第五章 スペルレス ~2~
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持っていた携帯が着信を告げる。
ちょうど、琥珀が壁蹴りと天井蹴りの併用で、デルタの一閃を回避したところだ。
携帯を取り出し、ディスプレイを確認する。ダイヤルしたのがリーガルであることを、液晶は記していた。
恐らく、彼女とイオータが、デルタを操っている黒幕と接触したのだろう。ならば、足止め役となったこちら側の役割は、終わりを告げる。
キッチンから顔を覗かせると、琥珀はまだ余力を残し、回避を続けていた。
少なからず、安堵の気持ちが浮かぶ。彼が傷付くことなく、無事に飛び跳ねているからだ。
ほっと一息を吐きながらも、ルナは、同時にそれが緩みであると気付いた。
まだ、全てが解決した訳ではない。黒幕を屈服させて、初めて大団円を迎えられるのだ。
この着信も、恐らくは援助要請だろう。そのつもりで、気を引き締め直し、ルナは通話を許可する。
「もしもし?」
携帯を耳に当て、リーガルに問い掛けた。
答えは、たった一言。
「――助けて……」
電話の向こうでそれだけ呟いて、通話が途絶える。
ルナは、自分の思考回路が一瞬停止したことを感じた。何が起こったかは分からない。だが、どんな事態に陥ったかは分かる。
「リーガル! リーガル!? どうしたんですか!?」
もう、あちらへと声が届かない筈なのに、ルナは携帯に向けて、叫ぶように繰り返し問い掛けた。弱々しく震えた声での通話は、理性を奪うには十分だ。
最悪を想定させるには、十分だ。
「ルナ!? リーガルたちに何かあったのか!?」
デルタの攻撃を、もはや軽々とした様子で避けながら、琥珀が問うてくる。
彼の成長は嬉しいが、だが、素直には喜べない。状況が状況なだけに。
「分かりません。――ですが、確実に悪い方向へと転がっているようです。琥珀、ワタシたちも行きましょう!」
「でも、こいつはどうするんだ?」
こいつ、とは、真正面からの突きを、またしてもいなされたデルタのことだろう。
「今の琥珀ならば、問題にならない筈です。行動不能に陥れましょう」
「――――え?」
瞬間。琥珀の動きが強張りを得る。戦闘の素人である自分にも、そう見えた。
今や、強者と弱者の関係は、完全に入れ替わっている。
元々、鉄を操るデルタと、磁力を操る琥珀との相性は良く、有利なのは琥珀側だった。それに加えて、デルタの体躯――に含まれる鉄分――は磁化されている。
成長を遂げた琥珀に、赤剣はもう届かないだろう。
しかし、
「琥珀っ!!」
「う、うわぁっ!?」
琥珀の体は見るからに緊張を帯び、上段からの単調な一撃を回避したのは、ギリギリのタイミングだった。
分からないではない。仕方ないことだ。
彼がいくら成長しようと、昨日まで琥珀はただの一般人。人を殺めた経験などある筈がない。躊躇うのも無理はないだろう。
それでも、デルタをそのままにして、リーガルの下へ向かうことは不可能だ。一旦、彼を行動不能にする必要がある。
トドメを刺しておく必要が。
だから、ルナはできるだけ柔らかな口調で諭す。
「大丈夫です、琥珀。彼は、ゾンビなんです。たとえ、死に瀕しようと、新たなネクロマンサーが見付かれば、修復できるんです。――だから、琥珀が躊躇う必要はどこにもないんですよ?」
それが、彼に掛けられる精一杯の励ましだった。
これは殺人ではない。端から彼は死んでいるし、心臓を貫かれようとも、修復は可能なのだから。
デルタが右隣に逃げた琥珀に、追い打ちだと言わんばかりに、右の薙ぎ払いをお見舞いした。
当然ながら、琥珀は反発力を以て、それを払い、
「今です! 琥珀!」
胸元がガラ空きになった、隙だらけのデルタに、レガリアを突き立てる。そうすれば、琥珀の勝利だ。
だが、琥珀は振りかぶったレガリアを、中途半端な位置で止め、
「――――っ!!」
身を倒し、数歩を踏んで、上半身が浮き上がったデルタの足下を潜った。
張り詰めた弦が千切れるような音が聞こえる。
音を耳にした直後、デルタの体躯が大きく揺れ、膝から崩れ落ちる格好で、床へと倒れた。
どうやら、左胸を貫き、生命活動を停止させることではなく、アキレス腱を断つことで、身体的な動きを封じる策を取ったらしい。何故か? 彼は、殺す行為を避けたのだ。
「こ、はく……」
琥珀は自分に背を向けて立っていた。だから、ルナには琥珀の表情が分からない。彼の感情は分からない。
やがて、フローリングを掻きむしる動作をしていたデルタが、動きを止めた。
恐らく、支配者側が戦闘不能と判断したのだろう。
荒い息を吐いていた琥珀が振り向き、
「行こう! ルナ!」
強い口調で告げる。
彼は、ホルダーにレガリアを収め、無造作にバッグへと放り込んだ。
「場所は分かるのか!?」
「はい! GPS機能を用いれば!」
「よし! 急ごう!」
「はい!」
言いながら、ルナは一つの懸念を抱く。
――琥珀、戸惑いましたね……。
当然と言えば、当然なのだろう。
彼の性格を鑑みれば、いくら敵であっても、容赦なく命を狙いに来ても、それがたとえゾンビであろうとも、躊躇いを抱く。
