婚約破棄で誰よりも幸せに(本編の後日談2)
次兄視点です。
ヴァラグリーアが婚約破棄をして雨の森に旅立ってから半年。
第三王子であるシャルスターク様はレイア様を婚約者とされ、忙しい毎日を過ごされている。
ヴァラグリーアは上級学校を退学してしまったが、シャルスターク殿下とレイア様と私は未だ学生として在籍していた。
ヴァラグリーアがいなくても、特に何も変わらず時は過ぎていく。
あの時、ヴァラグリーアを貶めようとした者たちは、徐々に力を削がれ、レイア様から引き離されていった。
レイア様自身も後ろ暗い過去はいらないのだろう。
さっさと見切りをつけ、殿下の婚約者という地位を利用して新たな人脈を築こうとしている。
やはり女狐。なかなか強かだ。
レイア様が力を持てば、それは良くも悪くも殿下自身の力にもなる。
だから、レイア様が力をつけすぎないよう、関わりたくない力と関係を持たないよう、殿下は色々と動いていた。
私から見ると面倒なパワーゲームを、殿下は楽しそうに生き生きとこなしていた。
「殿下、少しお話をよろしいですか?」
机に座り、書類を読み込んでいた殿下に声をかける。
殿下は、構わないよ、と頷くと、手早く書類を片付けた。
「雨の森はお好きですか?」
唐突な私の質問。
それに殿下は一瞬、眉を寄せたが、少し考えた後、ふっと笑った。
「そうだね……。彼女と出会う前はただの地名だった。そして、彼女が婚約者になってからは、大嫌いになったよ」
どこか懐かしそうなその声音。
大嫌い、という言葉とは裏腹に、その音は優しい。
「彼女がいつもキラキラした瞳で話すのが大嫌いだった」
殿下の言う、『彼女』とは私の妹のヴァラグリーアの事だ。
元々は殿下の婚約者で……色々とあり、今は遠くへ行ってしまった。
「でも、今は……その名を聞くと心が温かくなるよ」
殿下が優しく笑う。
それはヴァラグリーアを思っているからで……。
「ヴァラグリーアに会いたいですか?」
思わず、声に出てしまった質問。
けれど、それはどう答えようとも、どうにもできない。
そんな私の不躾な質問には殿下はちゃんと答えてくれる。
「会いたい、とは少し違う。……でも、時々無性に彼女の姿を見たいって思うよ」
いつも余裕がある殿下。
だけど、その目が痛みで少しだけ揺れた。
「話さなくてもいい、彼女が私を見なくてもいい。……遠くからでいいから」
少し痛そうだった殿下の目。
けれど、次の瞬間にはその目には優しさが溢れている。
それは普段の殿下ならしない表情で……。
どうしてだろう。
こんな顔をなさるのに。
なぜ、ここにヴァラグリーアはいないのだろう。
「……私はヴァラグリーアが嫌いです」
全然まじめじゃなくて。
すぐに笑って誤魔化そうとして。
「ヴァラグリーアは自分が愛される事を知っています。……だから、何にも捕らわれず、どこかへ飛んで行ってしまう」
殿下にこんなに愛されているのに。
その愛にありがとうと言っただけで、飛んで行ってしまった。
「そうだね……。本当にあっけなく行ってしまったね」
なんの未練もなく。
笑顔で。
……きっと。
ツヴァイクがついて行かなくても、ヴァラグリーアは一人で雨の森へ向かっただろう。
愛される事を知っているから……それを捨てる事を厭わない。
「ヴァラグリーアはわがままばかりでした。一つ上の私はそれに振り回されて我慢をさせられて……。両親や兄姉の愛情は全てヴァラグリーアの物でした」
幼い日の私は何度それを妬んだことだろう。
だから、いつもヴァラグリーアに辛辣な言葉をかけていた。
それは理に適った物もあったかもしれないが、ただヴァラグリーアを傷つけてやろうと思って告げた言葉もあった。
「いつもお気に入りの従者を連れて馬鹿な事を……。従者はそれを止めず、ただ頷くばかりで。結局失敗して、従者に怪我を負わせる。それが日常でした」
木の上にいる虫が見たいとわがままを言い、木に登ろうとした。
ツヴァイクが、かわりに自分が、と木に登るのだ。
そして、ツヴァイクが木から落ち、怪我をする。
「……私はヴァラグリーアに厳しい事ばかり言っています。だから、困ったときは一番上の兄や姉、父母を呼べばいいのに」
動けなくなったツヴァイクを見て、おろおろと涙を零す。
そして――
「いつも私の名を呼ぶんです」
困ったときはいつも私の名前を呼ぶ。
厳しくて、冷たくて……酷い言葉ばかりを言う私。
けれど、私を呼ぶのだ。
『ロウおにいさまー……たすけて……』
小さな妹が私と同じとび色の瞳を濡らして、私の名を呼ぶ。
