思うよな? そこから情報が漏れたらどうする」

「ああもう! ああ言えばこう言う!」

 マチルダが本気で拳を握りしめる隣で、リナフィーが机をたたいて爆笑する。こらえきれずに腹を抱えてひとしきり笑ってから、リナフィーはマチルダにごめんねと謝る。

「マチルダもそういう表情するのねえ。安心したわ」

「いえリナフィーさま、ここは安心するところではないかと」

「そうね。ここは素直にケネルファス師の言うことを聞くところね。そうじゃないと仕事がはかどらないもの。……おもしろすぎて」

 はあ、とマチルダは盛大にため息をついた。ログの顔を見ながら最後まで息を吐ききって、そうですねと同意する。

「申し訳ありませんがしばらく席を外します。ログ、リナフィーさまは機密文書を見ていらっしゃるんだから、お前もここから出ろ」

「秘密文書? 家計簿か! それは失礼しました」

 マチルダが背を向けるより早く駆け出して、ログは部屋を出ていく。大剣を背負った大きな後ろ姿を追って早足になりながら、マチルダは心の中でログに感謝した。あんなに陰鬱だった気持ちが晴れたのは、この能天気な幼馴染のおかげに相違ない。久しぶりに軽口を叩きあうだけで、何も変わらないのに未来が拓けた気がした。

 ありがとうと口の動きだけで礼を述べる。

 声に出すことはしないけれど。


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