第五章 スペルレス ~1~
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〝富士境神教聖堂〟の扉が開け放たれた。
木製の扉が、軋みの音を上げる。まるで、駄々をこねるように、抵抗するように。
聖堂内の雰囲気は、昼間と比べて随分と異なっていた。
夜闇の中。光源となるのは、燭台に立てられたろうそくの炎と、月光だけだ。
ろうそくの炎は揺らめきながら、聖堂内を仄かに照らす。オレンジ色の明かりは、頼りなく、だが、どこか穏やかな温かさを秘めていた。
昼間は太陽を光源としていた、ステンドグラスからの彩りは、主を月光へと変えている。
強くはない。華やかではない。それでも、確かに美しく、神秘的な明かりだ。
ろうそくと月明かりは、夜の聖堂を幻想感で満たしている。神教に心酔する信者たちが見たら、きっと信仰心を上乗せするだろう。
しかし、デルタの襲撃を受けた長椅子は、相変わらず損傷のままにあり、両サイドのガラス窓も二枚ほど無残な状態になっていた。
雰囲気とは異なり、荒廃感が色濃くある。退廃的と言うべきか。
「おや? こんな夜の中いらっしゃるとは、信仰心の強い方々ですね。神童も喜んでいらっしゃるでしょう」
聖堂内に、低く静かな声が響く。
声の主は、聖堂の奥。最前列の座席の右側に腰を落ち着けていた。
彼が、何を思いそこにいたかは定かではない。荒れ果てた聖堂の中。〝光輝十字〟を前にして、祈っていたのか、悲しんでいたのか。
それでも、彼がここにいる理由は、衣服から推測できる。
彼が纏っているのは、牧師が着るローブに似ていた。〝神教〟に仕える神父の、正装である。
神父は、座席から腰を浮かし、訪問者であるイオータに正対の格好を取った。
イオータに準ずるくらいの長身だ。
「ですが、ここは現在、立ち入ってはならない決まりになっているのですが……」
神父が、慣れを感じさせる端正な笑みを見せる。
メガネを掛けた目元も、弧を描いていた。当たり障りのない表情とも言えるだろう。
「――アナタが、デルタを操っていた黒幕デースカ?」
リーガルの台詞を受けて、彼の眉が小さく動いた。
動揺とまでは行かない、微かな動きだ。想定内の事態なのだろう。どもることなく、しっかりとした口調で言葉を返す。
「……では、あなた方が、デルタと戦っていた〝想像神格〟なのですね?」
寧ろ、動揺の度合いではリーガルの方が大きい。彼女は、眉間に皺を寄せ、あからさまな警戒を顔つきで表していた。
神父が痩身を折る。胸に当てた右手が、病弱なほどに青白い。
芝居がかったような深い礼を見せながら、
「ボクは、この聖堂で神父を務めさせていただいている、〝アドルフ・ラ・ヴォワザン〟と申します」
灰色の髪を小さく揺らした。
「申し遅れたね。私はイオータと言う。彼女はリーガル・マロリー。私の従者と思ってほしい」
イオータも、リーガルほどではないにしろ、若干の怪訝を示す。普段、常に寝たままの眉が、僅かに立っているのが証明だ。
少しの変貌が、彼の警戒度合いを表している。仕方ないことだと思う。イオータには、分からないことがあるのだから。
「アドルフ。君にいくつか尋ねたいことがある」
変わらぬ声色で、ただし、有無を言わせない一方的な口調で、イオータは神父に問うた。
問いは、三つだ。
彼は右の人差し指を立て、
「どうやって、君はデルタを操っているのか」
二つ。と中指を加え、
「何故、神教の神父でありながら、聖堂を攻撃したのか」
薬指を伸ばして、三つ目に尋ねるのは、
「何故、君は想像神格の存在を知っている?」
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イオータが最も知りたいのは、三つ目に対する答えだった。
もちろん、他二つも重要な項目だ。しかし、最後の質問には重要度で適わない。
何しろ、最後に尋ねた疑問は、残りの二つに対して、前提となり得るからだ。
デルタを如何にして操っているのか? それは、そもそも想像神格の存在自体を知り得なければ、不可能なこと。
聖堂に危害を加えたのは、操られたデルタだ。ならば、彼を支配した手法について突き詰めれば、最後の質問に辿り着く。
そして、彼が想像神格を知っていることは、危険な事態を招く。
何故ならば、本来、想像神格の存在は、アトナコスの末裔以外は知り得ない機密事項。それが、もし、世に知れ渡ったらどうだろうか?
答えは決まっている。〝有機演算器〟の存在が暴かれ、多くのものに狙われ、搾取されるだろう。
これは、有機演算器を守ることを選んだ、アトナコスの末裔と自分たち想像神格に取って、致命的な問題なのだ。
イオータは、背筋に汗が伝う感触を得た。
「一つずつ、お答えしていきましょう」
こちらの波打つ心情とは裏腹に、凪いだ海面にも似付かわしい落ち着いたトーンで、アドルフが静かに告げる。
「〝スペルレス〟。おいで」
彼の呼び掛けに、一人の少女が姿を見せた。
突如現れた形になったが、彼女自身は気配を消していたつもりはないだろう。小柄過ぎて、アドルフの隣に座っていたことに、こちらが気付けなかっただけだ。
少女の容姿は、幼女の方が相応しいほどに思える。リーガルに匹敵するのではないだろうか?