わーん、って泣きながら、一番最初に私の名を呼ぶのだ。
「……要は、君も彼女が大好きだったってことだろう?」
「……嫌いです」
殿下が呆れたような顔をして私を見るので、眉間に皺を寄せてボソリと言い返した。
そう。
嫌いだ。
わがままで。
愛される事なんか当然という顔をして。
私の言葉をいつも聞き流して。
愛してくれる人を置いて、勝手にどこかへ飛び立ってしまった妹なんか……。
「……雨の森で何かあっても、もう私は助けに行けないのに」
一人で泣いてないだろうか。
ツヴァイクと二人で馬鹿な事をして、困っていないだろうか。
―ー『ロウお兄様、助けて』と。
――私の名を呼んでいないだろうか。
「ロウズリート、良く分かった。……君は妹離れが必要だね」
殿下がクスクスと笑う。
俺はそんな殿下をチラッと横目で見た。
「殿下が……このまま、ヴァラグリーアといてくれたら……と」
自分勝手な望みだった。
ヴァラグリーアが雨の森に行きたい事は知っていたのに……。
ヴァラグリーアといる時の殿下の楽しそうな顔。
そして、殿下の傍にヴァラグリーアがいれば、いつでも助けてやれる。
そんな日がずっと続けばいい、と。
「……私はこれでよかったと思っているよ」
殿下がクスクス笑ったまま私を見る。
「レイアにも感謝してる。あの子が色々としてくれたおかげで、彼女を手放す機会が来たからね」
冗談交じりで、殿下が言葉を続けた。
けれど、ふと困ったような声音になる。
「何もなければ、……私は心の奥で謝って……それでも、ずるく手に入れようとしただろうから」
……ずるく手に入れたらよかったのに。
ヴァラグリーアだって、殿下との日々を少しずつ受け入れていたのに。
「で、その手に持ってるのはなんだい?」
「……手紙です」
私が眉間に皺を寄せたまま殿下を見ていると、殿下が私の手の中のものに気づく。
そう。今日、こうしてヴァラグリーアの話をしているのは、ヴァラグリーアから殿下に手紙が届いたからだ。
婚約破棄に至った経緯は伏せられてはいるものの、外聞は良くない。
だから、ヴァラグリーアから直接殿下に手紙を書くことはできないから、兄であり、殿下の側近である私を経由して手紙を届けようと思ったらしい。
「……ああ。だから、こんな話になったんだね?」
「はい」
殿下はこの手紙が誰からのものであるか、わかったらしい。
差出人は聞かないが、その手を私へと伸ばす。
そして、私から手紙を受け取ると、机の引き出しからペーパーナイフを取り出して、封を切った。
中から出て来た三枚程の便箋を取り出し、熱心に見ている。
……が、唐突に笑い出した。
「ははっ、なにこれ……っ」
殿下がこんな笑い方をするのは珍しい。
いつもクスクスとどこか人を食ったような笑みが多いのに。
「君の妹、すごく絵が下手だね……っ!」
「……はい」
確かにヴァラグリーアは絵がすごく下手だ。
少しだけ目に入ったその絵は雨の森の何かを描いたようだが、赤と黄色のナンセンスな色合いと無駄に厳しい視線をした目。なのに口はかわいい。
我が妹ながら、その壊滅的な絵のセンス。
「本当に君の妹って変な子だよね。雨の森の事がこと細かく書いてあるよ。……まだここにいた時。私が彼女から雨の森の事を聞いていたから、私に伝えようと思ってるんだね」
殿下はヴァラグリーアのへたくそな絵の攻撃から復帰したらしく、いつものクスクスした笑いに戻っている。
その顔はとても優しくて……。
そして、しばらくその手紙を見ていたが、そっと畳んで封筒へと戻した。
「また、次があれば渡して欲しい」
「はい」
私は殿下から手紙を受け取り、それをしまう。
殿下に宛てた手紙だが、殿下が保管することはできないから。
「……彼女が夢を叶えてよかったよ」
殿下の小さな。
けれどしっかりした声。
「私は飛んでいけないけれど、ここでしっかりがんばらないとね」
「……お供します」
いつもの台詞。
殿下にどこまでもついて行くという忠誠の証。
それを言えば、殿下はクスクスと笑った。
……今でもやはり、殿下にはヴァラグリーアが似合っていたと思う。
二人が一緒に居ればよかったのではないか、と。
けれど、一人で飛んで行ってしまう妹には、すべてを捨てて一緒に飛んでいけるものしか傍にいられないのかもしれない。
きっと、ツヴァイクはどこへでもついていく。
ヴァラグリーアが飛んでいこうと言えば、どこへでも。
だから。
……これでいいんだろう。
私の言う事なんか聞かない妹。
大嫌いな妹。
――誰よりも幸せになって欲しい。