侍女視点 -私のお坊ちゃま―
お休みになられましたか。
私の腕の中でお仕えする坊ちゃま・アレク様がすうすうと安らかな寝息を立てている。
アレク様を起こさないよう慎重に、しかしいち早くベッドできちんと寝かせて差し上げる為に早足で宛がわれた寝室へとお運びする。
珍しく子供らしい顔を見せた主人を大人らしく助ける為に。
この私、ダニエラ・ラッツェルはグーテンベルク伯爵家に仕えるしがないメイドだ。
一つしかない名の通り、貴族ではなく平民だ。
それなのに伯爵家に雇われているのは私が裕福な商人の娘で、教養と礼儀作法を身に着けているからだ。
そんな立場なのにどうして使用人をしているかというと、父が事業に失敗し、破産したからだ。
元々我が家の財をなしたのは祖父で、その跡を継いだ父には商才は無かった。
だからいっそ私が代わってしようかと思ったが、当時はまだ十六の小娘だったし、そもそも父は女子供が出しゃばるのを良しとしない頑迷な人間だった。
それこそ路頭に迷うことになろうと助けを突っぱねるような。
現に父はそうした。
身一つで世間に放り出された私は二十にもなっていなかった。
いっそ一から店を立ち上げようかと思ったが、この社会では女性の地位は無いに等しい。貴族でもない平民なら尚更だ。
そこで商売の道には早々に見切りをつけ、私は身に着けて来た教養と技能を武器にお屋敷勤めをすることにした。
最終的に選んだのがグーテンベルク伯爵家で、当初はメイド長待遇で雇われていた。
年に似合わぬ大抜擢のわけは当時旦那様が大恋愛の末に駆け落ち同然に奥様と一緒になられた頃で、良識ある年嵩の使用人はそれについて良く思っていなかったからだ。
そこでうるさく言わない若いメイドが欲しくなり、かつ十分に彼女達の代わりを務めてくれるメイドとして私に白羽の矢が立った。
それから数年。お屋敷での勤めに何ら不満は無かった。
次男のアレク様が生まれて、旦那様と奥様の子供達に向ける愛情の差を目の当たりにしても貴族ならそういうものだろう、と一顧だにしていなかった。
気が変わったのはアレク様が一歳の時だった。
その日、私は部下のメイドがうっかり戻し忘れていたアレク様のお着替えを持ってアレク様の部屋へ行った。
私がするまでも無かったが、彼女達は物言わぬアレク様の部屋の用事を言いつけられるとこれ幸いと仕事を怠ける。
その内本来の用件を忘るので、いざ着替えが必要になった時に余計な一悶着が起きるだろうと思うと、私が持って行った方が後々面倒が無い。
それだけの、理由だった。
一応断りを入れてから中に入りかけたが、ドアを半ば開けて動きを止めた。
…何をしているの?
アレク様はベビーベッドの上で座り、何事かを唸っていた。
粗相をしたのかそれとも具合が悪いのか見極めようと、言っている言葉に聞き耳を立てたが、そのどちらでもなかった。
アレク様は発声練習をしていた。
「あ~」とか「う~」とか言葉にならない声を出していたと思うと、「みず~」や「ごはん~」などと単語の練習を始めた。
赤ん坊の時なら言わずとも世話してくれるだろうに、言葉にして頼まないといけないと自主的に練習をするようになる程、誰も何もしなかった。
私も含めて。
唇を引き締めてから先程より大きな声で断りを入れるとアレク様の声はピタリと止まった。
まるで大人に弱みは見せられない、というように。
しかし、アレク様の努力する姿を見ていないからこそ、突然年に似つかわしくない事が出来るようになるアレク様を気味悪がる。
母性本能に目覚めたわけではない、哀れな子供だと思ったわけではない。
ただ、このままにしてはいけないと、焦燥にも似た感情に襲われた。
その直後私はアレク様の世話役にしていただくよう訴え、奥様に驚かれた。
それはそうだろう。メイド長という地位を擲って求めたのが屋敷で一線引かれ、遠ざけられている子供のお守りなのだから。
それこそ私でなくとも見習いメイドでも事足りる仕事なのだから。
結局私の願いは聞き届けられ、私はアレク様の側役兼教育係となった。
近くに侍るようになったが、アレク様の努力をまだ早いと取り上げはせず、助けて来た。
だからアル様よりずっと早くはいはいや掴まり立ちを初めても止めなかったし、歩行訓練も手を取って助けた。
私がするのはアレク様が口にして訴える前に望む所を察して先回りし、して差し上げることだ。
幼く未熟な子供が当たり前に周りにしてもらえることを。
しかし、私のような始終無表情な女と顔を突き合わせ続けたせいかアレク様の感情表現は発達しなかった。
さして面白いことも言えなかったので、アレク様が笑う機会など無かったのだ。
この辺りはアル様にお願いするとしよう。
私が側にいてもアレク様のしようとすることを助けはしても止めはしないので、アレク様は成長を焦り、無理をする傾向がある。
それは今日もで、大人も音を上げるだろう過密にして過剰なレッスンに泣き言一つ漏らさなかった。
教師達はヴォルフ様から責任の追及をされるのを恐れて必要以上にアレク様に厳しく接した。
だからこそ彼らも指導についていくアレク様に恐れをなし、驚嘆していた。
そもそも気づいてもいいようなものだ。
どう考えてもアレク様の振る舞いはすでに三歳児のそれではないし、そもそも三歳児に大人は多くを求めない。
彼らは一体アレク様にどれだけ完璧で精緻な行儀作法を求めたのか。
この調子だと王子としても恥ずかしくない振る舞いが出来るのではないだろうか。
とはいえ教師達のやり方に否を唱えはせず、ただ背後で控えていた。
私がしたのはその時々で適度に息抜きをさせ、栄養補給をさせたことだけだ。
指導に食らいつくアレク様が志半ばで倒れないよう。
この達観しているようで意外と負けん気の強いご主人様は、どうせ明日も倒れるまで無理をするのだろう。
…たとえ倒れても私が運んでくれると信じて。
だったら預けられた信頼の分は報いたいと思う。
眠る幼い主人に改めて決して口にしない忠誠を誓う。