第三章 琥珀とルナの放課後 ~1~
✠ ✠ ✠
〝富士境高校〟では、土曜日の授業は午前までとなっている。
昼休みを挟んで、ホームルームが終わったら、即刻、放課後に突入だ。
本日は、琥珀のレンタル権を獲得しているバスケ部も、練習は休み。
そんな訳で、琥珀とルナは〝無国籍村〟を散策していた。
二人が片手に持っているカップの中身は、有名喫茶店でテイクアウトした、人気商品の一つである。
ルナはストローに口を付け、肺活量を駆使してカップ内のシェイクを吸った。
液体と固体の中間にある流体は、なかなかに吸い上げるのが難しく、ルナの表情は僅かながら必死そうに見える。
ほんのりと頬が赤く、柳眉を歪め、瞳は閉じられ、だが、その顔つきは年相応に幼く、愛らしい。
通りを行く人々は、女性も含め一様に、彼女のことを二度見している。
確かに、これほどの美少女が、これほどに可愛らしい仕草をしていたら、誰もが気に掛け注視したくなるだろう。
琥珀も、そんなルナの横顔に、少しだけ見取れているらしく、少し頬が赤い。
やがて、んくっ。と微妙に下心くすぐられる声を立て、
「これは美味しいです。琥珀」
ルナが琥珀の方を見た。
常より見られる眠たそうな目つきだが、その両の虹彩は煌めきを宿している。
抑揚は少ないが、彼女の何時ものイントネーションと比べたら遙かに感情がこもっていて、その感想が心からのものだと判断できた。
「だ、だろ? 〝ヨギーズカフェ〟の〝チャイティーシェイク〟は、オレのオススメなんだよ」
彼女の熱視線に若干どもりながら、琥珀が動揺を悟られないよう、右の人差し指でズラリと並んだ店舗の一つを指す。
そこは、昨日、琥珀が本来の目的地としていたファミリーレストランだ。
「あの店は〝クローバーキッチン〟。富士境のご当地レストランで、和洋中にエスニックからオーストラリア料理まで、何でも揃ってる。味は普通だけど、居心地が良いんだよなあ」
「琥珀。あのお店は何ですか? 何やら、変わった造りですが……。あの赤いのは、〝鳥居〟と呼ばれるものですよね? 神社ですか?」
「〝八百万本舗〟な。土産物の専門店だよ。日本各地のご当地お土産も、あの一店で全部購入できる。で、その隣にあるのが……」
「〝UNISHIRO〟ですね?」
「やっぱり知ってる?」
「はい。お洋服がお買い得でお洒落ですし。それに、ヨーロッパ発ですから」
思いの外、好奇心旺盛に富士境観光を楽しむルナの言葉を受けて、琥珀が質問した。
「ルナって、イギリス生まれなのか?」
大手ファッションブランド〝UNISHIRO〟は、本店をイギリスに置いている。
と言うことは、と順接的に想像したのだろう。
だが、ルナは首を左右に振る。
「いえ。三年前に移住していまして、それまではイタリアに」
「じゃあ、イタリアが故郷?」
「事実上そうなりますね。ですが、ワタシは……」
と、言葉を濁したときだった。
「ひゃあぁぁっ!?」
ルナが素っ頓狂な悲鳴を上げる。
彼女の顔は熱を帯び、湯上がりよりも真っ赤だった。
✠ ✠ ✠
――ビックリしたぁ……。
琥珀が、ここまで取り乱すルナを見るのは二回目だ。
一回目は、昨日の夜。ゾンビ化の手法らしい、〝神降ろし〟と言うものに失敗したときだった。
そのときの感想は、本日昼前に、ルナ自身が口にしている。
――ワタシも恥ずかしかったんです――! ……と。
だが、現在。彼女の様子はそれ以上に恥ずかしそうだ。
頬はもちろん、耳まで赤くしながら、小刻みに震えている。
琥珀は、心の声にこう付け足す。
――ヤベぇ。可愛過ぎる――!!
