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序章

 久しぶりに雪が積もった。

 前日の昼前から降り出した粉雪はしんしんと音もなく降り積もり、一晩で世界をすっかり白く染め上げた。遠くに見える山はもちろん道も屋根も街路樹もすべてがどっさり雪をかぶって朝日を浴びている。昨日の雪空など知らぬげに空は晴れ渡り、上ったばかりの朝日がさわやかな陽射しを投げかけている。

「まぶしっ」

 建物の陰から日向に出た瞬間、マチルダは顔をしかめた。

 咄嗟に目の上に手を当てて廂を作っても、光は空よりもむしろ町中を覆った雪からの反射の方が強く、大した効果はない。諦めて目を閉じ、圧倒的な光に目が慣れるのを待つ。

 町で活動する人々の生活の音が聞こえてくる。

 ずずざ、ずずざ、と低い音を響かせているのは、除雪をする人々だろう。深いところでマチルダの膝まである雪の量は、とても一晩で積もったとは思えないほど多い。何でも五十年ぶりだか八十年ぶりだかの大雪だそうで、玄関の扉を開けるのすら苦労するほどである。せめて目の前の道までは空間を作ろうと人々は除雪道具を手に取り、黙々と作業を続けている。対照的に、きゃっきゃきゃっきゃと歓声をあげて駆けていくのは子どもたちだ。深雪を踏みしめ、雪玉を投げ、転がして走り回っている。

「あっ!」

 そろそろ大丈夫だろうと目を覆っていた手をマチルダが離した直後のことだった。幼い声が聞こえるのとほぼ同時、鈍い衝撃を後頭部に受けてマチルダは前につんのめった。取り立てて痛みはないものの、驚いて反射的に後ろを振り返る。目を細めたままのマチルダの視界に、七人分の子どもの長靴が映った。

「ごめんなさい!」

「だいじょうぶ? おねえさん?」

「痛くなかった?」

 自分の体で作った影の中で開けた視界には、七人分の子どもたちの心配そうな顔が映っている。年のころは五歳から十歳ばかりの年齢の異なる子どもたちが、毛糸の帽子と襟巻と手袋を身に着け、あたたかそうな毛織の上着を羽織って、頬と鼻の先を赤くしてマチルダを見上げている。

「ごめんなさい、おねえさん……」

 その中で一番不安そうな顔をしていた七歳くらいの男の子が、沈黙に耐え兼ねて目に涙を浮かべ始めた。その青い目がまっすぐに自分を見ているのを認めて、マチルダはふいと目を逸らしたくなる。

 ――お姉さんじゃ、ないのに。

 マチルダの背は低い。この国男性の平均身長よりかなり小さく、ちょうど女性の平均と一致する高さである。長い睫毛に大きな青い目、小作りの鼻梁とふっくらした唇が丸い顔に整った顔立ちも、女性というよりも少女と言って差し支えないほど幼く愛らしい。まして今は寒さ対策のために羽毛を入れた上着を羽織り、毛糸の襟巻を鼻先まで引き上げて巻きつけて帽子までかぶっているのだから、目元だけを見て「お姉さん」と子どもたちが判断したとしても、きっと、仕方のないことなのだろう。

 そう言い聞かせて、膝を折る。

「だいじょうぶ。こう見えておれ、強いから」

 上着ごしに見えない力こぶを作ってさりげなく子どもたちの認識を訂正し、マチルダはにっこりと微笑む。泣きそうな顔をしていた目の前の男の子がぽかんと口を開けた。代わりに、だめだよと口を開けたのは姉さま格らしい十歳ばかりの女の子である。

「女の子が、そんな口を利いちゃダメ。立派な淑女になれないよ」

 こっそりと囁くその話し方からは、正義感や使命感よりもむしろ純粋にマチルダを心配する気持ちが伝わってくる。女の子はまっすぐにマチルダを見上げて、ね、と念を押す。どう答えていいものかわからず、マチルダは戸惑って曖昧に首を傾げる。

「ああっ!」

 なおも何かを言おうとした女の子は、突然大人たちが上げたどよめきに驚いて身を竦めた。子どもたちが駆け回って少し汚れた雪原に目をやれば、大人たちが除雪道具を放って長靴の縁まで雪に埋もれながら集まってくるところである。その中心では五歳ばかりの男の子が雪に突っ伏した姿勢のまま、顔を真っ赤にして泣き出した。

 子どもたちが振り返る。

 マチルダは眉を顰める。

 泣き方が――尋常ではない。

 どうしたの、どこが痛いのと大人たちに問われても、男の子は泣くばかりで答えない。駆け出しそうな子どもたちに転ばないようにゆっくり歩くように注意して、マチルダも足元を確認しながら男の子のそばに行く。

「あー……」

 声に反応して顔を上げると、男の子を助け起こした大人たちが一斉に吐息を漏らしたところだった。毛糸の手袋を嵌めた手が持ち上げた小さな手は、手首からだらんとぶら下がっている。おそらく、転んで手をついて――折れてしまったのだろう。

「折れてるな、これ」

 よく涙が枯れないなと感心する勢いで泣き続ける男の子に聞こえないように、大人たちがぼそりとつぶやく。小さな手は手首を持った大人の動きに合わせてぷらぷらと揺れている。その痛みで男の子がさらに声を張り上げて泣く。ペラムさんを呼んでくると言って踵を返した大人は、男の子の保護者を迎えに行ったのだろう。

 なんとも言えない顔で男の子を見下ろす子どもたちに気が付いて、大人が向こうに行ってなさいと声をかける。子どもたちは小さくかぶりをふってそれを拒否する。誰かが脱いだ上着を着せ掛けてもらった男の子は、喉が見えるほど大きな口を開けて泣いている。

