第一章 道化宮青年の受難 ~4~
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「嘘、……だろ?」
琥珀は、呆然と呟いた。
空腹が限界まで達し、幻覚でも見えだしたのか? そう、現実逃避したくなるくらい、信じられない光景だ。
白い神父も、赤い大男も、化け物染みた体術を駆使して、赤い大男が血液を刃に変えて、首を切られても死ななくて、白い神父を磔にした。
夢ならば覚めてくれ。何だ、この異世界めいたワンシーンは。
そんな琥珀の気持ちを裏切り、赤い大男が右手を頭上に構え、その掌から、死神が持つような大鎌を生み出した。
つまり、
……冗談は止してくれ。まさか、そんな、本当に? 殺す、訳ないよな……?
それでも、男は口端を引く。瞬間、琥珀の体中の汗腺から、嫌な汗が吹き出した。
助けなきゃ……。――いや、オレが出てって何になるってんだ?
助けなきゃ……。――落ち着け。あの人は、オレとは無関係だろう?
助けなきゃ……。――オレまで殺されるかもしれないんだぞ?
助けなきゃ……。――でも、ここで逃げてオレは自分を許せるのか?
助けなきゃ……。――ああ! もう、分かったよ!!
ガクガク震える足を、両の拳で叩き付け、ガチガチ音を立てる歯を食いしばり、そして、琥珀は前を見据え、路地から飛び出した。
「ああああぁぁぁぁ――――っ!!」
白い神父を助けるために、必死の形相で大男にタックルをかます。
思った以上に、大男は重量級だった。サンドバッグに激突したような感触を覚え、脳が揺れ、視界がふらつく。
「ちょっ!? な、何してマースカ! キミはっ!?」
かなり日本慣れしていない、たどたどしい日本語の美声が、オレンジボブの小柄女子から掛けられる。
幼女にも似た、可愛らしいソプラノだが、今は彼女の声質について、どうこう言ってる場合じゃない。
「良いから、この人連れてとっとと逃げてくれ!」
彼女と同じく、神父服姿の青年も呆気に取られた表情をしている。
彼の右腕を壁に縫い付けている、赤い短剣を力任せに引き抜くと、苦悶の声の後に、忠告が来た。
それは、青年自身の低い声色のもので、
「いけない! 早く逃げて!」
「もう遅いって! 逃げるんなら、あなたも一緒に……」
琥珀は、二つの勘違いをしていた。
一つは、彼の台詞が助けに来た自分に対する、ワンテンポ遅れたものだと思ったこと。
そしてもう一つは、いくら何でも、見ず知らずの少年に矛先を向けるほど、大男も狂っていないと思っていたことだ。
琥珀は、背中から胸元に掛けて、違和感を得た。
「…………え?」
具体的に言うと、背中に何かがめり込み、それが体内を通り、胸元から突き出たような感触だ。
そんな現実が起こっていた。
「マジ、かよ?」
自分の体を、赤い刃が貫いている。
それが、ズルリと引き抜かれ、全身から力が奪われ、琥珀は地に伏した。
ドクドクと傷口から鼓動を感じる。だが、痛みはない。痛みを感じない。
その無感は、直ぐ様全身を支配した。体の熱が失われ、覚醒は眠気へ代わり、意識が遠のく。
やがて、傷口から感じる鼓動も止まり、闇の中へと思考が溶けていった。
――この日。琥珀は、死を迎えた。
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富士境の空が黒い。
時刻は八時を過ぎていて、それは等しく、住民に夜をもたらしていた。
空に浮かぶ月は赤く、その下に一つの建物がある。
エントランスと中庭を持った、上質の見た目をしたマンションだ。
方形の敷地内にそびえ立つ、九の階層を連ねたL字型のマンション。
富士境北部の〝クレマパレス〟と呼ばれるものだ。
「彼には、悪いことをしてしまった」
クレマパレスの最上階。九○一号室に、溜め息交じりの反省が零れる。
テーブルとソファのみと言う、必要最低限の家具しかない空間には、小さな一言が大きく響いた。