自分も発熱を覚える中、にやけそうになる内心に気付かれないよう、口元を押さえて平静を心掛け、尋ねた。
「どうした? ルナ? いきなり声を上げて」
こちらの声で我に返り、それでも未だに興奮、混乱ともに冷めやらぬ口調と表情で、
「こ、こここ琥珀? あ、あれは……、あの人たちは、一体? 何故?」
彼女の指の先では、若いカップルが唇と唇を重ねている。所謂、〝路チュー〟と言うやつか。
二人の愛を確かめるのは自由で良いが、流石に、公衆の面前でイチャつくのは、勘弁願いたいものだ。
「ああ、本人たちに取っては、私たち充実してます。って、見せ付けたいだけなんだろうな」
「そ、それで? ……でも。でも、こんなところで堂々と!?」
「まあ、迷惑だとは思うけど……」
――それにしても、こんなに過敏に反応するとは……。ウブな子なんだなあ……。
ルナの様相は尋常じゃなかった。普段の彼女からは、とてもじゃないけど想像できない慌てっぷりだ。
彼女はそれでも、引き付けられているようにまじまじと、カップルの挙動を見詰めていた。どうにも、無視できないらしい。
気を紛らわせるためかストローに口を付け、それでも、目線はチラチラと上げ下げされていた。
「に、日本では、これが普通なんですか?」
「珍しくはないよ? オレとしても、ちょっと恥ずかしいけどね」
自国の文化が露呈して。と言う意味合い。
苦笑交じりに、ルナを真似、シェイクを口にする。
「そ、そうなんですか? 聞いていたより、日本は開放的なんですね。――まさか、こんな往来で赤ちゃんを授かろうなんて……」
琥珀は口にしていたシェイクを全部吹き出した。
対して、ルナがビクリと肩を震わせて、こちらに視線を向ける。
「どうしたんですか? 琥珀? やっぱり、琥珀も恥ずかしいと思いますか?」
「ちょ、待っ……! は、はあ? ルナ? キミ、何? 何言って!?」
続いて狼狽えるのはこちらだ。でも、当たり前だろう。ルナの感想が事実なら、わいせつ物陳列罪クラスの大問題が、目の前で繰り広げられていることになる。
「あ、あ、あ、あれのどこが!?」
「い、いえ。その、く、口付けを……」
「しただけだろ!? その先に行ってないだろ!?」
「先? 先って何ですか?」
「言えるかあぁぁ――――っ!!」
そこまで聞いて、もしかしたらと思う。
まさか。いや、このご時世に、そんな創作の住人のように、純粋極まりない女の子がいるのか?
琥珀は、戦々恐々と尋ねた。
「ルナ? まさかとは思うんだけど、キスしたら赤ちゃんできるとか……、思ってないよね?」
「できないんですか!?」
即、聞き返されて、体全体から力が抜ける。
そう言うことか。この子に、〝性知識〟は皆無なのか。
「ルナ。ハッキリ言うけど……できる訳ねえ」
「そんな! で、でも父は……」
「ルナ。お父さんは、きっとルナのことが大切だったんだ。だから、それ系統の知識をあえて教えなかったんだ」
考えても見てくれ、
「行って来ますのキスとか聞いたことあるよな? キスして子供ができたら……人類は飽和する」
言うと、ルナの顔に緊張が走った。
彼女は、まるで、天動説時代の人間が、地動説の現実に気付いたような声色で、
「――その通りです!」
どうやら、人口の爆発的増加による食糧難を、ありありと思い浮かべられたらしい。
夢から覚めた表情をするルナに、一つ頷きを返した。何にせよ、これで彼女は街を歩いても、いちいち悲鳴を上げることはないだろう。
「つまり、彼と彼女はただ、愛を確認し合ってただけなんだ。間違っても、尋ねたり咎めたりしちゃいけない!」
「は、はい! では、琥珀? どうやったら、本当に赤ちゃんを授かることができるのですか?」
刹那。琥珀は、墓穴を掘ったことに気付く。
「え? あ、いや、それは、その……」
「さっき言った〝先〟とは、もしかしてその方法なんですか? お願いします! ワタシに教えてください!」
その上、ルナの好奇心に火が点いた。
片や、琥珀は、冷や汗をダラダラと流しながら、青ざめていく。
……い、言え、言える訳ねえぇぇ――――っ!!
性知識ゼロの女の子に、一からアレを説明するなんて、軽いどころじゃなくて犯罪だ。
「そ、それは……、その、ふ、相応しい場で、な?」
「もしかして、結構、難解な内容なんですか?」
琥珀は突破口を見付けた。
「そうなんだ! この場で一から一〇まで説明するのは、とてもじゃないけど……」
「では、後ほど、準備ができましたら、マンツーマンで教えてください」
しかし、それは罠だった。
完全に凍り付いたこちらに、顔を寄せながら、まるで計算されたような上目遣いで、ルナが期待に瞳を輝かせながら、
「一から一〇まで具体的に。二人きりのときで構いませんから」
具体的? 二人きり? マンツーマン?
嫌でも、その光景が頭に浮かぶ。
真っ暗な部屋の中。ベッドの上に二人の人影。彼女の顔は赤らみ、だが、口元を笑みの形にして、その体を包むのは何も……、
――今すぐ、妄想を中断しろぉっ!! オレの思考回路おぉぉ――――っ!!
本当に鼻血が出そうになって、慌てて視線を逸らす。
「ル、ルナは、随分と勉強熱心だよな? そう言えば、授業でも専門的なこと言ってなかたっけ?」
お願いだから話も逸れて? と願いながら。
「もちろんです。〝アトナコス〟の末裔は、みんな勉強好きですよ?」