「見せてもらえます?」

 そのそばに膝を折り、マチルダは男の子を抱きかかえている女性に声をかけた。女性はマチルダを一目見て、眉をしかめる。無理もない、とマチルダは内心苦笑する。二十歳を過ぎても子どもに「立派な淑女になれない」と注意されるほどにマチルダは童顔だ。ひどければ子どもの中の一人だと思われても仕方がない。

「治癒術の心得があるので――怪我でしたら、治せるかもしれません」

 見知らぬ子どもにそんなことを言われて信用するほうがどうかしているかもしれない。マチルダは胡散臭げに自分を見るいくつかの視線に耐えながらそんなことを思う。信用してもらうために真摯にまっすぐに女性の目を見つめていると、

「なおして」

と、声が聞こえた。

 見れば涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした男の子が、ぷらぷら揺れる手をまっすぐにマチルダに差し出している。リエル、と女性がおそらくその子の名を呼んで止めるが、男の子はだって痛いんだもんと受け付けない。

「おねえさん、なおしてよ。……いたい」

「うん。やってみる」

 おれはお姉さんじゃなくてお兄さんだよと言いたいのをこらえて、マチルダは男の子に微笑みかける。両手を覆っていた革の手袋をはずし、冷たい空気に痛みさえ覚える手のひらを手首にそっと添える。

 おお――と、声があがる。

 治れと念じると、マチルダの手に光があふれた。リエルと呼ばれた男の子が、鼻水を垂らしたままぽかんと口を開ける。このままでは口の中に鼻汁が入ってしまうのではないかと余計なことを考えつつ、マチルダは手首から手先に向けて指を動かしていく。

「なおった」

 指先までマチルダの手が撫で終えると同時、顔を真っ赤にしたままリエルがつぶやいた。怪訝そうにする女性に、いたくない、と伝える。腫れの引いた小さな掌を握って開いてまた握って、ぱあっと顔を輝かせる。なおったなおったありがとうと喜んでマチルダの首に飛びつくので、マチルダは勢いに押されて尻もちをついてしまった。

「だ、だいじょうぶ……?」

「これリエル。治癒術を使うのはとても疲れるそうなんだから、やめなさい」

 慌ててマチルダを取り囲む子どもたちと、一拍遅れてリエルを注意する大人たちと――そのすべてに一通り微笑みかけて、マチルダはリエルを雪原の上に立たせる。それから雪を払って立ち上がり、では、と歩き出した。

 まだ朝日がのぼったばかりの時間にマチルダが白い息を吐きながら町を歩いているのは、それなりの理由がある。約束があって、行かなければならない場所がある。これから到着するであろうリエルの保護者に状況を説明し、礼を言われたり世間話をしたりする時間はマチルダにはない。

 何より、それは面倒で、いやだと思う。

「だいじょうぶ? 休んでいくなら、私の家がすぐそこだから」

「大丈夫です」

 親切に申し出てくれる大人と話すと、この国は良いなと思える。だれもが善意にあふれていて、人に優しくすることができる。でもだからこそ、マチルダはこの場にとどまるわけにはいかない。

 マチルダは母の名前を受け継いだ。息子に妻の名を与えた名づけの是非は置いておくとして、マチルダという名を持つ男性はこの国にはおそらく一人しかいない。そしてそれはその名の珍しさもあって、人々に広く知られている。上着を羽織って女性と間違われているうちはよくても、官吏の前垂れを付けた正装姿で名乗れば、マチルダの身元はすぐに知れてしまう。

 マチルダ=シュルクーズ――それは、国王が旅に出た今この国を担う、大臣の名である。こんな早朝になんでとか、陛下の様子はどうとか、人々が知りたいことがいくつもある一方で、マチルダにはそれに答える余裕はない。

 マチルダがあからさまに急ぐ様子を見せたからだろうか、大人はそれ以上何も言わなかった。どうもありがとうとマチルダの背中に幾種類かの声がかかる。また来てねと声を張り上げたのは、リエルだろうか。

「お姉さん、巫女さまだったんだ……」

「え? いや、違うよ」

 すれ違いざまにマチルダの声を掛けたのは、姉さま格の女の子だった。よく見ると金色のそばかすが浮いている。青い目を見開いて物問いたげにマチルダを見つめるので、マチルダはほんの少し足を止めた。

 治癒術の研究が進んでいないシェトラでは、人のけがを治す方法は大きく二つに分けられている。一つが医学的な技術で補正して自然治癒を待つ方法であり、もう一つは天賦を使ってそれを加速させる方法である。自然治癒を促進するためには術者あるいは本人の体力を使うか神の加護を仰がなければならない。元気に駆け回るリエルを見れば彼の体力をマチルダが使っていないことは明白だったし、本人も疲れていないと言うのならば、選択肢は一つしか残らない。

「おれは、なんでか知らないけれど、傷だけは治せるんだ。傷を治す源がわかるんだよ」

 しかしマチルダの治癒術は、それら広く知られているものとは全く方法が異なっていた。病気を癒すことはできないから、厳密には治癒術と呼べないかもしれない。傷口を視ると触れるべき場所が光って見える。そこを押して血の巡るように手を添えるだけで、傷が治ってしまう。そういう術者は他にいるのか、いないのか。外国ではどうなのか――それは、マチルダも調べていないからわからない。

「ふぅん……」

 女の子は視線を落として足元の雪を爪先で蹴り上げた。あからさまに興味がない態度から察するに、この子は神職に興味があったのかもしれない。そんなことを思いながら、マチルダはひらひらと手を振って歩き出す。

「じゃあ、どうやって治すの……?」

 女の子のつぶやきは、マチルダの背中に届く前に掻き消えた。


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