婚約破棄で見た夢(本編の後日談)
ツヴァイク視点です
雨がシトシトと音を立てながら降り続ける。
夜の帳はかなり前に下り、もう朝日がのぼる頃だ。
たくさんの木々に囲まれ、苔むした地面。
そこに簡易の小さな天幕を立て、俺とお嬢様は身を寄せ合うように座っていた。
雨除けの外套を羽織ったお嬢様の肩が俺の肩に当たっている。
一晩中こうしているが、お嬢様は俺に目をくれる事もなく、ただひたすらに一点を見つめていた。
お嬢様の目線の先にあるのは満月の下で輝く銀色の繭に半分ほど体が包まれたイモムシ。
切り株から生えたひこばえにぴたりと張り付いている。
お嬢様はその様子を観察しながら、手元の紙に必死で絵と文とを書き綴っていた。
……絵がひどい。
天幕の小さな灯りだけを頼りに描いたとはいえ、そのあまりにも現物とはかけ離れた絵を見てこっそり口元だけ笑う。
この絵では施設に戻った後の研究に困るだろう。
俺はお嬢様を助けるために手元の紙にひたすら絵を描いた。
そうこうしている内に夜が明ける。
日が暮れる頃はまだイモムシであったそれは、いまでは立派な繭になっていた。
お嬢様もようやくひと心地ついたらしく、小さな天幕の中で、んーと体を伸ばす。
「ツヴァイク、絵描けた?」
「はい。我ながら上出来だと思います」
お嬢様が狭い天幕の中でこちらの手元を覗きこんできた。
俺はお嬢様が見やすいように手元の紙をお嬢様の方へ向ける。
お嬢様が熱心に覗きこんでくると、自然と体は近くなって……。
「さすがツヴァイク。これならまとめれば、ちゃんとした資料になるね」
「はい。……お嬢様の絵は」
チラリとお嬢様の持っていた手に目線を投げれば、お嬢様はあははと笑う。
「この絵はね資料用じゃないよ。殿下に手紙を書こうと思って」
「殿下に?」
「そう。殿下はいつも雨の森の話を楽しそうに聞いてくれたから、きっと雨の森の事を知りたいと思って」
「……そうですか」
お嬢様が殿下と呼ぶのはこの国の第三王子であるシャルスターク様の事だ。
二年の歳月を婚約者として過ごされたお二人は半年ほど前に婚約破棄をされ、今では没交渉という事になっている。
世間では第三王子が心変わりをされ、お嬢様が手酷く振られた事になっているが、実際はそうではない。
お嬢様に聞いた内容だけでは真実はわからなかったが、第三王子がお嬢様の事を思って、婚約破棄をされたのだろうと言う事はわかった。
「このイモムシの繭から糸を紡げば、かなりいい布地ができると思う。きっと殿下も喜んでくれるよね」
「そうですね」
お嬢様は第三王子の事を思ってか、にこにこと笑う。
俺はお嬢様が笑うから、一緒ににこにこと笑った。
「よし、今日も夜通しで疲れたね。帰ろう帰ろう!」
「はい」
お嬢様が手元の紙を集め、大事そうにカバンに入れる。
俺もそれを見て、手元の紙を雨に濡れないように注意深くカバンの真ん中の方へと入れた。
そして、雨除けの外套を被り、天幕の外へと出る。
「早く布地を完成させたいな。そうしたら、こんなに重いのも簡単になるもんね」
「そうですね。イモムシの生態はだいたいわかりましたから、次は養蚕の方法ですね」
お嬢様と話しながら、簡易の天幕を共に片付けていく。
木でできた骨組みは軽量の物を使っているため、それほど重くはないが、毛皮をなめしてつくられた幕は重い。
また、油を塗ったり、広げて陰干ししたりと手がかかる。
今着ている雨除けも重量があり、肩が凝ってしまう。
「うん。まずは餌の問題だよね。雨の木の若木の葉がどれぐらい準備できるか……」
「また施設長と相談ですね」
「そうだね」
うーん、と考えるお嬢様を見ながら、片付けを終え、重たくなった荷をよいしょと背負った。
お嬢様もたくさんの荷が入ったカバンを背負い、とことこと歩きはじめる。
雨の森にしかない雨の木。
その雨の木の若木の葉しか食べないイモムシ。
今、お嬢様が熱心に観察しているのはそのイモムシだ。
赤と黄色の毒々しい配色のイモムシ。その繭は雨がたくさん降るこの森にあって、その雨に浸食されない。
お嬢様はその不思議な性質に目を付けた。
お嬢様はその繭から糸を作り、水に強く、軽い。
そんな布地を作り出そうとしているのだ。
一晩中起きていて疲れているだろうに、しっかりと歩いて帰っていくお嬢様の背を追いながら、そっと目を細める。
お嬢様の黄緑色の髪がキラキラと朝日に輝いていた。