「彼のおかげで、凌ぎ切れたというのに……。〝千里眼のイオータ〟の名に泥を塗るような、大失態だね」
「仕方がないデースヨ。イオータ様」
彼と同じく、渋面を浮かべながらも、リーガルはイオータを励ます。
「イオータ様の千里眼は、全ての光を捕らえマースガ、それゆえ、対象物を限定する必要がありマースネー」
即ち、
「多くが見え過ぎるため、取捨選択による脳内処理が働きマース。〝視認しようとするものしか見えない〟のですから、これは不可抗力デスヨー」
それに、と、リーガルが目をやる先には、とある物体があった。
テーブルの上に横たわるそれは、黄色に黒が混じった、メッシュのミディアム。中肉中背の体つきを持った、〝道化宮琥珀〟と呼ばれていた物体だ。
残念なことに、現在は、水分と有機物が構築するただの肉塊。上半身を露出しているそれの胸元には、致命傷となった切り傷が入っている。
「行方を眩ました、デルタに対抗するための〝駒〟。〝スティグマ〟様を〝神降ろし〟するための〝器〟が手に入ったのデースヨ。前向きに考えマスネー」
話し合う二人の目の前で、ルナが粛々と作業を行っていた。
『我、ルナ・エリクソンが呼び掛ける。汝の名はスティグマなり』
彼女の言葉に応えるように、琥珀だったものが口を開き、
『承認。七番目の想像神格〝スティグマ〟で宜しいですか?』
と無機質な声で確認する。
生き返った訳ではない。それにしては、余りにも機械的過ぎる声だ。
『磁界王たる汝が力を顕現せんがため、我はこの者を贄とせん。この者を不老とし、この者を不死とする。我、ルナ・エリクソンは、汝に誓う。降り給え、スティグマよ。我を汝の僕とせよ』
対し、ルナが唱えると、一つの変化が訪れた。
琥珀だったものの傷口が、ゆっくりと、しかし、確実に塞がっていったのだ。
その様子を見るルナの口元に、笑みが浮かんだ。
どこか妖艶で、愉悦を醸し出す、このときを待ち望んでいたと訴える、笑みが。
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瞼を開けると、まず見えたのは、笑みを湛える少女だ。
緩い癖の付いた、水色の髪を揺らし、金色の虹彩が、こちらの双眸を見詰めている。
その瞳の奥には、きっと聖母にも似付かわしい、優しさが宿っているのだろう。
まるで天使のような、慈悲と喜びを抱く、甘美な微笑み。
どこか香しく暖かな匂いが、鼻腔をくすぐった。
「お初にお目に掛かります。我が名は〝ルナ・エリクソン〟。あなたに仕える〝ネクロマンサー〟でございます」
薄紅の、花弁に親しい唇が、言葉を紡ぐ。聖歌を彷彿させる透き通った声で。
「……ネクロ、マンサー?」
ルナと名乗った少女の言葉を、真似るように復唱すると、彼女が不意にこちらの右手を握り、胸元まで持って行く。
両腕で包み込むように握り、宛ら、愛の誓いと勘違いしそうな声色で、だが、同時に情熱的に、
「ずっと……、ずっと、お目に掛かりたく思っていました。スティグマ様!」
彼女は蕩けた目つきを見せた。
「スティグマ?」
「はい。〝磁界王のスティグマ〟。我が、愛しきご主人様! 今、このときより、ワタシはあなたの所有物です!」
――いやいやいや、待ってくれ――。
混乱しながら、こう思う。
――確かに、こんなシチュエーションを妄想しなかった。って言うのは、嘘になるけど、いくら何でもおかしくないか――?
目が覚めたら、超美少女が、主従関係を望んできました。
とても良いと思う。バラ色の状況だ。
しかし、どうにも彼女は、大きな勘違いをしている気がする。だから、言ってあげるのが、正しい対応だろう。
「いや、オレの名前は〝道化宮琥珀〟って言うんだけど」
「…………はい?」
ルナの表情が、見事なまでに固まった。
ふと、彼女の背後へ目をやると、二人の人影がある。
「良かった。あんたたち、無事だったんだな。ところでさあ……」
ルナと同じく、固い表情の二人に、琥珀は疑問した。
「オレ、生きてるのか?」