一五〇程度の体躯は華奢で、同時に、彼女の姿は華やかだ。
欧風のゴシックドレスを身に纏い、ベリーロングの髪は、黒のドレスと対称的。新雪よりも真っ白い。
彼女の双眸は、赤い宝石と比喩できる煌めきを持ち、リーガルには失礼だが、胸がある。
今まで、無視できていたことが信じられない。濃い存在感を持っていた。
「まず、デルタを操っていたのはボクではありません。彼女、スペルレスの能力あってのものです」
「能力? 想像神格を操る能力なんて、聞いたことがありまセーンヨ?」
自分もリーガルの意見に賛同する。想像神格を支配する能力者など、見たことも聞いたこともない。
身内――つまり、想像神格――の中はもちろん、ここ一〇〇年現世で暮らしているが、そんな事例は確認されていないのだ。
実際にあり得たならば、大問題に発展し、アトナコスのコミュニティー内で、対策が練られたことだろう。
「それはそうでしょうね」
平然とアドルフが肯定した。彼は、微笑を湛えながら、
「彼女は、ボクが生み出した、三十一番目の想像神格なのですから」
と告白する。
必然、リーガルが眼を大きく開いた。イオータも同様に。
流石に信じられない。想像神格は三〇番までしかない。だとしたら、いや、だからこそ、彼の言葉は真実なのだろう。現に、彼女の存在を、自分は今まで把握していなかったのだから。
それでも、
「想像神格を……生み出す?」
そんな技術は存在しない。世界中のどこにも。アトナコスの子孫の間にも。
「そして、この聖堂を襲撃した理由はとても単純です。ボクが、神教を根絶やしにしたいからです」
……何を言っているんだ――!?
ますます、訳が分からない。彼は、神教の神父である筈だ。自身でそう言っていた。
ならば、何故、神教を根絶やしにしたいなどと言う? 彼は神父だ。神教に仕える、信者なのに……。
「イオータ? だからこそ、ボクは協力をお願いしたいのです」
アドルフの要請が、更なる謎を生む。敵対しているこちらに協力をしてほしいと願うのだ。話の流れが、彼の真意が、掴めない。
「何を……言ってるんだい? 私は想像神格。アトナコス人の心の支えだ。ハッキリ言って、神教は敵に当たるんだよ?」
「ええ。それで構いません。先に述べた通り、ボクは神教への報復を行いたい」
ならばこそ、
「敵ならば最良です。あなたは神教に敵対する。ボクは神教を滅ぼしたい。これ以上の利害の一致がありますか?」
イオータは、自分が口を滑らせたことに気付く。迂闊だった。こちら側から神教が敵だと言ってしまえば、当然、利害関係が一致する。
だが。と思う。自分は、アトナコス人に取っての絶対正義。だからこそ、折れる訳には行かないと。
何故ならば、
「争いが争いを生むことは、人類の歴史が物語っているよ。私がここで牙を剥けば、それは、今を平穏に生きているアトナコスの末裔を、新たな争いに巻き込むことになる」
それに、
「現代に生きる神教の信者は、過去の罪とは無縁だ。だから、彼らと争う理由はどこにもない。これ以上の戦いを私は望まないよ」
言い切ると、アドルフが初めて笑み以外の顔つきを見せた。
どこか落胆したような、悲しんでいるような、歪み方だ。
彼は、小さく嘆息をして、囁くように言った。
「そう……ですか。残念です。想像神格たるあなたなら、分かってくれると思ったのですが……、結局の所、他のアトナコス人と大差ないのですね」
「……アドルフ? 三つ目の質問の答えを私は聞いていないよ?」
イオータは、もう一度尋ねる。
「何故、君は想像神格の存在を知っている?」
そして、こう付け足した。
「君は、何者なんだ?」
アドルフは、余りにもアトナコスのことに詳し過ぎる。
確かに歴史上、神教とアトナコスの関わりは深い。だが、彼の知識量は常軌を逸している。まるで、当事者の物言いだ。
「――まだ、気付かないのですか? いえ、あなたはもう気付いていらっしゃるのではないでしょうか? イオータ様?」
神教神父の身でありながら、想像神格である自分に敬称を用いるアドルフ。
神教は一神教に近い思想を持っている。だからこそ、異教の神は悪と見なす。それが、本来の神教の在り方だ。
だが、イオータは奇しくも、それで分かった。自分に敬いを向けられたことで。
何故彼が、その役職に就いているのかは理解できないが、彼が何者かは理解できる。いや、それ以外考えられない。
「アドルフ……、君はまさか……」
アドルフが微笑んだ。その微笑みには、嬉しさと悲しさが同居している。少なくとも、自分の目にはそう映った。
「信仰に反する行為ゆえ、あなたを支配下に置くのは心が痛みます。……ですが、どうかお許しを、イオータ様」