お嬢様が昔からあこがれていた雨の森にある新生物の研究施設。
そこで俺達二人は職員として働いている。
お嬢様は研究員。俺はその私設秘書として。
本来なら職に就くまでに色々とあるのだろうが、お嬢様は多額の寄付金とフランダリ家の息女という事ですんなりと研究員になった。
第三王子の元婚約者で旧貴族の娘でパトロン。
この施設へ来た時、お嬢様を迎えた職員の顔は一様にいいものでななかった。
性格が悪く、第三王子に婚約破棄をされ、実家からも愛想を尽かされた高飛車なお嬢様が辺鄙な施設へ追いやられたのだろうと考えられていたからだ。
わがままなお嬢様の相手をして、しかしパトロンが故に機嫌を取らねばならない。
それは職員たちにとって、楽しい未来ではなかった。
「施設長、帰りました!」
「おう、今日もお疲れさん」
雨の森から帰り、研究施設の隣にある宿舎へと入る。
雨の森は近くの街から離れているため、施設の職員は皆、宿舎に部屋を持っているのだ。
その廊下を歩いていると、前から施設長が歩いてくる。
お嬢様は嬉しそうに施設長の元へと走って行った。
「ツヴァイクとも話したんですけど、そろそろ養蚕の方法を具体的に考えてみます」
「そうか。雨の木については他に研究してるヤツがいるからな、そいつに聞くといい」
「はい! 本当にここはすごいです。みんな知識があって知りたい事がどんどん湧き出てきます」
銀色の髪を短く刈り上げ、無精ひげを生やした四十手前の施設長がお嬢様の答えにガハハと笑う。
施設長は研究員というよりは冒険家のような出で立ちだ。
お嬢様もそんな施設長の前でまったく違和感なく馴染んでいる。
最初は腫物のように遠巻きにしていた施設の職員たちはお嬢様が宝物――作業服や作業ブーツを着て、積極的に雨の森へと探索に行く様子を見て、徐々に受け入れてくれた。
きっとお嬢様の人懐っこさも、ここでの立場を良くしてくれたのだと思う。
「そいつは良かった。お貴族様は困るが、お前は雨の森を真剣に考えてるからな。……ここ汚れてるぞ」
施設長がそう言って、お嬢様の頬についていた土汚れを手で拭う。
お嬢様はあれ? という顔をして自分の手で頬をゴシゴシと擦った。
「とにかく、まずは寝ろ。その後は報告書な」
「はい。起きたら作ります。……ちょっと時間かかるかもしれませんが」
お嬢様が施設長を見て、あははと笑う。
俺はその笑顔を見ながら、ぎゅっと胸が痛むのを感じた。
施設長は雨の森に熱中しすぎて、十年ほど前に奥様と別れている。
お嬢様とは年がいささか離れているが、それでもお嬢様が望めば問題ない。
施設長だけではない。
この施設にはたくさんの若い男性がいる。
そして、皆、お嬢様と同じく雨の森が大好きでここまでやってきた猛者たちだ。
もちろん、お嬢様と話が合う。
お嬢様もいつも楽しそうに笑っている。
その姿を見ていると胸がぎゅっと痛むのだ。
小さな天幕の中で触れた、細い肩を思い出す。
一晩中そばにある、小さくて温かい体。
こんな事、本当はないはずだった。
お嬢様が第三王子と婚約されて、もう二度とこんな時は訪れないはずだった。
お嬢様とこうしていられる事が嬉しい。
お嬢様が夢を叶えている姿を見られることが嬉しい。
でも、いつまでもこうしていられるわけではないから……。
第三王子との婚約破棄が決まったと言っても、お嬢様はフランダリ旧伯爵家の息女だ。
年も若く、器量だっていい。
性格は……少し淑女というには活発すぎるが、それだってお嬢様の魅力の一つだと俺は思う。
第三王子ほどの家格は望めずとも、幸せな結婚をするチャンスはたくさんあるはず。
俺は邪魔にならないように、そっと見守るだけ。
お嬢様の相手が俺を不快に思えば、すぐにお嬢様から離れるつもりだ。
何度も言い聞かせてきた。
俺はお嬢様のものだけど。
――お嬢様は俺のものじゃない。
「おい、お前の彼氏が苦しそうな顔してるぞ」
施設長が意味ありげに笑って、お嬢様の髪を撫でる。
お嬢様は髪を撫でられながら、きょとんとした顔で俺を振り返った。
「どうしたの?」
とび色のまるい目が俺を映す。
俺はどんな顔をしていたのか。
でも、俺は施設長の放った言葉が良く分からなくて、はて、と首を傾げた。
「かれし?」
「えっ……彼氏だよね?」
首を傾げた俺を見て、お嬢様がもっと首を傾げる。
かれし。
……彼氏?