しかし、琥珀の持つその優しさが、ルナに取っては懸念だった。
……その戸惑いが、致命的な結果を生まなければ良いのですが……。
それは、弱みと言うべきなのか。
✠ ✠ ✠
約一〇分後。
二人を乗せたタクシーが辿り着いたのは、〝聖堂区画〟の一郭だった。
料金を払い、乗客である琥珀とルナが降車する。タクシーが、立ち尽くす二人を置いて去っていった。
まず、口を開いたのは琥珀だ。
「本当に、ここなんだよな……?」
それは、イオータとリーガルの反応と似ている。が、二人よりも疑いを含んでいた。信じられないと言いたげに。
「間違いありません。――ほら。そこに停車しているのは、イオータ様の車です」
ルナの人差し指の先には、黒い外国車がある。
そうそう街中で見られる車種ではない。何より、ナンバープレートを見る限り間違いないだろう。
「じゃあ、ここにリーガルとイオータと……」
「デルタを操っていた、黒幕がいます」
二人が言い合い、お互いの意思を確認するように視線を合わせた。
数秒のアイコンタクト。二人は覚悟を決めたように頷き合って、琥珀が前に出た。前衛を務めると言うように、バッグからレガリアを取り出しながら。
「開ける、ぞ」
緊張からか一息を吐いて、琥珀が両手で開扉する。重苦しい軋みを上げながら、扉が開く。
二人の探し人は、直ぐに見付かった。隠すつもりはどこにもない、とでも言いたいのか。聖堂の奥。パイプオルガンの前に跪いている。
そこにいるのは、オレンジボブヘアの童顔少女。そして、二人分の人影だ。
「リーガル!? 無事か!?」
「そんな……、あなた方が、黒幕だったんですか?」
琥珀とルナがほぼ同時に、しかし、別々の対象に呼び掛ける。
琥珀は、捕らわれた仲間に向けて、ルナは、再会の形となる二人に向けて。
リーガルの傍らに立っているのは、アドルフと名乗った神教神父と、名がない迷子の少女だった。
「今夜は、訪問者が多いですね。こちらのお嬢さんのお仲間は、あなたたちだと考えて宜しいでしょうか?」
神父が静かに口を開く。その顔つきには、僅かながら動揺が含まれている。常より浮かべる、笑みの形がない。
「まさか、〝スペルレス〟を救っていただいた恩人と、こんな形で再会するとは思っていませんでしたよ」
アドルフの感想は、琥珀とルナの心情と同質である筈だ。寧ろ、強弱で言えば後者二人の方が驚いているだろう。
琥珀が顔をしかめて、
「それは、こっちの台詞だよ。その子……、スペルレスって言うのか? 孤児ってのは嘘だったんだな」
「ボクは孤児とは言っていませんよ? 両親がいない。ボクが面倒を見ている。どちらも嘘ではありません」
「……良く言うよ」
だが、アドルフの言うことは正論だ。彼は、スペルレスと呼ばれる少女が孤児であるとは、一言も口にしていない。
勝手に、琥珀たちが誤解しただけなのだ。
「失礼ながら、お名前を伺っても宜しいでしょうか?」
「琥珀。道化宮琥珀。この子はルナ・エリクソン」
琥珀の自己紹介を受けて、アドルフが眉根を寄せた。彼は、何度か琥珀とルナの名を反芻し、
「聞いたことがありませんね……」
「いや、当然じゃないか?」
まるで、知っていないことを訝しく思うような態度に、逆に琥珀が不思議がる。
彼にしては、アドルフに名乗った記憶はないから必然だ。
「重ね重ね失礼ですが、お二方とリーガルはご関係がおありで?」
「もちろんです。ワタシはリーガルと同朋で、琥珀は協力者であるのですから」
「ふむ。では、やはり、琥珀と名乗るあなたも想像神格であると、そう思って良いのですね?」
ルナがはっと息を呑む。その反応は、酷く驚いたときのものだ。彼の口から想像神格との単語が発されるとは、思ってもみなかったのだろう。
「ルナ! 彼は……!!」
彼女に真実を伝えるべく、リーガルが声を荒らげた。しかし、その叫びはアドルフの左手の制止で掻き消される。
小さな制止の動きだ。だが、リーガルは、喉元に刃を突き付けられたような表情で押し黙る。宛ら、心が折られたように。
「何故……ですか? 何故、アナタが想像神格を知っているんですか!?」
代わりに、ルナが驚愕の表情のままに、声を張り上げた。
「そもそも、どうやってデルタを!? アナタは、神教の神父なのでしょう!?」
表現力に乏しいルナとは思えない剣幕だ。隣に立つ琥珀が、唖然と口を開けながら、彼女に視線を移す。
しかし、荒ぶる彼女の言葉を、意にも介さない顔つきで、平然とアドルフは笑み声を漏らした。寧ろ、面白がっている。そんな表情で。
彼は、刺突に親しい視線を受けながら、
「いえ、すみません。イオータに瓜二つな反応が、少しおかしくて……」
と苦笑気味に答える。
彼の答えに、琥珀が一つの事実に気付く。未だに彼は、イオータの姿を目にしていない。
「そうだ! イオータはどこにいるんだ!? まさか、あんたたちは……」
最悪を想定したのか、琥珀の顔から血の気が引く。
「イオータですか? そこにいるではないですか」
彼の心配に対し造作もなく、アドルフが琥珀の方を指差して言う。地を蹴る音がしたのは、直後だ。