第三章 琥珀とルナの放課後 ~2~
琥珀が、大きく息を吐いた。
先ほどから、大量の汗を掻いたと思ったら、顔を真っ青にして、かと思えば、茹で蛸のように真っ赤になったり、表情も言葉遣いも乱れていたが、どうかしたのだろうか?
「琥珀? ご気分が優れないのですか?」
「いや! これっぽっちも、全然!」
「そうですか?」
良く分からないが、無事なら言うことはない。
「ところで、ルナの故郷ってのは、イタリアじゃなかったっけ?」
上擦り気味の声で、琥珀が聞いてくる。
そう言えば、先ほどの説明を途切れさせたままだ。最後まで話すのが誠意だろう。
「はい。ですが、ワタシは。いえ、ワタシたちは、自分たちの故郷は〝アトナコス〟だと誓っています」
「アトナコス?」
ようやく落ち着いた声で、琥珀が質問を寄越した。
「太平洋上の小さな島国です。自然科学・形式科学・工学などの分野において、現代文明を凌駕する技術水準を誇っていた、古代文明都市ですよ。今でも、アトナコスのコミュニティーは健在で、結構影響力を持っています」
実は、富士境高校への急な編入を許されたのも、アトナコスのコミュニティーあってのものだ。
アトナコス人は高度な技術を持っていた。子孫である自分たちも、血脈の影響か、かなりの潜在能力を誇る。そのため、アトナコスの末裔には世間一般で勝ち組と呼べるものが多く、社会に対する影響力があった。
「古代文明? そんなものが、本当に?」
怪訝そうに目元を歪める琥珀だが、彼の存在それ自体がアトナコスの存在を証明している。彼が生きているのは、アトナコスがあるからだ。
「本当に、です。〝有機演算器〟も、アトナコスに封印されているんですからね?」
「有機演算器……。〝夢幻脳界〟ってのを構築している、〝ニューロコンピュータ〟とか言うやつか」
納得の顔つきになった琥珀に、首肯を送った。
「有機演算器はアトナコス最大の発明品です。想像神格も、それがなければ生まれなかったでしょう。ワタシたちアトナコスの子孫は、アトナコスの血筋を誇り、故郷をアトナコスとしているんです」
「うん? いや、でも、アトナコスなんて名前、聞いたこともないぞ?」
再び、琥珀が首を捻る。
ルナは、今度は自嘲混じりに、
「はい。今は、もう滅びていますから」
琥珀の動きがまたしても止まった。しかし、今回の動作停止は、肉体の不備ではないだろう。
こちらの言葉に、愕然としているのだ。
「滅……?」
「一八世紀前半に。ですから、名前を知らないのも当然かも知れません」
「ま、待ってくれ。アトナコスってのは、現代文明を凌駕していたんだろ? 何故、滅ぶことになったんだ? それに、今も……」
琥珀の疑問も順当だろう。
何しろ、彼、道化宮琥珀を復活させた方法には、有機演算器の存在が必須だ。
その所在地である国が滅びていると聞けば、自分の身に起きている異変全てに対して、懐疑的にならざるを得ない。
「正確には、滅ぶことを選んだ。ですね。ご心配せずとも、有機演算器はちゃんと保存され、保護されています」
と言うか、
「有機演算器を保護するために、当時のアトナコス人は、あえて、滅ぶことを選んだのですよ」
「……悪い。言ってる意味が全く分からない」
混乱気味の琥珀に、詳しい説明を始めようとしたところ、彼の目線が一点に止まる。
つられて目を遣ると、白髪の少女がキョロキョロと視線を泳がせていた。
✠ ✠ ✠
琥珀の双眸は、その少女の容姿を映す。
小さく華奢な、幼女に近い少女だ。
黒を基調とし、白いフリルで装飾された、ゴシック風なドレスを身に纏う少女の髪は、真っ白いベリーロング。
瞳は、鮮血に染まったような深紅で、ただでさえ目立つ容姿に、存在感を上乗せしている。
ルビーにも似付かわしい虹彩が埋め込まれた、その顔立ちは童顔そのもので、総合的に見て、年頃は小学生か中学生だと推測された。
お人形のような少女だ。
少女の挙動は、幼さをさらに際立たせている。
物珍しそうに辺りを見回す動作は、見るからに、
「迷子なのでしょうか?」
ルナの台詞そのものだった。
琥珀は頬を掻き、だが、当然の如く少女の方へ歩み寄る。そもそも、目の前に迷子の幼女がいたら、無視できる性格ではない。
「はぐれちゃったのか? お嬢ちゃん」
目線の位置を合わせるために、身と膝を折りながら、少女に尋ねる。
迷子になるにしては年齢が高い気もするが、彼女は不思議そうにこちらを見て、コクリと頷いた。
「あちゃあ……、それは困ったよな。お兄ちゃんは琥珀って言うんだけど、お嬢ちゃんは何て名前なのかな?」
少女は、やはり不思議そうな目つきをしながら、
「名前……ない」
と、囁くように答えた。鈴の音に似た、綺麗な声だ。
……ない? 思い出せないってことか――?
「お父さんとか、お母さんは?」
少女がフルフルと、白く長い髪を左右に揺らす。
見た目や雰囲気からはしっかり者感が滲んでくるが、どうやら事態は思った以上に深刻そうだ。
放っておくのは危険だし、自分にはそんなことできる筈がない。
琥珀は立ち上がって、後頭部を掻きながら振り返り、連れの少女に断りを入れた。
「悪い、ルナ。案内の途中だけど……」
ばつが悪そうに目線を逸らしながら。
「いえ。ワタシも、放っては置けませんから」
「うん。ゴメンな」
ルナが仄かに微笑んでいるように見えるのは、多分、気のせいだろう。
琥珀は、もう一度少女の方を向いて、
「心配いらないぞ、お嬢ちゃん。今、お兄ちゃんが元気が出るもの持って来るからな!」
満面の笑みで頭を撫でる。
これでも、三つ子姉妹の面倒を見る兄ぃだ。幼子との接し方には慣れている。もちろん、変な意味合いではない。
まあ、少女の不思議そうな顔つきは、そのままだったが。
「ルナ、その子、ちょっと見ててくれる?」
「はい」
明るめの返答に感謝しながら、琥珀は駆け足を始めた。
✠ ✠ ✠
ルナは、感情表現が苦手な方だ。
自分自身、常に眠そうな目をしていることや、言葉の抑揚が少ないことは、コンプレックスだと感じている。
それでも、微笑みを浮かべる自分がいた。
不思議なことだ。良くも悪くも、彼の前では感情が露わになる気がする。
出会った直後は、ただただ純度一〇〇パーセントの嫌悪感しかなかったのに、じゃあ、今浮かべている微笑みには、どんな感情が宿っているのだろう?
分からない。分からないけど、一つだけ疑いようのない事実がある。
「本当に。アナタは、優しい人ですね」
珍しいことに、吹き出すような笑みが漏れた。
「…………どうして?」
ルナは、小さな呟きを耳にする。
それは、自分の前方。走り遠ざかっていく、琥珀の背中を見詰める少女のものだ。
「どうして、誰かのために、そんなに、優しく、するんですか?」
残念だが、彼女の面持ちは分からない。