「えっ、私、雨の森に行こうって言って……そしたらツヴァイクは『はい』って……」
「はい。……従者としてついて来いと言うことですよね?」
「……っ、ちがっ」
お嬢様がとび色の目を大きく開いて、俺の方へと走って来る。
「だって、ツヴァイクはあの時は私の従者じゃなかったでしょ?」
「……そうですね。長兄様の従者でした。……だから、お嬢様の従者に戻れって言う事かと思いまして」
必死な様子のお嬢様に俺は首を傾げたまま、言葉をかけた。
お嬢様がそんな俺の様子を見て、口をパクパクとしている。
「あれはっ……そのっ、ツヴァイクを王都から引き離すんだから、そのっ……精いっぱい勇気を出して……」
「……お嬢様が五歳の時、同じようにおっしゃられていたので」
お嬢様と出会ったのは十年前。
長兄様や旦那様、奥様に駄々をこねて、お嬢様が俺を従者にした時。
『わたしはツヴァイクがいいの。ほかのひとじゃいや!』
そう言って、俺の腕をぐいぐいと引っ張って、じっと見上げてきた。
そして……。
『ツヴァイク、いっしょにいこう?』
その時のまるくて潤んだとび色の瞳を思い出して、胸がきゅうっとする。
すると、お嬢様は俺の腕をぎゅうっと掴んだ。
「五歳の時と今とは違うよ……!」
そして、俺の目をじっと見上げる。
「ツヴァイクの人生を下さいって……いった……つもりで……」
だけど、最初は大きかった声がどんどん小さくなり、俺を見上げていた目もちらちらと泳ぐ。
……彼氏、という言葉と今の話。もしかして。
「……俺、プロポーズされてたんですか?」
「……っ」
お嬢様の顔が目に見えてぼぼっと赤くなった。
「わ、たし……恥ずかしい。……みんなに彼氏って紹介してた」
お嬢様が俺から手を離して、目元辺りに手を持っていく。
本当に恥ずかしそうに身もだえしている姿に……。
俺は嬉しくて。
なんだか泣けてきて。
ぎゅうっと抱きしめれば、俺の大好きな黄緑色の髪が頬をくすぐる。
「……っ従者じゃなくて、いい、んですか?」
「だから……もう十三歳の時から従者じゃないから」
「彼氏で……いいですか?」
「……っ、だからっ、私はもうみんなに……言い触らしてるから……っ」
お嬢様がおでこをぐりぐりと俺の胸に押し付けた。
「俺はずっと前からお嬢様のものです。……お嬢様は……俺のものですか?」
「だから!」
お嬢様が少し体を離して、じっと俺を見上げる。
いつもの上目遣いだけど、いつもよりずっと潤んでいて……。
「私を――ツヴァイクの彼女にしてください」
耳まで赤くながら必死な様子で伝えてくれる。
その姿が本当に。本当にかわいい。
これでいいのかわからない。
お嬢様にはもっと素敵な男性が似合っていたのかもしれない。
けれど……。
俺はいつだって。
お嬢様の上目遣いの頼み事を断れたことはないから。
「っはい、お嬢様。……喜んで」
泣きながら笑う。
お嬢様もほころぶような笑顔で答えてくれて、ポケットから出した白いハンカチで俺の涙を拭ってくれた。
「ツヴァイクは泣き虫」
「これは……いつもっ、お嬢様が泣かせるから……」
そこまで話して、視線を感じて、ふと目線を上げる。
そこには半笑いで俺達を見ている施設長がいた。
「なあ、これ笑っていいやつか?」
「……っ」
施設長の言葉にその存在を思い出したのだろう。お嬢様が身もだえる。
そんなお嬢様もとってもかわいい。
俺は一度言ってみたかった言葉をここで言う事にした。
「施設長……。お嬢様は……俺の彼女です……っ」
廊下の壁に寄りかかってこちらを見ている施設長に泣きながら話す。
お嬢様……俺の彼女っ。
自分の発した言葉に自分で感動した。
すると施設長はそんな俺を呆れたように見た後、はぁと息を吐く。
「お前以外、全員知ってるわ」
施設長の言葉に腕の中にいるお嬢様がまた身もだえた。